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〝ミスター日本物語〟人間シリーズ
初代ミスター日本 中大路和彦 その一

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月刊ボディビルディング1971年3月号
掲載日:2018.02.28
田鶴浜 弘

まえがき

初代〝ミスター日本〟誕生の、第1回ミスター日本コンテストは、昭和31年1月14日、日本ボディビル協会創立記念行事として、神田の共立講堂で行なわれた。
今は、もう、一昔前だが、忘れもしない――その日、ズラッと壇上にならんだコンテスト参加者38人の逞しい群像を目の前にしたときの感激を、まずここに回想する必要がある。
この大会に参加した日本のボディビル・パイオニアたち――当時の第一線ビルダーは、ほとんど20歳前後だったので、彼等は、みな戦時の混乱下に育っている。
おそらく日本民族の長い歴史の中で最も暗い谷間の時代――満足な栄養どころか、腹一杯メシを食うのさえ夢だったろう。
今日の豊かな食生活と較べると、もはや人間の食事というよりもむしろ、家蓄のエサに近い耐乏を生き抜き、彼等が、もの心ついた頃の焼土と化した敗戦日本を、当時の大人たちは〝四等国になり下った〟と自闘するほど社会還境は虚脱ムードだったのに〝よくぞかくも逞しくあって呉れた〟という驚異であった。
だから、第1回コンテストの性格を私流の云い方をするならば、ドグマでもよろしい――私は〝日本男子のルネッサンスだ〟と云いたい。

栄光の初代〝ミスター日本〟中大路和彦のカラーがまた、私には第1回コンテストの性格に如何にもふさわしく思われた。
それというのは、本人からインタビューした私なりの受け止め方からすると、彼の栄冠は、中大路家系にも云わばルネッサンス的な象徴に思えたし、また、その中に、日本のボディビル・ムーブメントの役割をピッタリ主張して呉れたというような感銘を受けたからである。

チビッ児のガッツ

中大路和彦は昭和11年の生まれだから、平和だったのは、ほんの子供時代だけだった。
九州の若松市で生まれた――製鉄の街で知られる若松市は活気があった。
父の勤務先の製鋼所は、当時、大東亜共栄圏の確立を目指す日本のエネルギッシュな国力を象徴するかのように溶鉱炉の火が逞しかった。
〝中大路――という姓は、てっきりお公卿さんかと思ったね…京都の出じゃあなかったの?〟
私の、この直感は、当たらずとも、遠からずだった。
〝…僕は九州で生まれたけど、僕の家は、もともと京都の出ですよ――おじいさん迄かな――おじいさんは、明治時代のハイカラさんって云うのかな――フロック・コートを着て、太い葉巻をくわえた写真を覚えています――だが、万事が派手好みだったから、ずい分と波乱に富んだ生涯だったようです。
株で失敗して裸になると、建築で当てて立ち直ったりそれから中国のチンタオに紡績工場――〝中大路紡績〟の得意な時代が、間もなくの日支事変で工場閉鎖、またこれが駄目になっちゃう…〟

ここまで聞いていると、フッと私の脳裡にイメージが浮んだ。
〝――君の正面に向いて、両腕を曲げ大胸筋をグッと大きく見せる――あのポージングに、そのおじいさんの得意さのイメージが目に見えるようだったよ〟
小学校に入ったころ、日本は戦争という暗いトンネルの中をつっ走るのだ〝僕はチビッ児だったが、キカン気が、人一倍だったのは、おじいさんの豪気な血が流れていたのかな…〟
チビッ児だったのは無理もない――彼の発育期の環境のせいだったにちがいない。
いろいろと話を聞いてみると、終戦後も当分の間―― 一口に云うと、彼は焦土の青い麦であったようだ。

敗戦日本の軍需工業に、時代の風は冷たく、父の失職で一家は東京に移住し、彼は中学1年を足立区立八中に入学する。
新しい東京の生活はきびしかった気丈な母は働らいたし、彼もまた牛乳配達で家計をたすけた。
5人兄姉だったから、姉と2人で3人の弟妹の子守りと、そのほかに彼にはもう1つの大役があった。
当時の配給米だけでは、食べ盛りの5人兄姉だもの――毎日曜日は埼玉の農村に出かけて行って芋の買い出しがその仕事だった。

学校の整列だが、背の順で、チビッコ児の方を先頭にしてならんだ――クラス・メート40人の中で、彼は前から3番目だった。
デカイ奴等が、意地悪にハヤシたてる。
〝――おい見ろよ、面白ぇな――チビの中大路が、カベンに引っばられながら歩いてやぁがる――〟
そのころ中学生のカバンは、今と違って全部学校指定の肩からブラ下げる奴だから、標準サイズの学校指定カバンは、ベルトを一ぱいに短かくしてもチビの彼だと、どうしても地面を引きづってしまうような格好になってしまうのだ。
〝糞ッ、今はチビッ児だって、お前らウドの大木に負けるもんか――山椒は小粒でもピリッと辛いんだぞ――〟すさまじい向うっ気で、精一杯張り合うのだが、内心ではチビッ児というヒケ目から抜け出したい――と願っていたのである。

〝僕がもし、子供の頃に、ウドの大木だったらボディビルなどやらなかったかも知れませんね――やっばりチビッ児の意地っ張りの頭の中には、コンプレックスの反発が根を張っていたんだな…〟
後年、彼は幼い日のイジメッ児をあべこべに懐かしんで、こう述懐したことがある。
フト私が思い出すのは、15年前彼がミスター日本になった共立講堂でのコンテストのとき、決勝審査が始まると観客席の一隅で、中大路のポージングに盛んに声援を送る一団の中から、彼の栄冠が決定するや、真っ先にかけ寄って、中大路のオリーブ油だらけの手を握って嬉しそうに祝福した1人の言葉が印象に残っている。
〝おい、お前は立派な身体になったもんだなぁ――日本一だから偉いもんだよ――覚えているかい――お前みたいなウドの大木たぁ違うんだ、今に見てろよって俺は云われたっけな、確かにその通りだった――俺が負けたよ、だが俺はうれしい〟
〝――ありがとう、俺も忘れちゃあいないよ、だがボディビルを練習しながら何時も思うんだ、こうなったのももとは君達のおかげだとね…本当にありがとうよ〟
初代ミスター日本にえらばれた中大路選手(中央)

初代ミスター日本にえらばれた中大路選手(中央)

ターザンが心の偶像

高校に入学した年の正月、おこづかいをにぎって、フラッと浅草に遊びに行くと、映画館の絵看板でターザンの逞しい肉体美が目につき、夢中で飛び込んだ。
ワイズミューラーが銀幕から世界中の少年たちの心をつかんだ大当り映画は面白かった。
〝どうしてもあのようになりたい〟家に帰ってからも、ターザンになったワイズミューラーのすばらしい肉体への憧れが頭の中から離れない。
だから、今に見ていろ――という彼の心の中の偶像はターザンであったという。

この話で、思いつくのは私の少年時代にも似かよった偶像と、そしてスポーツへの動機である。
私の場合、小学生の頃〝立川文庫〟を愛読し、忍術修業に麻の苗が段々大きくなって行くのを跳び越える鍛練を続けるうちに、凄いバネがついて、〝飛び切りの術〟が完成する――と書いてあったのをマネたものだ。
丁度、初夏だったので、庭のあさがおの苗を相手に毎日、跳び越え練習をやるうちに、私にもバネがついた。
古代ギリシャのクロトンのミロンは小牛が大牛になるまで、毎日差し上げ怪力を身につけたのと同じ、レジスタンス・エクササイズになったわけだ。私の場合は、立川文庫の〝飛び切りの術〟が偶像だったが、中大路の場合はそれがターサンであった。

中大路はターザンになるために、私よりもっと近代的なやり方をした。
神田の美津濃に、貯金をおろした全財産の金五円を握って飛び込むのである。
〝ターザンのような身体になりたい〟と相談すると、相手になった店員が腕をたたいて、こう云った。
〝ターザン役のワイズミューラーはこれを使って、あの身体になったんですよ〟
ターザン造りの〝アラジンのランプ〟というのは、12ポンドの一対の鉄亜鈴である。
15歳の中大路少年は、鬼の首でも取ったような気持で、鉄亜鈴を抱きしめるようにして家に帰った。
(つづく)
月刊ボディビルディング1971年3月号

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