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ボディビルと私
気力で輝く三連勝

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月刊ボディビルディング1971年3月号
掲載日:2018.01.22
中野ボディビル・センター代表 栗山昌三

オリンピック村で見た逞しい黒人選手にあこがれて

それは私が29歳、今から6年前のことだった。生れつき丈夫だった私はそれまで病気らしい病気もせず、至極健康な生活をおくっていた。そして、他人に劣等感をもつほど貧弱な身体でもなかった。
しかし、そんな頑健さがかえってわざわいし、若さにまかせて不節制な生活をしたため、すっかり胃腸を悪くしてしまった。それからしばらくの間、ぶらぶら療養をつづける日が続いた。

丁度その年は東京オリンピックの年で、日本全体がスポーツ一色に塗りつぶされていた。そんなある日、私は気晴らしに、代々木のオリンピック村を散歩していた。
そのとき、どこの国の選手か知らないが、筋肉隆々とした逞しい体で、1人トレーニングに汗を流している黒人選手を見た。私はあまりにも逞しく素晴らしいギリシァ彫刻のような男性美に、思わずハッとツバを飲み込んだほどだった。
なんとか早く病気をなおし、あの黒人選手のような逞しい身体になりたいものだと毎日考えていた。

そんなときたまたま、筋肉隆々とした男の看板が目に入った。それは、渋谷の日本ボディビル・センターの看板であった。吸い込まれるように入って行ってみるとそこには私のいままで考えたこともないスポーツがあった。
ボディビルという言葉は知っていたが、それは重量あげの一種ぐらいだろうと私なりに解釈していた。そして、黙々とトレーニングにはげむ16~7人の若人を見たときこれこそ私が求めていた、逞しい男性美をつくるスポーツであると直感した

そして、さっそく日本ボディビル・センターに入会することにした。そこには現在日本ボディビル協会技術顧問の平松先生がコーチをしておられた。
平松先生はまず、ボディビルの目的とか、練習方法、健康管理等について、基本的なことから親切にコーチしてくれた。その中で、とくに、いまでも私の頭の中に焼きついて離れないのは〝フィジカル・フィットネス〟という言葉であった。
それは、筋力、スタミナ、柔軟性この3つが、スポーツマンにかぎらず一般人の健康にも欠くことのできない三大要素だということだった。
ところが私には、この3つのうち、1つも身についていなかった。ボディビル愛好者なら、だれでも一度は経験があると思うが、最初のトレーニングの苦痛は相当なものである。まして、私は29歳、それまでスポーツと名のつくものは何1つやったことがなかった
そんなわけで、25kgの軽いパーベルでトレーニングを始めたのだが、帰りには筋肉といわず関節といわず、からだ中が痛くなり、まったくわれながら情けない状態だった。

しかし、あのオリンピック村で見た逞しい黒人選手の姿を思い出しながら夢中でトレーニングに励んだ。そして、3カ月ほど過ぎたある日、風呂屋の秤りに乗ってみて驚いてしまった。
トレーニングを始める前には56kgしかなかった体重が、気がつかないうちに7kgも増えているではないか。
そして、規則正しい生活と、トレーニングのお陰で、あれほど悪かった胃腸もすっかり回復し、練習にも熱が入りようやくボディビルの魅力にとりつかれ始めていた。
(45年8月、白浜海岸にて筆者)

(45年8月、白浜海岸にて筆者)

生兵法は大ケガのもと

トレーニングを開始してから4カ月ぐらいたったある日、練習中に姿勢の悪さから、左足の膝をいため、軟骨がとび出し、6針もぬう大ケガをしてしまった。入門したとき、平松先生から注意された基本がいかに大切であるかということが、はじめて身にしみてわかった。
しかし、このケガは私にとっては、かえって良い経験ともなった。それ以後〝基本に忠実に〟は私の座右の銘であると同時に、また、若い練習生をコーチするときに、いつも私が最っ先に強調する教訓ともなった。
〝基本に忠実〟とは、良い姿勢、正しいマナーで練習することであり、これが不測の事故を防止し、しかも、最も早く効果をあげる最上の方法であることはいうまでもない。
(昭和39年ボディビルを始める前の筆者)

(昭和39年ボディビルを始める前の筆者)

遠藤光男氏との出会い

それは、昭和41年の秋のことであった。そのころ私は中野に勤めをもっていた。ようやくケガもなおり、医者からもトレーニングの許可がおりたときだった。
運よく勤め先の近くに中野ボディビル・センターが新設された。私は早速入会し、しばらく休んでいたトレーニングを続けることにした。ジムはまだ新設されたばかりで、練習生も少なく、私が最初に行った日は、たしか6人くらい練習していた。
その中に、1人だけものすごく大きくて、色の浅黒い逞しい人がいた。私は2年前、オリンピック村で見たあの黒人選手を思い出した。なんと素晴らしい男だろう、これこそ私が頭にえがいていた理想的な肉体美の持ち主ではないか。

それもそのはず、その人はこのジムの新任コーチであり、この年ミスター日本に選ばれた遠藤光男氏であった。
私も写真では見たことがあったが、直接会ったこともなく、まして話をしたこともなかったが、これからは毎日、ミスター日本のコーチがうけられるのだと思うと、嬉しくてたまらず、ますます練習に熱が入った。
ただ1つだけ困ったことがあった。それは、ジムが開設されて日が浅く、ダンベルやパーベル等の器具も完備されていなかった。
そんなわけで、遠藤氏が練習を始めると、ジムのプレートをほとんど1人で使ってしまい、新入りの私などは見物しているよりほかなかった。何しろスクワットで170kgくらいやっていたと記憶している。そのころの私は、せいぜい80kgがやっとだったので、本当にびっくりしたものだった。

それから2年ほど過ぎた43年11月、ジムで始めての記録会が開かれた。私もこのころはジムでも先輩格となり、重量にもある程度自信があったので喜んで参加した。結果はベンチ・プレスで140kg、スクワットで150kg、トータル290kgで優勝した。
そのころからポディビル誌で日本の従来の記録を調べたりして、全日本制覇を夢みるようになった。
(トレーニングに励む筆者)

(トレーニングに励む筆者)

(私の片腕、滝沢コーチと一緒に)

(私の片腕、滝沢コーチと一緒に)

中野ボディビル・センター経営

42年12月のことだった。まだ記録会優勝の喜びがさめやらぬころ、突然中野ジムを共同でやってみないかという話があった。しかし、正直にいって私にはジムを経営する自信はまるでなかった。それは、私自身がまだコンテストに出たこともないし、コーチの専門的な勉強もしたことがなかったからだ。
早速、兄弟たちに相談したところ、みんなジム経営には大賛成であった。それというのも、私の兄弟はみんな大のスポーツ愛好家だったからだ。中でも長男は柔道六段、次男は学生時代に全日本体操競技の吊り輪で優勝したほどだった。

そんなわけで、私は共同でジムを経営することになったが、これがまた大変な苦労の連続だった。1日おきに西荻窪から吉祥寺方面にチラシをまいて歩いたり、あるときはデパートの屋上からチラシをまいて交番に呼び出されたり、いま考えるとまったくムチャなことをしたこともあった。
それにも増して神経を使ったのは、会員の指導である。さきにも書いたように、それまでの私は、自分のトレーニングが精一杯で、人を指導したこともなかったし、理論というようなものも全く研究していなかった。ジムを経営することがきまってからは、ウェイト・トレーニングから医学、栄養にたるまで、片っばしから本を買い集め、まったくの独学で勉強を始めた。

その結果得たものは、ボディビルはまず基本を忠実に守り、あせらず、じっくりと継続してやらなければならないということだった。その他にもう1つ見逃してはならないのが人間づくりである。外面的な逞しさとともに、内面的な精神面での充実がなければなんにもならない。
ボディビルそのものが地味なスポーツであり、比較的変化に乏しいためにすぐあきてしまう。本当にボディビルの良さがわかり、効果があらわれ始めるには最低6カ月から1年はかかる。これがため、途中で挫折しないように、トレーニングはいかにきびしくしても、練習の後などはつとめて楽しいフンイキを出すように苦心してる。
いつも冗談をいったり、娯楽室で一緒にテレビを見たり、お互いに自分の経験を話し合ったりして、和気アイアイの中に、トレーニングの効果をあげるよう努力している。こんな私の配慮が会員にも通じ、私の夢みた理想的なジムになってきたようである。

また、毎月第3日曜の午後1時から3時まで、初・中級者のためのボディビル研究会を開いている。これは、日頃個人的には指導しているが、1日に数百人が出入りしていると、どうしても目のとどかない点もあり、コーチも断片的になりがちなために、この機会を利用して、一貫した体づくりと、人間づくりの勉強の場としているのである
(全日本大会でベンチ・プレスに優勝した瞬間)

(全日本大会でベンチ・プレスに優勝した瞬間)

(東京大会で団体優勝したメンバー,左から佐藤君、筆者、斎藤君)

(東京大会で団体優勝したメンバー,左から佐藤君、筆者、斎藤君)

ベンチ・プレスで三冠王

45年を迎え、気分も表快のころであった。周囲の者から「どうだね、栗さん、今年あたり記録会に出てみては」とすすめられ、私も「よし、じゃあ新人栗山ここにありといくかね」と冗談をとばしていたが、いつの間にか本当に全日本を制覇してみたい欲望にかられるようになってきた。
でも、どうせ出場するなら実業団東京、全日本と全部出場してみよう。5月3日の実業団までにはまだ5カ月ある。これから猛訓練をすれば何とか間に合うだろう。それからは連日文字どおりの特訓、気合いの入った掛け声がジムいっばいに響き渡った。

しかし、困ったことがあった。実業団に出場するには団体名がなければならない。丁度3月29日、世田谷の太子堂で妻が食堂をオープンするプランが進んでいた。そして、店の名は〝ことぶき〟と決っていた。よし、これでいこう、団体名は〝ことぶきクラブ〟として登録した。申し込みは3名、私のほかには、ベテラン小沢君と滝沢君である。
ところが、試合も押しせまった4月28日、私は練習中に肩を痛めてしまった。苦痛が全身をおそい、一瞬、出場は不可能かと思った。どうしても出場したい一心から、連日病院通いの結果、奇跡的にも何とか試合には出られるようになった。
いよいよ試合当日、計量が終って挑戦申込書に名前と150kgの重量を記入して静かに出番を待った。何しろ公式戦は初出場である。落ちつこうとあせったが、どうしても胸の高なりを押えることはできなかった。
いよいよ本番、僚友小沢君、滝沢君にポンと肩をたたかれて、ベンチ・プレスの前で一礼、150kgのバーベルに手をかけて一呼吸、夢中で3回差し上げた。その瞬間、重量級べンチ・プレスの優勝がきまった。私はただ嬉しかった。そして、団体でも3位に入賞することができた。いままでの苦労がいっぺんにふっとんでしまい、全身の力がぬけて、まるで雲の上を歩いているような気分だった。

さて、次は5月17日の第1回東京パワー・リフティング大会、その次は全日本大会である。東京大会では155kg全日本では160kgを挙げれば必ず勝てると思い、それを目標に肩の故障の治療をしながらトレーニングを開始した
そして、実業団に続いて東京大会。全日本大会ともべンチ・プレスで優勝することができた。同時に東京大会では斎藤孝夫君、佐藤忠君と私で団体優勝もなしとげてしまった。
(完備したジムで会員にコーチする筆者)

(完備したジムで会員にコーチする筆者)

<私の食事法>

'70ミスター日本7位 徳弘敏

'70ミスター日本7位 徳弘敏

魚、卵、肉等でタンパク質をとるように心がけているが、にんじん、ほうれんそうなどの野菜も欠かさず食べるようにしている。食事の回数は1日3回、量は普通の人よりいくらか多い程度で、米飯は1日に茶わん2~3杯ぐらいです。また、薬品類は一切用いない。
ただ、週に一度はホルモン料理でスタミナをつける。1日の献立はだいたい次のようなものである。
朝 ごはんどんぶり1杯、肉入そば
昼 肉(200~300g)、野菜、ビール1本
晩 昼とほとんど同じ
月刊ボディビルディング1971年3月号

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