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高年層ボディビルの水先案内たらん ◇ 松 尾 啓 吉 氏 ◇

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月刊ボディビルディング1969年8月号
掲載日:2018.04.09
山田 豊
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松尾啓吉氏の体位表

(昭和37年1月よりバーベルとダンベルを使用)
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54歳でスタート

 松尾啓吉氏の書斎には、ドアが2つついている。1つは廊下との出入り用であり、1つはジムへのものだ。ジム→つまり松尾氏はボディビルのホーム・ジムを持っているのである。

 詩人であり、ドイツ哲学の高峰ハイデッガーの「存在と時間」上・下巻(勁草書房刊)の名訳者として、その業績を高く評価されている松尾氏は、ボディビルのかくれた愛好家である。だから、日常の仕事の場である書斎からドア1つへだてただけのところにジムのあることは、まずは理想的な環境といってよいであろう。日本家屋の2階の1室にそのまま器具をもちこんでのものだが、1人でやるにはぜいたくすぎるくらい完備されたジムである。

 ジムの誕生は昭和37年。ときに松尾氏は54才だった。そしてジムをつくると同時に、松尾氏の本格的なボディビルは始められた。

 氏はスタートから1人でやってきた。それはこんにちでも変わっていない。

 しかし、氏がボディビルに接したのは、ジムをつくるよりもっと前にさかのぼる。接したといっても目にしたのだが……

「一時ボディビル・ブームがあったでしょう。最初のブームですか。あのころ、このへんにもジムができましてね。そのころ見物にいったことがあるんです。ですから、“ボディビル”という言葉そのものはそのころから知ってました」

 昭和31年ごろであろう。当時、それまでひとにぎりの人々の間にしか行なわれていなかったボディビルが、爆発的なブームをまきおこした。原因はいくつか考えられるが、テレビに登場したことが、表面的にはそのもっとも大きなものといえるだろう。なにしろ、テレビそのものがまだ珍しく、街頭テレビはなやかなりし時代だったから、たちまち世間の話題となった。全国各地にボディビルのジムが雨後のタケノコのように出現した。松尾氏の住む東京都目黒区自由ヶ丘は東急電鉄沿線の繁華街自由ケ丘駅の近くだが、その界わいにもジムが出現したという。松尾氏もそうした世間の評判にふと興味をそそられたのであろう。

 そしてその結果が、すぐには実践に移らなかったが、ダンベルを買い入れるという事態に発展した。じつは、氏は20代から鉄アレイを使用しての自己流の軽い運動を行なっていたので、その経験もダンベルを手にする気をさそったのかもしれない。

「バーベルは、そのとき運動店には長いシャフトしかなく、家で使うにはいかにも都合がわるそうに思えたのでやめにしたんです」

 ともあれ、ダンベルを仕入れてからの氏は、ラタラル・レイズをぼちぼちやりだした。いや、ラタラル・レイズのようなものといったほうが正確だろう。

 いわゆるボディビルとしてとりかかったわけではまだなかった時期だから。

 数年たって、

「たまたま、また運動具店の前を通りかかったところ、こんどは手ごろなシャフトがあったんです。これなら家でふりまわしてもぶつかることもあるまいと考えて、そこでバーベルを買いました」

 それが昭和37年というわけである。

「ウェイトの固定したものより、プレイトの変えられるもののほうが、興味はございますからね」

 かくて、氏のボディビルは本格的に開始された。

仕事と体力

 一昨年還暦を迎えた松尾氏だが、皮ふはつややかで体躯はたくましく、全身にふしぎなほど若さがみなぎっていて、とてもそんな年齢とは見えない。

 だが昔は、少なくともボディビルを始めるまでは、

「大病こそしなかったが、健康にはつねに不安を感じていたんですよ。5人の兄が次々に、大学を卒業前後の年代に病気で世を去っていたような状態でしたから……」

 体力とかなんとかよりも、健康そのものに自信がなかった。ことに青年時代までは、

「いつもあお白い顔色で、やせていて徴兵検査のときの体重が11貫(41.25kg)いくら……蚊トンボといわれていたくらいで……」

 まったく貧弱な体だったという。が、そんな松尾氏がいまや、見ちがえるばかりの体格である。ボディビルの毎日欠かさぬ積み重ねのたまものにほかならない。

 それにしても、松尾氏がボディビルに本格的に打ちこむ気持になったのは54才のときである。本誌6月号に紹介した加淵清太郎氏の52才をさらに2年上まわる年齢である。そして松尾氏も加淵氏の場合と同様、目を見はらせる成果をあげて、ボディビルが若い世代の専有物ではないことを実証した。

 両氏の事例だけでも、ボディビルの幅の広さをいまさらながら思わずにはいられない。

 ところで、松尾氏が54才から、しかも自宅のひと間をあえてつぶしてまでボディビルを考えた原因だが、いろいろうかがってみると、直接の動機は、当時の仕事へのはげしい情熱から、ということができそうである。

 ちょうど氏がボディビルを志したころは、前記のハイデッガーの大著「存在と時間」の翻訳にすべてをかたむけて取り組んでいたさいちゅうであった。「存在と時間」の上梓までに10年をついやしたという。10年……口でいうのはかんたんだが、現実に10年からの歳月をただ1つのものに没頭するのは容易なことではない。たんに日々の根気ばかりでなく、同書の索引作製のために用いたカードが4畳半にいっぱいになったそうだから、カードを分類するだけでもかなりの体力が要求されたろう。

 カード1つを例にとってみてもそんなぐあいだった。一言にしていえば、辛抱がなかったらとてもやれる仕事ではなかったろう。

 しかしけっきょく、辛抱といったところで、せんじつめれば、健康によって支えられているもの。スタミナはいうまでもなく精神力にしても、健康の好不調が微妙に影響する、とはつとにいわれているところである。したがって、もともと健康面での不安につきまとわれていただけに、松尾氏としては肉体上の無力による仕事の挫折だけはなんとしても防ぎたい気持だったろう。「存在と時間」は、上巻は35年に、下巻は41年に世に出されたが、氏は

「最後は体力だ、と思っていました」

 と、いみじくも打ちあけられた。
ダンベル・カールで腕をきたえる

ダンベル・カールで腕をきたえる

 業成ってもう3年たつ。しかし松尾氏はいまなお、1日に1度はかならずジムへはいっている。ということは、いまやボディビルは氏の生活の一部になりきったということである。うれいことではないか。

手さぐりでやりぬく

 ホーム・ジムをつくった理由を

「(町の)ジムへ行くのは、何かちょっと恥ずかしくて、その勇気がなかったからなんです。おそらく40代なら行ってたかもしれませんが……」

と説明する。

 ボディビルの性格そのものは幅広いが、町のジムへ出かけるとなると、やはり気おくれするものがあるとは、年輩者からよく聞くところである。その気持はわからぬでもない。若い人たちが圧倒的に多いところから、ペースを乱される不安をいだかされるのだろう。日本のボディビルがこんごさらに浸透していくためには、そのへんにも考えねばならない余地はありそうだ。
 松尾氏にしても、気がるに町のジムへはいっていけたら、何もわざわざホーム・ジムを持つ必要もなかったにちがいない。

 不自由といえば、年代のいかんによらず、個人ビルダーが最初にぶつかる悩みの1つに、コーチの不在がある。せっかくその気になっても、さてじっさいには、何をどうやったらいいのかということである。1人で歩んでいくためには、まずそこから解決していかなければならないが、松尾氏は

「注文したベンチやバーベルも、小型トラックで運びこんでもらいながら、10日間ぐらいは手もふれずに放り出したまま。飾っておくのかといわれましたが……。やり方がわからなかったんです」

 そういいながら、机のひき出しから窪田登著「ボディビル入門」「ウェイト・トレーニング」その他4、5冊をとり出して、

「ちょっとごらんください」

 パラパラとめくって見せた。文中いたるところに青と赤の色鉛筆でアンダーラインが引いてあった。

「始めるまえに、いちいちこれらの本を机の上にひろげましてね。読みながらやるより方法はなかった」

 当初は、まったくの手さぐりだったと回想する。

 それだけに、

「からだが変化してきたのに気づいたのは10カ月ぐらいしてからでした。いままでなかったところにもすっかり肉がついて……」

 10カ月、ここでも辛抱がいった。しかし、そのときの喜びはさぞ大きかったことであろう。

 食事もすすんだ。

「おもしろいように食べられて……」

 しかしあまり食べてもということでだいぶまえから1日2食にしている。

「子どものころから肉は好きでしたが、いまだにしょっちゅう食べています。年をとると肉など受けつけなくなるといいますが、ボディビルのおかげで、私の胃袋は老化していないようです」

 心から楽しくてしかたがない、というふうに、松尾氏は破顔一笑した。

モデル・ケースのつもり

 トレーニングは、きちんとしたスケジュールのもとに行なわれている。そのスケジュールにはベンチ・プレスとカールが1日おきに組んである。時間は2時間。時刻は

「朝です。自由業ですから、朝のうちがいちばん時間があるんです」

 朝飯まえのひと汗というところ。

 氏のトレーニングの特徴は、セットとセットの間にも体を動かしていること。ベンチ・プレスの日は、

「インクライン・ベンチで腹筋運動」

カールの日は、

「廊下をランニング」

である。

 過去7年のキャリアの中で、1度、腰を痛めたことがあった。

「スクワットで50kgやったときでした。歩いたりボディビルをやるにはさしつかえなかったんですが、立ったりすわったりに軽い痛みを感じました。でもいまはなんともありません。そのうちまたベンチ・スクワットからやってみようと考えています」

 いままで故障らしいものといったらそれだけだったという。

 松尾氏は職業柄、在宅時間が長いので、近所の人たちと顔を合わせる機会も多い。当然、ボディビルの話題も出る。今までに近くのおとうふ屋のご主人や他になお若い2、3の友人がジムを借りにきているそうだが、ボディビルを人にすすめるということについて氏はどう考えているだろうか。
ベンチ・プレスで若々しく発達した胸に

ベンチ・プレスで若々しく発達した胸に

「いま、月に2回、血圧を測ってもらいにいってますが、うっかりお医者さんにボディビルをやっているなどといったら、おそらく反対されると思ってますので、何をやってるんだときかれても、なにゴルフにちょっと毛のはえたようなもの、とごまかしているんです。もちろん、高年層とボディビルについてちゃんとしたデータがあればはっきりいえるわけですから、その意味で、私の場合も含めて、データがほしいですね」

 中高年者にやみくもにすすめるには時期尚早というところか。しかし、

「ボディビルをやっていると、故障が早くわかるのではないでしょうか。私は、今日はどうも調子が出ないなと思ったときは、どこか悪いのではないかとすぐ考える」

 松尾氏自身は、体験を通してそうした知恵をつかんだと語る。その言葉からでも、ヒタイがヒザにつくほど柔軟性のある松尾氏の現在のからだ、健康はボディビルによって支えられているといっても過言ではなさそう。

 最後に、

「37年から始めて現在まだ体力は向上しつつあります。このあいだ若い友人にさそわれて、温水プールで10年ぶりに泳ぎましたが、満員のため700メートルほど泳いでひきあげました。10年ぶりの水泳にぜんぜん疲れも息切れもしないということ、これは自分ながらまったく思いもよらぬことであり、おどろきでした。もっぱらボディビルが養う持久力のおかげだと思い、ますますそれへの信頼を深めました。どこまでやれるか。いずれはピークがおとずれるでしょうが、そのときは2.5kgずつでもへらしていこうと思っています。そして最後はどんな形で終わるか。よく見とどけておいてください。年とってから始めたので、どこを向いてもカベばかり、というきびしさはありましたが、高年層ボディビル運動の私は水先案内の気持です」

 さかんな意気が吐露された。

昭和44年5月(61歳)現在のスケジュール

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月刊ボディビルディング1969年8月号

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