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吹き荒れる腕角力旋風② そして誰がそれを阻止するか

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[ 月刊ボディビルディング 1973年1月号 ]
掲載日:2017.10.13
若木竹丸
前号に引き続き今回は,プロレス界の2強豪と対戦したという山本氏の談話からこの稿を進めよう。

猪木,吉村両氏の巻

 前号で私は,日本腕角力協会々長山本哲氏の談話(記者代弁記事)による東京中日スポーツ(45年7月21日付)〝トピックS'70〟に,山本氏が大関清国を捻り,他2名の有名レスラーを捻り倒した云々の怪気炎の中で,清国のみを載せ「プロレスラーの方は項を追って紹介する」といったが,そのプロレスラーとは,いまをときめく人気者アントニオ猪木君であり,もう1人は実力者といわれる吉村君なのである。
 そこでもう一度,この新聞1/2ページ大の記事面と,掲載写真について触れておこう。
 まず写真の方だが,そこには3枚の写真が載っており上段には縦11センチ横12センチ前後の門弟による腕角力の試合(練習の写真?),左中段に縦10センチ横7センチ大の山本氏の令息と思われる山本将人君(5段とあり)の腕を曲げた上半身の写真,右下段最後の1枚は縦10センチ横8センチ大の山本氏の近影で,そこには右腕を誇る写真が飾られ,その解説文には,〝大事なのは根性です〟の小見出しに次いで,日本腕角力協会々長の山本哲名人。この腕には,プロレスの吉村,猪木らも勝てなかった……。と,このように記されている。
 また本文の終わりの方に,
 ――山本さんが協会をつくったのは昭和9年だった。それから36年,山本さんの道場に通ったお弟子さんは3900人にのぼる。清国もその1人だ。(筆者註・ここまでは前回の〝清国関の巻〟で書いた)5級から1級まで,さらに初段,2段と昇段していくが,現在最高は原秀吉さんの7段。年1回昇段試合が開かれる。
 ときには〝道場破り〟も現われる。ビルをこわすのが商売という腕自慢も門をたたいたが,山本さんの腕にはかなわなかったという。プロレスの吉村やアントニオ猪木といった面々も歯がたたなかった。――(後略)とある。
 前述した山本氏の写真解説の個所には――プロレスの吉村も猪木も氏にかなわなかった――とあって,どの程度で両氏が山本氏に破れたかに救いがあり,読む者に勝敗についての疑問を抱かせる余裕があったが,本文の方では――山本さんの腕には吉村,猪木といった面々も歯がたたなかった――と。はっきり書いてある。
 猪木君去り,しかも馬場君までとび出したあとの日本プロレスを守りながら,坂口君を守り立て,なんとか力道山から続いた伝統を死守しようとする吉村君(この人,某氏等2・3の人の話では,実力日本一との噂を聞く)が山本氏には歯がたたなかったという。
 一方,ちかごろ日本プロレスから離脱し,新日本プロレスなる新協会を結成し,つい先頃,世界的強豪カール・ゴッチを相手にそのタイトルを奪ったというアントニオ猪木君が,これまた山本氏に子供あつかいされたというのであるから,これでは両氏のファンなど相当頭にきたのではないか。
 しかもその新聞の見出しには,ごていねいにも〝アントニオ猪木もかなわない〟とゴジックによる大活字を使っており,猪木ファンにとっては,まさに踏んだり蹴ったりというところであろう。
 もっとも山本氏としては,まさかこんなにまで大々的に猪木トーバツを載せてもらうつもりではなかったのではないかと思いたい。
 また,「歯がたたなかった」云々は山本氏が記者との対談中「……問題にしなかった」とでもいうような,あるいはこれに近い言葉が吐かれたであろうところから,記者の歯がたたなかった,という表現となったものと思われる。
 とにかく,この記事を読んだあとの私の気持は,何かやりきれない寂寥感におそわれたことは事実であった。
 しかるに,これに追打ちをするようなことがらが間もなくテレビで発見された。やはり猪木君のことである。
 しかもその相手は,山本氏よりもはるかに強い原秀吉君でもなく,これまた山本氏より強いと思われる伊藤政美君でもなく,私の始めて知る若々しい青年某君であった。
 昭和45年10月8日のことである。その日,なに気なくテレビのチャンネルを捻ると,若い連中10人ばかりが,それぞれ逞しい上半身裸体で台を挟んで腕角力を競う光景が写し出された。日本腕角力協会の連中だ。番組は6チャンネル。TBSのベルト・クイズQ&Qの時間である。クイズを始める前にこの場面を挟んだのであろう。
 司会の増田貴光君が,舞台の右端にいた男らしい青年に何かいった。その瞬間に字幕が映って,山本将人という文字が浮きあがった(山本氏の令息か)。司会者はまたも将人君に向って何か一言二言聞いた。何を尋ねたのか私には判らなかったが,すると将人君が「……プロレスのアントニオ猪木を腕角力で負かしました」と,そして次の問いに「ハイ5段です」とはっきりした歯切れのよい言葉で答えていた。
 この日のテレビには,会長の山本哲氏と原秀吉氏の姿は見当らなかったが要は日本腕角力協会の宣伝最中?に起こった予期した戦略とでもいおうか。プロレスの強豪アントニオ猪木君を腕角力で負かしたという素晴らしいPR付きの1コマだった。
 何はともあれ,将人君のこの言葉を聞いた視聴者は,アントニオ猪木ともあろう者が,この若い世間的にはまだ名もない(将人君失礼)青年にまで負けたと聞けば,彼の日本人ばなれのしたマスクに似合ったあの立派な体と腕力に,清国同様の大きな疑問を抱くことは間違いない。これが人の口から口へと伝わったというのではなく,ましてや先の一流紙にも劣らぬ宣伝力の強いテレビでの出来事だけに,ことは決して小さくない。
 先には将人君の父君?哲氏が,この猪木君と吉村君を軽く捻り倒したと語り,いままた公器であるこのテレビで令息の将人君がアントニオ猪木君を負かしたと語っているのでは,さすがの猪木君も,腕角力は腕角力と割りきることができるだろうか。
 この他にも同腕角力協会の猛者連に捻り倒されたプロレスラーは存在すると思うのだが,名前を公表されない人は,そのことを幸運と思う前に,花形選手でないために腕角力協会から見逃された,ととる方が正しかろう。
 もっとも,いまその名前が公表されなくても,今後栄光あるスターにでもなれば,やがて大関清国,吉村君,アントニオ猪木君同様,新聞紙面にテレビ面にいやおうなくその名を記され,声を大にして語られることを覚悟せねばなるまい。
昭和45年7月21日付の東京中日スポーツ。この新聞の内容は本文に詳し。

昭和45年7月21日付の東京中日スポーツ。この新聞の内容は本文に詳し。

馬場,小林両氏の巻

 ここまで書いてきてフトこんなことを考えた。
 確か吉村君は日本プロレスを代表する選手。そして猪木君は,さきごろ新日本プロレスを結成した選手代表。残るプロレス団体はストロング小林を擁する国際プロレス,彼もまた国際を代表する選手のはずだ。そして馬場君はついさきごろ全日本プロレスをつくり旗上げしたばかり。
 これら花形スターの中で,吉村,猪木両君は日本腕角力協会に狙われ,既に敗北を喫しているので,残るはストロング小林とジャイアント馬場の両君である。
 小林君とは何回か話をしたこともあり,彼の体力については知る機会をもったが,腕角力力の方は知らない。テレビなどで見ると,このところ一段と逞しくなり,あの50センチ近い上腕と凄い肉体をもとに,真の世界一流をめざしていると思われるが,腕角力では協会の一流どころにまだ一歩二歩譲らざるを得ないだろう。(もっともこれは私自身の感じであるが)
 最後に馬場君を残したが,この馬場君について,元・不二サッシ重量挙部監督鳥島公雄氏が,「昭和33~34年頃だったと思いますが,不二サッシ重量挙部に石井憲治君というのがいて,当時18~19歳でしたがプレス85,スナッチ90,ジャーク107ぐらいでした。この石井君が,当時巨人の二軍選手で多摩川寮に住んでいた馬場君と親しく,よく2人で腕角力をやったということですが,馬場君はこの石井君に一度も勝てなかったそうですよ」と,このように筆者に語ってくれたことを思い出す。
 現在2m9とかいわれる彼だが,おそらく当時も2m前後の巨人であったであろう。当然その力も常人とは比較にならぬものがあったはずだが,この話を聞いた限りでは,腕角力はあまり得意ではなかったようだ。
 一方,馬場君の相手をした石井憲治君は,数年後立派に一流選手になった人であるが,馬場君と腕角力に興じた頃はまだ二流の選手に過ぎなかったのである。
 もっとも馬場君にしても,このときから既に10数年の歳月が流れており,その間,プロレスラーとして血の姿むような努力がはらわれ,当然体力的にもいちじるしい進歩があったであろうことは,あらためていうまでもないことだが,何しろ腕角力力というのは腕角力に適した運動法によってのみ効果を発揮するのであるから,たとえ10何年間の体力増進があっても,前記の腕角力に適する肉体の動きが少ない場合は,大きな期待はもてないのであるというわけで,この2人の人気スターが,きょうただいま日本腕角力協会に挑戦され,もしそれを受諾した場合どう見ても勝ち目はなく,そのあげくは,おそらく日本におけるプロレス4団体の代表選手がことごとく彼等の軍門に降ることになるだろう。
 ではプロレスの巻はこれくらいにして,次に重量挙選手について述べてみよう。
 ところで,この重量挙選手のことであるが,これまた相撲,プロレス同様彼らを一蹴したという朗報に接していないところをみると,かつては,故辻井氏に原氏……そして,現在のことは知らぬが,もし戦っていれば,原氏に伊藤氏に蹂躙されたものと思って間違いなかろう。
 また,この重量挙選手に対する日本腕角力協会選手の対戦については,かつてこの道日本一といわれた辻井鶴吉氏の口から,いくつかの例を聞いてはいるが,幸か不幸か,同協会対田子の浦,清国,猪木,吉村,玉の海等々の諸氏の如く,公の場で,公の機関での発表がなかったように思われるので,この項では個々の対戦話はまたの機会に譲ることにして,同じく重量挙選手ではあるが,一外国人であるところの某君と戦うまでの山本氏の社交性と,その結果についてを私宛書簡から書き写してみたいと思う。
 なおこのあと,某重量挙選手の腕角力に対する悟りの如き心境や,例外と思われる人々2~3人を除いた重量挙選手に対する宿命とも思われる対腕角力論を,私なりに書いてみたい。

イクバル・バット氏の巻

記事画像2
 では始めに,日本腕角力協会対一外国人重量挙選手の話に移るが,その前に,この山本氏の書簡を見て誰もが感ずることは,これまでスターといわれ花形選手と称えられた力に生きる士をバッタバッタとなぎ倒し,ふるえあがらせている歯科医師山本哲氏という人物が,いかに宣伝力もたけ,その道では優れた男であるかがわかり,興味をそそられることであろう。
 また,このときの腕角力の結果は,勝敗はともかく,変わった1コマとして彼らの腕角力史に記されるものであろう。
 書簡の日付は,昭和33年6月3日。いまから14年ばかり前のものである。(筆者註・本稿に必要な個所のみ掲ぐ)
 「……アジア大会も成功のうちに終わり,私はこの機にアジア親善腕角力の大会でももちたいと思い,同封のようなお誘いのビラを各国選手の宿舎に配布しましたところ,各国の選手たちから個人的にはだいぶ反響があったらしいのですが,監督が,スケジュールがくるうため乗り気になれず,というところでした。
 そこで,辻井,原両君がパキスタンの重量挙選手で,前回ニューデリーで開いた大会のとき,日本の選手を子供あつかいしてアジアの強者と自任しているIqubal Butt選手を個人的に(中略)道場につれ出して親善腕角力試合(中略)をしました。(中略)4月29日のことでした。詳しいことは,ご拝眉の節か辻井君がおたずねした折にお話しますが,試合の結果は,当方の4段伊藤政美君を始めに出しましたら完全に勝ちました。左は強くて皆やられました。そのときの写真いろいろ撮りましたが先ず1枚お送りいたします。窪田氏,大沼氏,倉田氏もともに来ました。(中略)
 試合のルールは,先方のいうとおり写真のような型でやりました。当方の型でやれば問題ではありませんでした伊藤君でも……(後略)」
 以上が筆者宛の書簡の大要であるが国内に飽き足らず,海外にまでその敵手を求めんとするこの人の熱意と外交的手腕には,ただただあっばれという他はない。
 なお文中,山本氏がアジア親善腕角力を計画して各国選手宿舎にビラ(半紙大の洋紙に英文タイプで)を配布し云々とあつたが,宣伝ビラの内容は次のとおりである。(訳文は山本氏方から寄せられたものである)

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イクバル・バット氏(左)と対戦する原秀吉氏。中央眼鏡をしている人が会長山本哲氏。

イクバル・バット氏(左)と対戦する原秀吉氏。中央眼鏡をしている人が会長山本哲氏。

おさそい

 親愛なるアジアの兄弟諸子よ。
 ようこそ,遠いところをお出でくださいました。われわれ日本腕角力協会会員一同は皆さまのお出でを心から歓迎するとともに,そのご活躍に対して深い尊敬を払うものであります。
 さて,わが日本腕角力協会と申しますのは,過去においてあまり重要視されていなかった腕角力を,スポーツの1種として理論的に体系づけ,広く普及するために1937年に結成されたものであります。
 しかし,これは日本人を対象としての研究でありました。私たちは腕角力を世界的なスポーツにしたい希望をもっております。それでこの機会に貴国の腕角力界の現状,およびこれに対するご高見をぜひうけたまわりたいと存じます。なお,その節われわれの競技方法の実際をお目にかけましよう。
 皆さま,大会終了後のお疲れのところを大変恐縮に存じますが_日_時_にご足労わずらわしたく,右お願い申上げます。
日本腕角力協会会長 山本哲

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 以上の如く,山本氏の面目まことに躍如たるものがある。
 なお,腕角力協会の猛者と戦い,武運つたなく破れ去ったイクバル・バット氏は,〝福島重量挙15年の歩み〟によると,第三回アジア競技大会(33年5月25~28日)場所・国立競技場体育館にてライト・へビー級に出場,惜しくも銅メダルをのがしたが4位を獲得しており,当時としてはなかなかの豪の者だったことがうかがえる。
 なお,このクラスには現在重量挙ならびにボディビルの権威として知られる窪田登氏が第2位に名をつらねておられるので,先生にはいささかご迷惑かも知れぬと思いつつライト・へビー級入賞者の項を記載させてもらう。
 いずれにせよ,当時アジアにおいて軽重量級第4位入賞の重量挙選手ですら,山本氏麾下の連中には手も足も出なかったということは,何か深く考えさせられるものがある。しかもこのあとに続いて述べるある有名選手の腕角力観を読むとき,さらにその感を深くすることであろう。
 この記事は,昭和43年7月某日のメキシコ代表選考会でのものを「中日スポーツ」から,筆者が覚え書帳に書き留めておいたものである。(原文と多少異なる)
 岐阜県土岐市立高の安藤謙吉君という18才の重量挙選手で,力は全日本バンタム級第2位に相当。さきに土岐市民センターで行われた全日本選手権兼メキシコ・オリンピック代表選考会では優勝候補に選ばれ,トータル332.5kgの自己最高を挙げたが,惜しいところで代表を逸したものの,堂々ジュニア世界新までつくって注目され,次期ミュンへンでのオリンピック代表は間違いないと大鼓判まで押されていた。
 この少年,プレスが最も得意で110kgに成功したが,それこそ僅かな体重超過で公認ジュニア世界新を逃がしたという豪の者。この豪傑少年安藤君が同紙の最後にこういっている。
 「プレスが得意といっても,腕角力はからきし弱いんですからオカシナものですね」と。
 この安藤君,その後ますます強くなり,ミュンへン・オリンピックの代表選手として,不出世といわれた軽重量級世界第1人者の三宅君と,某君を加えたバンタム級3代表の1人としての栄誉をになって出場。しかるにプレスの失敗から入賞を逸したが(来年から得意のプレスが廃止されるとの報で,気持の動揺が起こり,失敗を招いたものと思われるが)とにかく,この豪傑が,この当時すでにプレスにおいてジュ二ア世界新を出していたのである。にもかかわらず,「腕角力はからきし弱いんです」と,腕角力に対してあきらめに似た言葉を吐いていたのである
(つづく)
記事画像4
写真は昭和35~40年の間のもの。左から山本哲氏(日本腕角力協会々長),小田原千里氏(昭和11年,わが国で初めて行われた全国腕角カ大会にて3位獲得),大坪清隆氏(柔道5段,プロレスラーとして活躍した),伊藤政美氏(日本腕角力協会で最強者と目される原秀吉氏に強ぐ強豪)
[ 月刊ボディビルディング 1973年1月号 ]

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