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特別追悼記事 ジョー・ウィダー

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月刊ボディビルディング
掲載日:2017.09.05
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〝ボディビル帝国の創設者、ジョー・ウィダー93歳で死去!〟という見出しで、ニューヨーク・タイムス紙の電子版では、3月23 日に死亡したジョー・ウィダー氏のニュースを報じている。他にもロサンゼルス・タイムス紙、ウオールストリート・ジャーナル紙、CNN.com などのメジャーなメディアが一斉に報道した。死因は心不全と発表されている。
ジョー・ウィダー氏はボディビル界では知らない人がいないほど知れ渡っているが、サプリメントやトレーニング器具の販売などで、彼の名前は一般の人の間でも多く知られている。ボディビル界の帝王、そしてチャンピオントレーナーとして、長い間、世界中の人々のライフスタイルをヘルシーなものに変え、ボディビルをスポーツとして、そして多くの人々にフィットネスのもたらす恩恵を浸透させた偉大な功労者ジョー・ウィダー氏の功績を、ここであらためて振り返っていこう。

ジョーとアーノルド

ジョー・ウィダー氏を語るとき、アーノルド・シュワルツェネッガー抜きで語ることはできない。そしてアーノルドを語るときにはジョー抜きでは語ることができない。二人の絆はとても強い。今回の訃報に際し、アーノルドは彼のホームページでお悔やみのコメントを出し、故人との絆をこのように説明している。「今日、私はジョー・ウィダーという親友、そして良き助言者を亡くしました。世の中もヘルシーなライフスタイルの強力な主張者を亡くすことになりました。ジョーはフィットネス業界の偉大な人で、私がこれまで会った人の中では、もっとも思いやりのある人でした。
私はジョー・ウィダーのことは、実際に彼と会うずっと以前から知っていました。ジョーはフィットネス界のゴッドファーザーで、〝立派な身体を持った人になれ〟と教えてくれました。彼は我々にハードワークとトレーニング、そしてすべての人がチャンピオンになれるトレーニング法などを教えてくれました。
私がオーストリアにいた子どものころ、ジョーの雑誌は私の将来に希望を与えてくれ、大きく影響を受けました。私以外にも世界中の多くの人がジョーの雑誌で、私と同じようなモチベーションを得たことでしょう。
オーストリアでジョーの雑誌を読んでいたとき、私は将来アメリカに移り住み、ベストボディビルダーになり、そしてハリウッドの俳優になるというアメリカンドリームを実現しよう、と、直接話しかけられているように感じました。そしてジョーは単に私の夢に影響を与えたばかりではなく、私のボディビルダーとしてのキャリアを追求するために、私をオーストリアからアメリカに招いてくれました。
ジョーは私をオーストリアからアメリカに招いてくれましたが、ただ気前が良かったのではなく、私の世話に多くの時間を割くことを惜しみませんでした。私にとっては父親のような存在でした。私はこのようなジョーの寛大な行為を決して忘れません。
ジョーは私にトレーニングのアドバイスや私のビジネスへの投資などに助言してくれました。私が初めて映画『ニューヨークのヘラクレス』に出演する際には、ジョーはプロデューサーに、私がドイツのシェークスピアの俳優であると売り込んでくれました。当時の私はまだ英語をほとんど話すことさえできなかったにもかかわらず( 注: アーノルドはこの映画に主演したが、セリフはすべて吹き替えられている)。
私がハリウッドの俳優として成功しだしたころ、いつでもジョーは私が出演している映画や私が行なっている活動を、彼の雑誌で多くのページを割いて紹介してくれ、応援してくれました。
私がカリフォルニア州の知事選に立候補したとき、ジョーは私のそばでいろいろな協力やアドバイスをくれ、応援してくれました(ジョーはアーノルドの特集号を発行している)。
このようにジョーと私の人生はいつも一緒でしたので、ジョーを亡くしたことは大変に悲しく、とても寂しいです。
ジョー・ウィダーは雑誌、サプリメント、トレーニング器具の販売などを通して、我々とヘルシーな世界を身近なものにするという偉大な遺産を残してくれました。
ジョーは誰にでも〝自分の限界を超えること〟を主張していましたが、彼の人生を通してそれを実行してきたことも疑う余地がありません。
私の悲しみは、ジョーが生涯愛した素晴らしい奥様、ベティ・ウィダー女史に捧げます。そして、ウィダー家の皆さんと友人達に心からお悔やみ申し上げます」
若き頃のジョー

若き頃のジョー

2009年のオリンピアでアーノルド・シュワルツェネッガーと。

2009年のオリンピアでアーノルド・シュワルツェネッガーと。

最愛の妻ベティ・ウィダーと(1991年)

最愛の妻ベティ・ウィダーと(1991年)

マイナーなボディビルをメジャーに

ジョー・ウィダーこと本名ジョセフ・エドウィン・ウィダーは1919年11月29日、カナダのモントリオール市で生まれた。両親はポーランド人で、イスラエルからカナダへの移民である。ジョーはすなわちポーランド系カナダ人である。4人兄弟の次男だったが、兄は30歳で亡くなり、弟のベン・ウィダー氏は2008年に死亡している。ほかに妹が一人いる。
ジョーは身長168cm、体重50㎏の貧弱な身体をしたティーンエージャーだった。彼の伝記では「骨と皮しかない身体で、筋肉をつけることが必要だった」と振り返っている。そしてジョーは当時発行されていた『ストレンゲス&ヘルス』誌に掲載されていた逞しい筋肉が発達した人の写真を見たときに「これだ!」とひらめいた。
そこで、ジョーはウェイトリフティングをスタートすると、17歳のころから大会にも出場し、モントリオール市ではウェイトリフターとして知られていった。
1940年、ジョーが20歳のとき、謄写版で印刷した最初の雑誌『ユアフィジーク』誌の発行を始めた。1942年にはウィダーブランドのバーベルとダンベルの販売をスタートし、ユアフィジーク誌で広告を掲載した。1945年には2冊目の雑誌『マッスルパワー』誌を発行。当時はボブ・ホフマン氏のAAU団体が主催するAAUのコンテストが支流であったが、これはウェイトリフテイングがメインで、ボディビルは余興的な存在であったため、ボディビルダーやそのファンにとっては不満であった。
そこでジョーは1946年、弟のベンとともにIFBB ( 国際ボディビルダーズ連盟) を設立。ボディビルだけのコンテストであるミスター・カナダコンテストを開催し、多くのボディビルダーやファンからの支持を受け、成功を収めた。ここでジョーは人々がボディビルに関心を持っている感触を得、IFBBはウェイトリフティングから完全に脱皮したボディビルの団体としてスタートした。その後、IFBBは加盟国を増加してゆき、ボディビルコンテストを積極的にプロモートしていった。
1947年、ジョーは雑誌社の拠点をアメリカのニューヨークに移し、IFBBの運営は弟のベン・ウィダー氏が担当し、ジョーは雑誌の編集にフォーカスすることになった。
1952年、ユアフィジーク誌は『マッスルビルダー』誌に変わり、ジョーはボディビルダーだけを取り上げることで「マッスルパワー」誌とともに売り上げを伸ばした。ジョーは雑誌が成功しても、写真撮影でのモデルのポーズの取り方から、記事の詳細に至るまで、すべてに目を通し、他の人に任せるようなことはしなかった。
この間、私生活では、1960年に結婚したがすぐに離婚。翌61年にはモデルであった現在の妻ベティと再婚した。最初の結婚で娘が一人おり、3人の孫もいるが、ベティとの間には子どもはいない。
1965年の『マッスルビルダー』誌に掲載された第1回ミスターオリンピアの告知

1965年の『マッスルビルダー』誌に掲載された第1回ミスターオリンピアの告知

1965年、ミスター・オリンピア誕生

ジョー・ウィダー氏はミスター・オリンピア誕生までのいきさつを、1983年に出版された彼の著書『ミスター・オリンピア』でこう書いている。
「1960年代のボディビル界は、まだ統一されていないことから、例えばイギリスでは二つのミスター・ユニバースのタイトルがあり、ときにはフランスでも同じことがあった。そしてミスター・ワールドに至っては数えきれないほどのタイトルがあり、それが混乱を招いていた。
また、当時のチャンピオン達はタイトルをとってもボディビルではお金が稼ぐことができなかったため、タイトルを得ると20代で引退し、プロレスラーやスタントマン、ボディガードなどに転向する人がほとんどであった。
これではボディビル界の将来はないのではないかと危機感を持ったジョーは、何とかして彼らのような若いボディビルダーがボディビルで生計を立てられるようにならないかと考え、ボディビル界のスーパーボール( 最高峰) イベントして〝ミスター・オリンピア〟の開催を思いついたのだ。出場資格は過去のミスター・ユニバース優勝者、ミスター・アメリカ、ミスター・ワールド優勝者に限られた。第1回目のミスター・オリンピアはニューヨーク市で開催し、初代ミスター・オリンピアにはラリー・スコットが輝いた。この時は優勝の記念品として王冠が贈られた。
第1回オリンピアは熱狂的なファンが集まり大盛況で幕をおろした。ジョーは今後もオリンピアを開催していく決心をかためた。翌66年は賞金1000ドルが、優勝者ラリー・スコットに贈られた。
その後〝ジョー・ウィダーのミスター・オリンピア〟コンテストとして毎年開催されてきたミスター・オリンピアの現在の賞金は25万ドルにまで増えている。
1966年にオリンピアで賞金が贈られたことでボディビル界にプロ部門が新設されたことは、モダンボディビルのスタートでもあった。2015年にはミスター・オリンピアは50周年を迎えることになる。
第1回ミスターオリンピア優勝者のラリー・スコットとウィダー兄弟

第1回ミスターオリンピア優勝者のラリー・スコットとウィダー兄弟

1974年5度目のミスターオリンピアに輝いたアーノルド(右)と2位のルー・ フェリグノ(左)。中央はジョー・ウィダー

1974年5度目のミスターオリンピアに輝いたアーノルド(右)と2位のルー・ フェリグノ(左)。中央はジョー・ウィダー

アーノルドとの出会い

1967年、オーストリアの怪童アーノルド・シュワルツェネッガーがNABBAミスター・ユニバースに19歳で優勝し、注目されるようになった。アーノルドがジョー・ウィダー氏と初めて会ったのはアーノルドが21歳の時のこと。IFBBミスター・ユニバースコンテストがマイアミで行なわれた時だった。この時アーノルドはフランク・ゼーンに敗れた。しかしジョーは「アーノルドはチャンピオンとしてのマインドを持ち、スターとしての素質を持ち、ボディビル界に貢献する男」と、初めて会ったアーノルドの印象を語っている。1969年ジョーはアーノルドをオーストリアからアメリカに招き、経済的にもサポートすることで、アーノルドをトレーニングにフォーカスさせた。その結果、アーノルドがアメリカに来てからはミスター・オリンピアなどほとんどのタイトルを手にし、その後ハリウッドの映画俳優としても成功し、スーパースターとなり、ジョーの予想通りアーノルドはボディビル界に大きく貢献することになった。後年アーノルドは「ジョーは、魚をただ与えるだけではなく、魚の捕り方を教えてくれた」と、アメリカで成功するためには何をしたら良いかを指導してくれたと語っている。

出版部門売却

ジョーが出版を手がけたボディビルやフィットネスの雑誌『マッスル&フィットネス』『フレックス』『シェイプ』などは90年代のフィットネスブームに伴い、いずれも成功し、売り上げを伸ばしていった。しかしジョーは2000年に心臓病にかかったことからか、2002年にはウィダーの出版部門をアメリカン・メディア社に売却し、出版ビジネスから引退している。しかしながら、出版部門を売却したあとも、雑誌コンサルタントとして最後まで関係を持っていた。また、2008年にはIFBB終身名誉会長であった弟のベン・ウィダー氏を85歳で亡くしたことは、彼にとっては最愛のビジネスパートナーを失ったことにもなっている。IFBBは現在世界175カ国以上が加盟する巨大なアマチュア団体のひとつになっているが、これはベン・ウィダー氏の功績である。

ボディビル界の今後は?

さて、ジョー・ウィダー氏の死後、ボディビル界はどうなるのだろか?
サプリメントなどのウィダー・ニュートリションは、ベン・ウィダー氏の息子エリック・ウィダー氏が後継者となっている。IFBBは、アマチュア部門はラファエル・サントンハ氏が、そしてプロ部門はジム・マニヨン氏が会長に就き、そしてエリック・ウィダー氏が最近プロ部門の名誉会長に就任している。ウィダー社およびIFBBは以前からかなり組織化されていることから、大きな変化はないのではないかと思える。
ボディビル帝国をほぼゼロの状態から一代で築きあげたジョー・ウィダー氏の功績は計り知れないもので、彼のボディビル人生は永遠に語り継がれることだろう。
〝マスター・ブラスター〟ジョー・ウィダー氏のご冥福を心からお祈り申し上げます。


text=Sumio Yamaguchi
参考資料
www.nytimes.com
www.latimes.com
www.arnoldschwarzenegger.com
1983年『ミスター・オリンピア』
ジョー・ウィダー著
[ 月刊ボディビルディング 2013年8月号 ]

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