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ミスター・ワールド
道中記(その2)

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月刊ボディビルディング1972年5月号
掲載日:2018.02.02
’70ミスター日本
’71ミスター・ワールド2位
武本 蒼岳
記事画像1

ショートマン・クラス2位に入賞
もらったトロフィーはベスト・レッグ あわててコロンボと交換

 脚の部分賞はコロンボにさらわれ、すでに各クラス3位の表彰式も終わってしまった。絶望のドン底にたたき落とされた私は、アナウンスの声などまったく耳に入らなかった。
 舞台のほうはどんどん進行し、各クラスの2位が呼ばれている。「へイ・カモン!タケモト」聞きおぼえのある声にハッと我にかえった。両手を大きくひろげてトム氏が近づいてきた。「何をしているんだ。早く舞台にあがれ」と、どなっている。
突然なので気が転倒していて、いったいどうなっているのかまったく見当がつかない。
 押し出されるように舞台にあがり、トロフィーをもらった。プレートを見るとベスト・レッグと書いてある。
さっきは確かに私の名前は呼ばれなかったのに、あるいは聞き洩らしたのかといままでの失望はどこへやら吹っとんで、喜んで控室へ帰ってきた。
 多くの選手たちから握手を求められ肩をたたいて祝福してくれた。さっそくトム氏に報告に行く。彼は2本の指を立ててウインクしながら「2位に入賞しておめでとう」という。
 ますますわからなくなってきた。しかしと彼にトロフィーのプレートを見せると「オー!ノー」といって、コロンボのトロフィーと間違えたのだろうから彼のところへ行ってチェンジしてもらえという。コロンボにわけを話して取り換えてもらい、ようやく2位になった実感がわいてきた。
 ジョニー・マルドナルドもこの大会にきていて、ハデなゼスチュアーでとんできて祝福してくれた。そして、前よりも前腕が非常に良くなっていたから2位に入れたんだとほめてくれた。
彼とは3年前にマイアミで会ったことがあり、それをよくおぼえていてくれたのだ。
 肩の荷がおりて気分が楽になってきた。ホテルに帰ったが興奮気味で眠ることができない。河野君と2人で語り合い、夜も白々と明けようとする頃ようやく眠りにつくことができた。

アメリカのジムとトップ・ビルダーのトレーニング

 翌朝、ミッドシティ・クラブに行くと、チャーリー・コーラスやケン・ウォーラーたちがやってきた。
彼等もきのうのコンテストを見たらしく、素晴らしかったと声をかけてくれた。
 やがて2人はトレーニングをはじめた。見ればなんとケン・ウォーラーの腕の太いこと。ただただア然とするばかりだ。河野君は懸命にシャッターを押しつづけている。
 ウォーラーは実に人の良い性格のようだ。私にも「一緒にトレーニングをしよう」と声をかけてくれたが、今日ばかりはどうしてもトレーニングする気がしないので、彼等の練習を観察することにした。
 彼等の練習は、どちらかというとストリクト・スタイルで、かなり重いウェイトを使っている。そして、意外にもコーラスがウォーラーにコーチしている。
肩の運動種目が多く、私も初めて見る変った種目をやっていた。またこのコンビもインターバルが短い。
 アメリカでは、コンテスト・ビルダーの多くは、このようにいつも決ったトレーニング・パートナーがいる。
 タイミングよく河野君がポージングの撮影を申し込むと心よく応じてくれチャーリーと2人で丹念にポーズをとってくれた。
 ここでちょっとミッドシティ・ヘルス・クラブを紹介しよう。
 ブロードウェイ42番街のほぼ中央にあるビルの2階にあって、トレーニング場はかなり広い。
シャワー・ルーム、サン・ルーム、ジュース・バー、談話室、ロッカー・ルーム、事務室などがあり、もちろんエア・・コンディションは完備されている。
 このジムも100ポンド(約45kg)以上のダンベルがズラリとならんでいた。コーチはトム氏ともう1人。とくにトム氏の人気はバツグンで、よく繁昌している。
 そうそう忘れるところだったが、このトム氏は、プロレスのWWWFマジソン・スクェヤー・ガーデンの王者、ブルーノ・サンマルチーノのトレーニング・コーチであり、親友でもあるそうだ。
そういえば、練習場の片すみに大きなレスリング・シューズとトランクスが置いてあった。
 翌日、またこのジムに行くと、運よくフランコ・コロンボとエド・コー二ーが練習していた。なんとすさまじいトレーニングだろう。
私もトレーニングの量では人後に落ちないと思っていたが、まったくケタが違うのである。これでようやく彼等の筋肉のすごさと大食のナゾがとけた。
 トレーニング・スタイルは、さきに述べたケン・ウォーラーたちと違い、主にチーティング・スタイルである。
エド・コーニーは、ミスターUSAに挑戦するため、6ヵ月ばかりカリフォルニアのコロンボのところでパートナーを組んで練習してきたといっていた。そういわれてみれば、なかなかイキも合っている。
 まず、彼等は全身のトレーニングを行なった。チーティング・スタイルではあるが、それにしてもものすごいへビー・ウェイトだ。しかも、回数などはまるで無視している。
 たとえば、スコット・カールをやる場合、最初20回ぐらい行なっていき、最後には10回以下というセット内容である。もちろん、この1種目だけではなく4〜5種目の一連のセットを行なう強烈なシステムである。
なお、なかには6回ぐらいの低回数の種目も含まれている。
 このように、従来からあるような何何システムというものではなく、まったく彼等独特のやりかたで、多角的により強い刺激を求めてトレーニングしているのがよくわかる。
 パートナーは、コロンボの前に立っていて、疲れてくると大声でまるで叱りつけるように“カモン!カモン!”と元気づけ、1回でも多くやらせようとする。
このパートナーは、練習している者と実力がほぼ同じぐらいでないと難しいと思われた。
 しかし、彼等とて1年中このようなきびしいトレーニングはできないだろう。おそらく、コンテスト前の2〜3ヵ月の期間だと思う。

予想外の2位入賞がわざわい
 大会後調子くずす

 アメリカでのスケジュールを全部終わり、同行の河野君と今後のスケジュールについて話し合う。
大会後、体の調子がすぐれず、空気のぬけた風船のようになり、精神的な緊張感もすっかりなくなって、どうしてもトレーニングする意欲もわいてこなかった。
 ミスター・ワールドの予想外の2位入賞がわざわいしたのか、気持がおじけづいたのか、とにかくこれ以上旅を続けるのが苦痛であった。
河野君が楽しみにしていたヨーロッパ行きも中止することになり、彼には気の毒でしかたがなかった。
 私がここまで活躍できたのも、彼の陰の協力があったからであり、何の苦情もいわず、私の気ままな行動に黙ってついてきてくれ、いろいろとめんどうをかけた彼に感謝せずにはいられない。
 15日、今日は出発以来始めて河野君と別行動をとる。彼はニューヨーク見物に出かけ、私はジムへ行く。
 ジムにはコロンボ、コーニー、チャーリーたちが集っていた。
 たまたまビル・パールの話が出たので、私が「いまここに来る途中ビル・パールに会った。セーターの上から見たのでよくわからないが、以前に見たときよりだいぶよくなっているようだ。それに、あのギラギラ光る眼が印象的だった」というと、みんないっせいに私の方を見た。
 チャーリーが「セルジオ・オリバと比べたらどっちがよいか?」と聞き返してきた。私は「オリバは先日よく見たが、パールはセーターの上からしか見ていないので比較できない」と答えた。
彼らはパールの方がオリバより数段すぐれているといわんばかりの聞き方だった。
 オリバは確かに3年前に見たときよりグーンと大きくなってはいたが、彼特有の腕から肩にかけてのバックの素晴らしいデフィニションは、昔のそれではなかった。
果して、このすぐ後で行なわれた'71NABBAプロ・ミスター・ユニバースでは、ビル・パールはオリバをおさえてチャンピオンになった。
 午後11時、コンテストの結果とスケジュールの変更を伝えるために日本協会に電話を入れる。玉利理事長(現相談役)にことの次第を話し、その他の用件の連絡をとる。
 16日、今日はニューヨークを発って一路帰国の途へ。早朝からバタバタと準備に忙しい。トム氏とゲーブ氏が車で空港まで送ってくれた。両氏にはほんとうにいろいろお世話になった。
 数々の思い出を残して別れるのはつらい。胸がジーンとしてとても淋しい。
「さようなら、ミスター・トム、ミスター・ゲーブ。いつの日にかもう一度ニューヨークを訪問したい。そして,楽しくボディビルについて語り合いたい」
 日航ダグラスDC8のタラップをふみしめながら、私は何度も何度もふりかえりながら両氏に別れを告げた。
左がミスター・ワールド優勝のフランコ・コロンボ右はミスターUSA優勝のエド・コーニー

左がミスター・ワールド優勝のフランコ・コロンボ右はミスターUSA優勝のエド・コーニー

月刊ボディビルディング1972年5月号

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