フィジーク・オンライン

Ad by SUPLINX

Weekly Monthly Shopping

ミスター日本への道

この記事をシェアする

0
月刊ボディビルディング1969年7月号
掲載日:2018.04.25
吉 田 実
(第一ボディビル・センター)
記事画像1
 「トレーニング・スケジュール、その作り方と考え方」と銘打ったシリーズも、先月号までで早や6回を終りましたが、専門的にボディビルに取り組む練習者を対象にしたページであるためにいつも、七面倒くさい内容ばかりで、読者の皆様もさぞ気ぼねが折れることと思いますので、今月号と来月号ではそのシリーズを休んで、ーーその代りにグッと趣向を変えた肩の凝らないもので、リラックスしていただきましょう。

 10月10日、体育の日に、東京・神田の共立講堂で開催される予定の、本年度ミスター日本コンテストを3カ月半のちに控えて、各地方コンテストの幕がはなばなしく切って落され、ミスター日本への数少ない出場権を獲得せんものと、各ビルダーが血みどろの練習と熾烈な戦いを繰り広げているさまを見ていると、昨年の自分の姿を鏡で見ているような気がしてなりません。

コンテスト出場のきっかけ

 私がコンテストに出場を決意したのは昨年の2月頃でした。それまでは、コンテストに出場しようなどとは夢にも考えずに、ただひたすらに自分の理想と可能性を追求して、おのれの納得ゆくところまでボディビルに打ち込んでみよう、そこまで精進すれば、たとえその成果が他人におよばずともそれで満足でき一生悔いることがないのだ。そう思って他人と競おうとはせずに、12年間黙々と人一倍の努力を続けてきたのでした。

それが、日本ボディビル協会の役員あるいは選手たちと接触しているうちに、あらゆる方面からコンテスト出場を説得されて仕方なく、1968年か69年のコンテストには出るかも判りませんと言ったのが事の始まりで、いつのまにやら周囲が出場ムードになってしまったので断り切れなくなりました。

 よし!それならばひとつ現在の日本のトップ・ビルダーと同じ土俵の上で勝負してみよう。勝負を恐れてシッポを巻いて逃げたと言われたのでは、ご先祖様にも申し訳がたたない。そのかわり歌の文句ではないけれど、勝負するからには何が何でも勝たねばならぬ、負けることはプライドが許さないのだと、自信過剰の私は必勝を期して出場を決意しました。

 その最終的な決断を早めたのは、玉利理事長と浅野事務局長の5度、10度におよぶ出場勧誘であったことを書き添えておきましょう。

ミスター東京を目指して

 今迄コンテストに一度も出たことのない私が推薦でミスター日本に出場することはできない相談ですから、5月3日のミスター東日本か、あるいは6月30日のミスター東京で入賞しなければなりません。そこで開催日の遅いミスター東京に焦点を合わせました。

 第一ボディビル・センターのトレーニング・マネージャーに就任してから忙がしい日々が続き練習を極端に少なくしていたので、整調に時間的な余裕が欲しかったのです。

 さあ!本格的な練習再開です。3月1日から始まったそのスケジュールを紹介すると月・水・金は肩16セット、広背20セット、胸14セット、上腕13セット、前腕4セットで上半身を合計68セット。火・木・土は脚13セット、腹6セット、僧帽4セット、首4セット、臀3セットで合計30セット。1週間の練習量は294セットです。

 このスケジュールでのトレーニングが半月ほど経過して、練習中息切れもしなくなり、体にも張りが出てきて一応の調子に乗り始めたとひと安心していた頃に、右首から肩甲骨脇にかけスジをひどく痛めてしまいました。

 その日は3月中旬にしては肌寒い日でした。肩の練習中に用事があって10分間ほどトレーニングを中断したのちにバック・プレスを再開したとき、電気に触れたような鋭角的な痛みをその部分に感じたのでしたが、その場ではたいしたこともなかろうと簡単に考えて、運動しても痛くない種目のみを選んで、そのままトレーニングを2時間ほど継続しました。

 しかし、その夜寝床に入ってから急に激しく痛みを感じるようになり、寝返りは左手を支えにしなければできずに一晩ろくに眠られずに過しました。

 翌朝はなお一層ひどく、右腕がまったく上がらないのです。

 昨日の不注意を悔んではみたものの、今となってはすでにあとの祭りでただ途方に暮れるばかりです。

 それからの1カ月半から2カ月間というものは、起床直後は右腕が殆んど動かないので、寝巻を脱ぐのにも母親の手を借り、洗顔、歯磨は左手1本のみで済まさなければならず、五体健全の有難味をつくづくと思い知らされました。

 そんなポンコツになっても練習に対する執念は捨て切れずに、連日、マッサージ、指圧その他ありとあらゆる治療をワラをもつかむ気持で受けながら、首筋から肩、背に影響の少ない種目でトレーニングを継続しました。

 しかし、上半身の殆んどの運動種目を行なうのに、その部分にはどうしても力が入るもので、治療と練習の「イタチゴッコ」で、なかなか回復せず、かといって、生まれて始めてのコンテストを2~3カ月のちに控えているので、休養に踏み切れなかったのですが、今にして思えば完全に休養した方が良かったようです。


 ミスター東日本コンテストには、静岡以東の有力ビルダーがすべて結集しました。勝負は、栃木の強豪、小林淳選手と東京の新進小島一夫選手の二人の争いであったが、僅差で小林選手がタイトルを手中に収めた。

 私はこのコンテストを見て両選手の進境の著しさにびっくりすると同時に、ミスター日本への決意を改めて固くしました。

 この頃になって、7月27日シンガポールで行なわれるミスター・アジアに日本が初参加することが本決まりになって、その代表選抜コンテストを、前年のミスター日本コンテストの一位を除く決勝進出者11名を招待選手として、ミスター東京と同時に行なうとの報せが入ったのです。

 体は痛めているし、初出場のコンテストのことだから、実力を十分に出し切れるはずはないので、ミスター東京を軽く終らせて、秋のミスター日本までにゆっくり整調しようとした私の構想が根底から崩れてしまいました。

 昨年のミスター日本の決勝進出者全員とミスター東京の出場者が同時に競うということは、事実上の今年のミスター日本コンテストではないか。

 もう悠長なことはいっていられません。首筋の痛みも少しは柔らいできたので、練習量も増やして月・水・金曜日を上半身合計90セット。火・木・土曜日を下半身と腹部で合計35セット。

 1週間375セットのハード・トレーニングに切り換えました。

 それと同時に、今迄コンテスト出場は全然考えたことがなかったので、ポーズ練習はまったくといってよいほど行なっていなかったので、その研究に多くの時間をかけました。

 それにも増して苦労したのは、元来白い肌の私は少しばかり焼いたところで2~3日陽に当らないでいるとすぐに褪めてしまうので、天気の良い日には必ず日光浴をしなければならず、スタミナを激しく消耗したあとの猛練習は、苦しいの一言に尽きました。

 それまでの12年間の練習は、隔日に6時間ずつ友達もびっくりするほどの猛スケジュールを消化しても、苦しさの中にも常に楽しさがあったものですが、コンテストを目指したトレーニングは、ただただ苦しさと不安とがあるのみでした。

 スポーツは趣味で行なっているうちは楽しいものですが、他に抜きん出ようと考えたときから苦しさに変わるものなのでしょう。

 しかし、それと同時に、スポーツあるいは武道などから得られる最も深遠な「何もの」かは、この剣ガ峰に立って、それを乗り越えたときに得られるものなのかも知れません。

 いずれにしても、その厳しい現実から逃避せずに、それを積極的に克服しようとしてこそスポーツのもつ滋養を吸収することができるのでしょう。

ミスター東京

 さて、不安と自信が交錯するなかにミスター東京コンテストおよびミスターアジア日本代表選抜コンテストを迎えたのです。戦前の私の予想では、さきに行なわれたミスター東日本の上位2名。すなわち小林さんと小島君が相手と思っていました。それが当日集合したところで見渡すと、前年のミスター日本で11位だった吉村太一さんが、びっくりする様な上半身の発達を示していたではないですか。

 前年のコンテストから僅か7カ月の短い期間でこれだけの進歩を見せるとは、よほどの努力をしたものであろうとただただ敬服するばかりです。

 しかし、勝負となれば対戦相手に感心ばかりもしていられません。

 当方も日頃鍛えた実力を発揮せんものと、勢い込んで予選審査に臨みましたが、連日研究したはずのポーズがまるで生きてこず、見る者をして赤面させるほどの破廉恥ポーズに終ってしまいました。

 それでも何とか1位で予選を通過と聞いたときには、この勝負はいただけると思いました。あのポーズで1位ならば決勝で少し落ち着いて演技すればミスター・アジア日本代表は我が手中にと簡単に考えたこの浅ましさ。

 いよいよあとのない決勝です。落ち着いてポージングする予定でいたのですが、いざ演技台に上ってみると、負けると困ると思う気持が働いたのでしょうか。精神と肉体とが協力しあわずに、筋肉のみが先走ってしまい、浅草寺の仁王様も顔負けするほどのリキミようで、まるでポージングなどというしろものではありませんでした。

 それでも何とか優勝させて戴きましたが、仲間うちでは、“日本のコンテスト史上最もポージングのまずいチャンピオン”と悪口をたたかれました。

 このコンテストの模様を詳細に伝えた本誌43年8月号から引用してみましよう。(筆者は玉利理事長)。

「身長178センチ、体重94キロというミスターは、日本のボディ・コンテスト史上もっとも大型の選手だ。日本のボディ・コンテストも、14年目で、大きさの点では国際的スケールをもつ選手を生み出したわけである。

 しかし、より完全に発達した肉体を望むなら、さまざまな欠点が指摘できる。筋肉的には、他の筋肉にくらべやや三角筋と広背筋の不足が目についた。次に、全身についてもいえることだが、とくに大腿部の筋肉のディフィニションが弱い。最後に、ポージングがまるでなっていないということだ。

 しかし、これらの欠点を克服したときは、すばらしい大ビルダーに成長する可能性をもっていることは明らかである……」
月刊ボディビルディング1969年7月号

Recommend