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ボディビルと私 1971年12月号
私たちはボディビル一家

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月刊ボディビルディング1971年12月号
掲載日:2018.05.29
村上ボディビル・ジム・コーチ 村上 健

プロレスラーの逞しい肉体に魅せられて

 私がボディビルというものを知ったのは、今から15、6年前だったと記憶している。今日のこの隆盛からは想像できないかも知れないが、その当時は、ボディビルという名称も始めて耳にしたし、もちろんトレーニングの方法など、まったくわからない未知のスポーツだった。

 当時、プロレスの王者・力道山が、反則の限りをつくすアメリカ人レスラーを、空手チョップで叩きのめすその光景に、日本の全国民が沸きに沸いた。そして、力道山の逞しい肉体は、日本人でも鍛えれば外人にも負けない筋肉と体力をつくれるという事実を身をもって示してくれたのである。

 もちろん、私もこの男らしいプロレスの大ファンであった。そして、この逞しい肉体をつくるボディビルに大きな関心をもつようになった。

 やがて爆発的なプロレスの人気が、新しい体力づくり、ボディビルに一層拍車をかけ、最初のボディビル・ブームが到来したのである。

 その頃、兄が仕事の関係で広島に行っていた。その帰り、当時としては非常にめずらしいエキスパンダーを1本お土産に買ってきてくれた。私は得意になって学校(中学校)にまで持っていって友だちに見せびらかしたものだった。ある日、担任の先生が「村上、おもしろいものを持っているなあ」といって、顔を真赤にしてそのエキスパンダーを引っ張っていたのが、ついこの間のことのようになつかしく思い出される。

 エキスパンダーにもの足りなくなった私たちは、東京から10㌔ダンベルを取り寄せ、ボディビル雑誌を見ながら兄といっしょによくトレーニングをした。しかし、日がたつにつれ、この僅かの器具では大して効果もあがらず、本格的にトレーニングできるところはないものかと探し回ったこともある。もちろん、その当時、富山には専門的なジムもなく、何人くらいボディビル愛好者がいるのか、それすらもわからない状態だった。

 その頃の月刊ボディビル誌は、確かベースボール・マガジン社から出版されていて、表紙には、クラレンス・ロスとかジャック・デリンジャーなど当時一流のビルダーが載っていた。またプロレスの王者・力道山が表紙につかわれていたこともあった。それから、プロレスの雑誌にもミスター日本コンテストの模様が2〜3ページにわたって載っていたのも昔日の感がする。

兄弟三人寄ればボディビルの話

 それはたしか42年の春のことであった。町を歩いていると、電柱の貼り紙に「ボディビルで健康になろう!!入会者求む」と書いてあるではないか。富山にもいよいよジムができたのかと心をおどらせて、さっそく行ってみるとこれがまたジムとは名ばかりで、物置きに僅かばかりの器具を置いた、ひどいシロモノだった。

 そこは、卓球場の横の空家を借りたもので、床は張ってなく、また夜は卓球場からもれる明かりを頼りにトレーニングをするという具合だった。そして、少しではあったが、私たち兄弟が前から集めていた器具もそこへ持っていってみんなといっしょに使った。

 会員も少しずつ増え、電球も取り付け、設備もいくらか整って、ようやく軌道にのりかけたやさき、家主から、「ここを使うことになったから、出ていってもらいたい」という申し入れがあった。

 私たち兄弟にとっても、本格的にボディビルができると喜んでいただけにそのショックは大へんなものだった。しかし、いまになって考えると、うす暗い明かりの下で少ない器具を譲りあいながらトレーニングしたり、夜おそくまでボディビルについて語り合ったことがなつかしく思い出される。

 その後、以前いっしよにトレーニングしていた友人の勤めている会社にボディビルのクラブができ、部外者の私は無理をお願いして練習させてもらったこともある。

 こうしているうちに、私たちの人生とボディビルは、切っても切れない関係になっていった。そのころ、兄が「本格的な練習場をつくって、2人でやろうじゃぁないか」といい出した。もちろん私に反対する理由があるはずがない。意見はすぐに一致し、さっそく練習場づくりに着手した。そして45年11月、ささやかな練習場はできあがった。

 余談だが、私の上に2人の兄がいる。すなわち、私は3男である(あたりまえの事である)。2番目の兄は、私たちの住んでいるところから少し離れている関係上、別の場所に小屋を建ててトレーニングをしている。とにかく3人とも、ボディビルが好きで好きでたまらないのである。そういうわけで、3人寄ればすぐにボディビルの話に花が咲く。なんの話をしていても、最後は必ずボディビルの話になってしまうまったくおかしな兄弟である。
'69ミスター富山に出場したときの私

'69ミスター富山に出場したときの私

"ボディビルー家"左から長男、父親、二男、私('70ミスター富山コンテスト会場にて)

"ボディビルー家"左から長男、父親、二男、私('70ミスター富山コンテスト会場にて)

ボディビルの本質をもっと深く理解しよう

 練習場をつくった最初の動機は、私たち兄弟2人だけでトレーニングするための、いわゆるホーム・ジム的なものであった。そのうちに、私たちの練習場のことを人づてに聞いて、ボディビル好きの連中が、いっしよにトレーニングさせてくれといってくるようになった。それならいっそ、1人でも多くの人にボディビルというものを理解してもらうために、会員制度にしようということで現在のこの「村上ボディビル・ジム」ができたわけである。

 なにしろ、2人だけでやるつもりで建てたものであるから、現在のように一度に数十人が練習しようとすると、器具のあくのを待っていなければならないといった支障がおこり、いまこのことでいちばん頭を痛めている。

 ジムをはじめて気がついたことであるが、新しく入会した人の中に、1カ月か2カ月でもう逞しいからだになれると思っている人が多いのにはびっくりしてしまう。どんなスポーツでも、根気や根性といったものが必要なのはいうまでもないが、ボディビルはその中でもとくに根気がいるものである。入会しても長続きせず、すぐやめていく人が以外に多いのは、ボディビルの本質を理解していないためであり、その効果を急ぎすぎるからだと思う。

 また、私の身近にも「ボディビルなんて筋肉だけが発達して、内臓の強化がともなわない」といったような誤った考え方をしている人がたくさんいるのには、ほんとうになさけなくなってくる。そういう人たちに、ボディビル本来の姿を理解してもらい、これを広く普及するために、関係者は一層努力しなければならないと思う。

 ある人が「からだを鍛える目的は、必ずしもスポーツ競技で発揮される機能性のみを求めるだけでなく、ボディビルの鍛練のように、スポーツの機能性本位から離れた、純粋な肉体自身だけのためにあってもよい」といっているが、私もその意見にまったく同感である。

 人間は生きている限り健康でなくてはならない。そのためにも、スポーツ競技で発揮される機能性のみをからだに求めていては、おのずから限界というものがある。純粋な肉体自身のためにあるボディビルこそ、人間が以前から求めていた理想のものだと思う。

富山県のボディビルの現況

 45年7月に県協会理事長をはじめ、各関係者のご努力により、富山県ボディビル協会が発足した。

 協会発足以前に同好会として記録挑戦会を行なっていたが、協会ができてからの正式な行事としては、7月下旬にミスター富山コンテスト、それに春と秋に記録挑戦会を行なっている。

 とくに、過日行なわれた'71ミスター富山コンテストには、県理事長をはじめ関係者の強い要望で、日本ボディビル協会の玉利相談役と末光選手にわざわざお出いただき、有益なお話や、すばらしいポージングを見せていただいた。このことは、富山県のボディビル関係者および愛好者にとって、何ものにもかえがたい励みになったことと思う。改めて誌上をかりてお礼を申し上げます。

ボディビルを生涯の友として

 もはや私にとってボディビルは生活の一部となってしまった。からだの続く限り無理をせず長くやっていきたいと思う。とかく日本人は、学生時代にはスポーツをやるが、いったん社会人として働きだすと、ピタリとやめてしまう人が多い。また、スポーツを見るには見るが、自分でやろうとする人が案外少ない。

 私にはいま2才になる息子がいるが、私のやっているのを真似をしてか、棒をもって上げたり下げたりしているのを見ると、やっばり血筋は争えないものだと1人感心したり、心強く思ったりしている。

 ボディビルは勝負や記録にこだわらず、自分の年令・体力に合った練習をすればよいのであるから、老若男女、誰にでも簡単にできるもっとも理想的な体力づくりだと思う。

 これからボディビルがますます発展することを祈り、私もボディビルのためにがんばり続けたいと思う。

驚異のビルダーたち

記事画像3
 体重の増えた一例で凄いのは、プロレスのオールドファンならよく知っている、日系二世のハロルド坂田(トッシ・トーゴーというリング・ネームで、グレート・トーゴーとタッグを組んでいたことがある)などは、17才のときは身長172.7cm、体重はなんと47kgという、か細い肉体の所有者だった。

 ところが、ボディビルを始めたら、たちまち体重が増え、10年後のロンドンオリンピック大会(1948年)には重量あげに出場し、ライト・へビー級(75〜82.5kg)で堂々2位に入賞。その後プロレスラーに転向、体重も110〜120kgに増加したというから、ボディビルの効果に馴れている、われわれボディビル愛好者でも、その発達ぶりにはただ恐れ入るばかりだ。

× × ×

 年令40才を越えているのに、いまだ衰ろえるどころか、ますますよくなっているビル・パールの発達もまた素晴らしい。彼は、1953年のNABBAアマ・ミスター・ユニバースに始めて優勝し、8年後、14年後、そして18年後の今年と、3回もこのコンテストのプロの部門で優勝をしているのである。

 しかも、3回目の優勝を飾ったときのビル・パールは、あの巨大なバルクに加え、さらに一段とデフィニションが増していたという。同じコンテストに参加していたグレート・ビルダーの1人であるジム・パークも、前年度よりはるかに凄味のあるからだで出場していたが、ついに、ビル・パールに追いつくことはできなかった。

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 信じがたいといえば、アメリカの52才になるバーニー・ワグナーというビルダーは、6年間のトレーニングのすえ、シット・アップを10、110回も連続行なったという。さすがに時間もかなりかかり、4時間13分を要したということである。

 いくらたいらな腹筋台で行なったといえども、われわれの常識では、50〜100回もできればいいところで、数百回も行なえば驚異といいたくなる。それが1万回を軽くオーバーとは、まさにあいた口がふさがらない。

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 そういえば、ビルダーではないが、日本にも71才になる老人スーパーマンがいて、「体育の日」に、自分の年令と同じ距離、つまり71kmを7時間10分で走破したということだが、この"老人パワー"にもカブトをぬぐ思いである。

 まったく、鍛えれば強くなるという言葉は、トシには関係ないということらしい。問題は、それを実行する努力があるか、ないかである。

 ビルダー諸君、ガンバリましょう!! (H・F)
月刊ボディビルディング1971年12月号

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