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ボディビルと私<その11>”根性人生”

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月刊ボディビルディング1974年3月号
掲載日:2018.06.10
東大阪ボディビル・センター会長 元プロレスラー
月影 四郎

多彩な顔ぶれだった第3回ミスター全日本コンテスト

 前号で紹介した1963年の第3回ミスター全日本コンテストに出場した選手の中に、その後、日本のボディビル界で活躍している人たちが非常にたくさんいるのが目につく。現在の協会運営の中心的役割を果たしている人たちが選手として活躍しはじめたのだった。
 この大会で優勝したのは前年に続いて梯選手、梯君はこのあと1964年度のミスター日本にも選ばれている。2位は小笹選手、小笹選手も1964年、1965と2年連続してミスター全日本を制し、1967年には第13代ミスター日本になっている。3位には京都の吉田薫選手。上位入賞者の中には1960年、1963年度ミスター日本の金沢選手、パワーリフティングで数々の日本記録を樹立した伊集院選手、1970年度ミスター日本の武本選手、十三ボディビル・センター会長の荒木選手、そのほか警視庁の空手競技で数々の優勝をなしとげ、その後ガードマン会社を設立してその本部長に就任している迎選手、第2回全日本コンテスト3位の実績をもつ東選手、本誌1月号の「私の歩んだ道」の主人公、木村選手等の顔が見える。こうした豪華キャストがズラリ勢揃いしたのだから、いま考えても胸がドキドキするくらい興奮したものである。
〔1963年度ミスター全日本コンテスト 左から4人目が武本、木村、東、迎、小笹、伊集院、荒木、吉田、6人おいて金沢、右端が優勝した梯の各選手〕

〔1963年度ミスター全日本コンテスト 左から4人目が武本、木村、東、迎、小笹、伊集院、荒木、吉田、6人おいて金沢、右端が優勝した梯の各選手〕

月影道場からボディビル・ジムへ転換

 映画のアトラクションとして、観客にレスリング、空手等のほんとうのきびしさを見てもらうためにつくった月影道場だったが、ようやく転換をしなければならないときがきた。
 すなわち、古くはターザン映画に出てくる野性的な男性美、そしてギリシャ神話的なスティーブ・リーブスの演じる一連のヘラクレス映画。さらにはプロレス等に刺激されて、この新しい筋肉、体力づくりとしてのボディビルが見直されてきた。それに輪をかけたのが東京オリンピックの開催だった。世界の超一流スポーツマンたちが、その補強運動としてウェイト・トレーニングを採用しているのを見て、その有効性は立証され、ボディビル運動はいっきょに燃えあがった。
 たしかに私が月影道場を創設し、今日まで打ち込んできた青少年の育成指導と体力づくりの目標も、多くの人たちの関心を高め啓蒙をするという点では効果があったが、こうして啓蒙されたよき理解者が、自ら実践するところまではいっていなかった。これからは他人のやるのを見るだけでなく、自ら汗を流し強い体力と根性を養う方向にもっていかなければならない。それにはプロレスや空手よりも、ボディビルの方がはるかに一般の人には向いているように思えた。そして私は、ボディビル・クラブへの転換を決意したのだった。
 そういった点で、これまでいろいろのページで紹介した辻部員(現柔道師範)や滝川部員(現東大阪BBC主任コーチ)門屋部員(現国際BBC、東大阪BBC主任コーチ)、それにレスリング部員らの門下生たちは、今日のボディビル発展の影の功労者であったと、私はつねづね感謝している。
 外国のクラブの運営やトレーニングの方法等も研究し、その頃すでに開設されていた国内のボディビル・センターの経営者たちからの有益なアドバイスを受けたりして着々と私の青写真はできあがっていった。
 幸いにして国際月影道場を基礎として、何とか一般の人たちにボディビルを普及させる殿堂にしたいという私の考えを野口国際日活社長に話したところ、野口社長もかねてから一般社会人の健康と体力養成の必要性を痛感しておられ、できるだけの応援を惜しまないといってくれた。
 そのとき野口社長は、「月影君、いまにきっと健康の必要性が叫ばれるだろう。いや、1日も早くみんながそれに気付いてもらいたい。戦後の日本人はめざましい英知と努力で経済の基盤を確立した。しかし、こうした成長一点張りの社会には必ずヒズミが生じてくる。すなわち健康と体力づくりの必要性を忘れていることである。すでに交通戦争がそれを物語っているではないか。歩くことから出発する体力づくりの原点をくずしているから、スタミナがなくなり、ヘルニアだとかゼンソクなどに悩む人が多くなっている。こうした成長のヒズミこそ社会悪といえる。これを積極的な見地から正すことがすなわち健康産業である」と、持ち前の持論をとうとうと述べられた。
 私はこの野口社長の言葉に、さらに”心”をとり入れ、体力づくり、美しい心づくり、根性づくりを目的として、ボディビルにとり組んでいこうと心に誓った。

ボディビル・ジム建設に着手

 クラブの建設もいざとりかかってみるといろいろな問題にぶつかった。一般大衆に公開するボディビル・クラブとするには、いままでのレスリングを主体とした月影道場では設備の面でも大改造が必要だった。

 まず千日前の月影道場をとりこわして、そのあとにトレーニング場、ロッカー、シャワー等の基本設備をつくることにした。器具にしても、一般の健康管理を目的とした人、ビルダーとしてコンテストを目指す選手用のもの、しかも、それらが安全に効果的に練習できる条件も考えねばならない。さらに会員どうしうちとけて会話のできるリラックス・ルーム、あるいは宣伝とか管理について考える場所である事務所と、夢は広がる一方だった。

 クラブが出来あがるまでの半年間は大阪の玉造中本館の映画館の倉庫を借り、さらに布施国際日活の横に仮小屋をつくったりして練習を開始した。この間に、かつての月影道場のレスリング部の主要メンバーはそれぞれ実業界へ転向していった。

 クラブはいよいよ完成した。千日前国際シネマの屋上の4階に当時としては最高のトレーニング場といってもよいジムが出来あがった。12坪とスペースは小さいながらも、事務所、ロッカー、シャワー等も完備し、私の夢にえがいていたクラブがついに現実となったのである。トレーニング器具にもいろいろと工夫をこらした。当時、ベンチ・プレスの台は堅い木の台で、インクライン・ベンチの台も厚い板でほとんど固定式だった。現在のように研究開発されたものはなく、すべて特別誂えでつくらせた。

 ベンチは人の体格を測定し、標準よりやや広い幅の23cmとして安定感を求め、さらに調節が自由にでき、安全に練習できるようなバーベル・ラックもつくった。また、鉄アレーは鋳鉄製のものが多く、当時の技術が悪かったのか脆いものが多かったので、握りの部分の中に鋼鉄の棒を入れて強度の強いものをつくったりした。

 またプレートは市販のものよりやや大きいものをつくらせ、国際のマークを打ち込んだ。もちろん、プレートの検量は厳重で、1つ1つ正確に点検した。とくに、バーベル・シャットとプレートのジョイント部分には振れを防止するために工夫をこらした。

 こうしてバーベル、ダンベル、各種マシーン、ベンチ等を研究改良して、クラブの特徴を出すことに苦心した。これには私のプロ柔道、プロレス、月影道場を通じての長い経験が大いに役に立った。

 クラブ開設には全日本ボディビル協会の中村広三会長を始め、故松山厳理事長、萩原稔副理事長、それに各紙のスポーツ記者も多数出席してくだされ、国際ボディビル・センターの前途を祝っていただいたのがきのうのように思い出される。

 こうして私のボディビル人生が本格的にスタートしたのであるが、月影道場とは違った意味で、すなわち、正しいボディビルの普及発展という面で、大きな責任が私にのしかかってくるような気がした。そして、以前にも増して自分自身が勉強していかなければならないと深く心に刻んだ。

 営業面でのPRも私の写真をポスターにして、大々的に宣伝を開始した。千日前という大阪の中心地にあったこともいろいろな面で有利だった。市内のターミナルというターミナルにはすべて”国際ボディビル・センターへ”という看板を立てた。

 開設間もない頃は物珍しげに見学者が次から次へと押しかけてきた。中にはひやかし半分に、酒の勢いを借りて力だめしに来る人もあった。こうして会員も徐々に増え、2カ月目には約30名、3カ月目には65名と伸びてきた。

 しかし、会員の増加を喜んだのもつかの間、12坪という狭い練習場ではすぐにいっぱいになり、あとから来た人は練習ができないという予期せぬパプニングが起きてしまった。

 当初、私が1人で指導していたのであるが、とてもこれでは充分な指導はできない。このとき私を助けてくれたのが門屋コーチ補佐(当時)だった。私が昼の部、門屋コーチ補佐が夜の部と2部制をしき、この溢れた会員をさばいていった。

 このようなボディビルの爆発的な人気は、私のところだけではなく、他のジムでも同じようだった。その年がちょうど東京オリンピックの年で、国民の間にスポーツ熱が高まったのと、来日した外国選手たちの科学的なウェイト・トレーニングを雑誌やテレビで紹介したという背景もあった。

 ボディビルもようやく一般大衆からも理解され、国民的スポーツとして開花したとわれわれボディビル関係者の間で喜んだものである。

国際BBCの若手三羽烏ーー杉田・重村・上野ーー

 やがて私のクラブからも有望な新人があらわれ出した。草分け時代の三羽烏を辻、滝川、門屋の3君とするならば、本格的なビルダーとして育ってきた三羽烏はすでに読者もよくご存知の杉田茂、重村洵、上野慶三(近大、第3回全日本学生チャンピオン)の3君である。この三羽烏はいずれも当時私のジムで若手No.1を競い合っていたライバルであり、また非常に仲のよい友だちでもあった。
 杉田君はその後、国際ボディビル・センター会長の萩原氏の目にとまり、同センターのコーチとなり、荻原氏のすぐれた指導と充実した設備を駆使して今日の栄光を手にしたのである。杉田君がそのまま国際ボディビル・センターに定着していたとしたら、世界トップ・ビルダーの仲間入りができたかどうかわからない。やはりよい環境とよい指導者、そして本人の強い意志と根性こそが栄光を手中にする条件ではないだろうか。
 もう一人、ぜひここで紹介しておきたい選手がいる。それは熊本県出身の佐伯定男君である。前記三羽烏の親分格でもあり、当時すでに空手道五段という猛者であった。そして、その入門がまた変わっている。つまり、月影道場にいたレスリング部員で福島国治柔道五段と大の仲良しで、お互いに会得したそれぞれの技を教え合い、また研究し合うという間柄だったが、たまたま意見が激突して,その判定を私のところに求めに来たのである。
 ところが、熱心にからだづくりに励むボディビルの練習を見て感激、意見の激突は忘れて直ちに入会を申し出、早速トレーニングを開始した。長年にわたって空手で鍛えたからだは実に逞しく、しかも身長185cmというボディビル界では比較的めぐまれた大型選手で、鍛え方によっては将来日本のトップ・ビルダーも夢ではないと思った。その根性とスタミナはものすごく、1日に2回、それもヘトヘトになるまで練習するという毎日であった。私も今日まで多くの会員を指導してきたが、この佐伯君の右に出る者を知らない。もちろんこの努力は実を結び、間もなく私のクラブで行なっている第3回国際ボディビル・コンテストで優勝するまでになった。現在は建設事業に活躍しているが、夜は東大阪ボディビル・センターのコーチとして、後進の指導に当っている。
(つづく)
〔国際ボディビル・センターの三羽烏。左から杉田選手、重村選手、上野選手〕

〔国際ボディビル・センターの三羽烏。左から杉田選手、重村選手、上野選手〕

〔ジム開設のお祝いにかけつけてくれた外人レスラーたち〕

〔ジム開設のお祝いにかけつけてくれた外人レスラーたち〕

月刊ボディビルディング1974年3月号

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