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世界パワーリフティング大会に出場して<1>
ついにやった!! 因幡、世界フライ級完全制覇

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月刊ボディビルディング1975年1月号
掲載日:2018.07.31
国分寺ボディビル・クラブ会長 関 二三男

初の海外遠征に出発

 11月5日、昨日のミスター・ジャパン・コンテスト優勝の喜びをかみしめているひまもなく、ペンシルバニアのヨーク市で行われるAAU世界パワー選手権大会ならびにミスター・ワールド・コンテストに出場するため、あわただしく準備を整え、午後7時15分、羽田を発ってホノルルへ向かった。

 最初は私と因幡英昭君の2人で行く予定だったが、言葉の違うアメリカで試合に臨むのは何かと大変だろうと、遠藤光男氏が団長として同行してくれることになった。

 太平洋上で日付変更線を越え、11月5日午前7時ホノルルに着く。胸の日の丸が効いたか、税関を軽くパス。ひと休みして米国本土に向う。6時間後にロスに到着。ロス→ニューヨーク間の乗り換えまでに7時間ばかり余裕があったので、ロスでヘルク・クラブを経営している’65ミスター・日本の多和昭之進氏に連絡をとり、空港まで来ていただいてしばし歓談。ロス出発間際に多和氏の配慮で、次のニューヨークでの乗り換えが面倒なのでシカゴ→ハリスバーグ経由ヨーク行きの飛行機に急拠変更した。

 しかし、これで真っすぐヨーク市に着いたわけではない。シカゴで乗り換えた飛行機は、ハリスバーグの前にもう1ヵ所ピッツパークに着陸した。言葉のわからないわが日本選手団3名はてっきりハリスバーグと錯覚して降りてしまった。そして、ヨークまでタクシーで行くことにした。

 ところがどうも少し変だ。運転手がなにかわけのわからないことを言っていて動こうとしない。よくよく聞いてみると、どうも違うところらしい。あわてて空港の案内人が飛行機と連絡をとってくれたので、なんとかさっきの飛行機に飛び乗り、ハリスバーグに行くことができた。羽田を発ってからなんと30時間もかかってしまった。

 ハリスバーグ空港からヨークまでは小さなバスでハイウエーを15分ばかりいったところである。

 ヨークといえばヨーク・バーベルの会社のあるところだ。ここでのわれわれの宿舎はヨーク・モーターイン。モーターインといっても日本のモーテルと違って、ヨークタウンで一番古風で立派なホテルだった。

 こうしてようやくホテルに落ち着きホッとしたのも束の間、今度は荷物がない。ロスでシカゴ経由に変更したときに、荷物はそのままにしておいたのでニューヨークに着いてしまったのである。さっそく練習しようと思ったがトレパンもシューズもない。次の日の夕方まで着の身着のままで過ごすよりほかなかった。

 途中、シカゴから一緒になったオーストラリアのローリー・バトラー選手が、言葉の不自由なわれわれのためにあちこち電話してくれて、翌日の夕方ようやく荷物がついた。一時はどうなることかと心配しただけに、荷物を見た瞬間、3人で歓声をあげてしまった。
〔各国選手団の入場。中央の日本代表が私〕

〔各国選手団の入場。中央の日本代表が私〕

ヨーク・バーベル・クラブで初練習

 さっそくトレーニングシャツに着替えて、有名なヨーク・バーベル・クラブへ練習に出かけた。このクラブは、行く前に聞いていたほど立派なジムはなく、むしろ重量挙げの練習用に作られたといった感じである。したがって、パワーリフティングの練習にはもってこいである。

 もちろん今度の遠征の第一目的は、因幡君の世界フライ級制覇である。コンディションさえうまくいけば、因幡君の実力からみて優勝は間違いない。まず、私が補助について因幡君が練習を始めた。

 試合2日前なので、きょうはデッド・リフトをやらずにスクワットとベンチ・プレスだけをやることにした。最初、スクワットから100kg×2セット、140kg×1セット、160kg×1セットと各5回ぐらいずつ行なった。

 ちょうどこのジムで練習していた4~5人の外国選手が、因幡君の練習を見て驚いたらしく、みんな寄ってきて見入っていた。そして「彼はどのクラスか?」という。私が「フライ級だ」と答えると、目を丸くしていた。

 続いて185kg×3回、195kg×1回でスクワットを終わり、次にベンチ・プレスの練習である。

 ところが、日本のような台ではなくラックの位置がうんと広くて、両手の外側が乗るようになっている。しかも高さの調節ができない固定式である。われわれ2人はラックからバーベルをとるのがやっとで思うような練習ができない。大会当日もこれと同じ台が使われるらしいとわかってびっくりしたが、試合では補助員がラックからとってくれるというのでやっと安心した。

 練習を終わってホテルに帰り、因幡君も私も普通の食事をとった。フライ級で出る因幡君も、ライト級に出る私もすでに日本を発つ前から体重調整をしていたので、減量にはそれほど心配はしていない。夕食のあと、オーストラリアの選手たちと片言まじりの英語で歓談して床についた。

 試合前日。3人で普通の食事(ステーキ、トマトジュース、フレンチサラダ、パン、オレンジジュース)をすませ、私と遠藤氏は会議に出るために急いでホテルを出た。因幡君には夕方になったらヨーク・バーベル・クラブに行って体重を計ってくるよう注意しておいた。

 会議は10時から始まり、役員の人選や会計報告、規約の変更等が議題にのぼったが、もちろん進行はすべて英語である。一生懸命、耳をすまして聞いていたがよくわからない。そのとき、大沼賢次さん(早大出身、重量あげ選手)と、もう1人、在米の日本婦人が通訳としてかけつけてきてくれた。地獄に仏とはまさにこのことである。

 競技規則は従来からのポンドであるため、キログラムに変更できないものかどうか私は提案した。そして採決の結果、来年度からキログラムで行われることに決定した。会議は延々10時間も続き、終わったのは夜8時だった。

 また、この会議のあと、国際審判員のテストが行われ、私と遠藤氏が受験した。テストの内容は一般ルールだったので苦労しながらもなんとか全問書き込み、2人とも無事合格した。

 こうして長い1日が終わり、ホテルについたときはもうクタクタに疲れてしまった。

 気になっていた因幡君の体重は、フライ級のリミットを1.5kg近くオーバーしていたため、彼は夕食を食べないでベッドに横になっていた。私も以前、4.7kgの減量をした経験があるが、こういうときは1人で静かにしているよりも、にぎやかな方が気がまぎれて良いものだ。ちょうどアメリカやオーストラリアの選手たちが遊びに来たので、因幡君を起こしてかなり遅くまでいろいろ話をした。その中にマクドナルド君(100kg級ベンチ・プレス世界記録保持者)もいて、今回の大会では全種目優勝してみせると張り切っていた。
〔機中で仲良くなったオーストラリアの選手は太い上腕が自慢だった〕

〔機中で仲良くなったオーストラリアの選手は太い上腕が自慢だった〕

試合前のアクシデント

 いよいよ大会当日である。因幡君は興奮してあまり眠れなかったらしく目が少し充血していた。それにヒゲがのびて、ますますやせて見えた。もちろん彼は朝食ぬきだ。私はいくら食べてもライト級リミットにはほど遠いので、あまりおいしくはなかったが腹いっぱい食べた。

 朝食後、10時に会場行きのバスが出ることになっているのだが、それまでイライラのしどおしだった。というのは、ホテルに体重計がないので、果たして因幡君の体重が落ちているかどうかまったくわからない。

 やっとバスが来て、会場につくやいなやハカリにのって調べてみた。51kgOKだ。ようやく落ちついて会場を見ると、実に立派な講堂である。ハイスクールの講堂と聞いていたので、日本の高校のようなガランとした講堂だろうと想像していたのだが、じゅうたんを敷きつめ、照明や音響装置の完備した劇場のような建物だった。ただ、WCの大のほうにドアーがないのには驚いた。馴れないと、いくらリキんでも出てこないものだ。

 しばらくして正式計量があり、2人とも無事通過した。昨晩からなにも食べていない因幡君はさっそくモリモリ食べはじめた。

 舞台のほうに行って器具などを見て帰ってくると、因幡君が青い顔をして恐っている。わけを聞くと、正式計量のあとは、たとえ世界記録が出ても再び体重を計ることはないと教えられていたのに、いまジャマイカの役員に聞いたところでは、そのたびに計量があるという。それで因幡君はノドに指を突っこんで、さっき食べたものを吐き出してしまったあとだった。

 そんなバカなことはない。よしんばそうであっても、トータルは世界記録になるのだ。われわれは世界記録をつくりに来たのではない。その前に、まず優勝しなければならない。

 大沼さんを探して大会役員に聞いてもらったところ、世界選手権の場合は検量を通過すれば、その後出された記録はすべて自動的に世界記録になる。これは重量挙げでも同じで、私もそのように記録していた。

 こうして予想もしなかったアクシデントがあり、この分では因幡君はフライ級で優勝できても、大記録はとても期待できそうもないと私は半ばあきらめるよりほかなかった。

 間もなく競技開始を告げるベルが鳴った。日本の場合は最初にベンチ・プレスであるが、世界大会は因幡君得意のスクワットからである。(つづく)
月刊ボディビルディング1975年1月号

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