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『生きている巨人』ビル・パール物語<最終回>

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月刊ボディビルディング1974年3月号
掲載日:2018.07.19
高山 勝一郎
記事画像1

ーージムの二面性ーー

 かくて、1967年のミスター・ユニバース・タイトルは、アマでシュワルツェネガー、プロでビル・パールが、わかち取ることとなった。
 これは、史上最年少と最年長という両極のチャンピオンが誕生したという意味でも、NABBAのいや世界のボディビル界の一つの金字塔だった。
 ビルはこのコンテストのあと、愛妻のジュディをともなって、ロンドン、パリ、ローマなどを見物し、多忙な日常生活の中のわずかな閑日を楽しんだのち、また喧噪のロス・アンジェルスに戻ったのであった。
 どこへ行ってもビル・パールの名は有名だった。ビルは人々の温かい歓迎の中でもみくちゃにされながら、次のジムの経営を考えていた。
 その頃、すでにボディビルは、たんなるビルダー製造の一手段としてよりも、フィジカル・フィットネスとしての一面、すなわち、一般ビジネスマンや経営者たちの健康管理の最も理想的な形として、大衆に受けいれられつつあった。
 ビルは、このライト・トレーニング志向者と、ヘビー・トレーニング希望者を両方とも満足させうる総合ヘルス・ジムを作りたい、と思っていたのだった。
 ヘビー・トレーニング器具を完備したホール、フィジカル・フィットネス専門のホール、各種のサウナとジェット憤流装置付きのバス、映画スターのドレッシング・ルームを思わせる婦人用室、軽飲食がいつでも楽しめるキッチン・ルーム等々、ビルはその持てる一切を注ぎ込んで自分の理想とするジムの実現に腐心した。
 かくして出来上ったのがビル・パール・パサデナ・ヘルス・クラブである。
 このジム拡充には2年有半の時がかけられた。
 この間に、ロンドンの檜舞台では、アーノルド・シュワルツェネガーがミスター・ユニバース2連勝を、そしてさらに3連勝を飾って、ここにようやく世界のボディビル界は新しい「時」をむかえていた。

ーー真の競争とはーー

「前々から気になっていたことなんだが・・・・・・」と、ビル・パールの師でもあり兄でもあるレオ・スターンは、ある日、浮かぬ顔をしてビルのジムをおとずれた。
「意識的にだろうが、どうもいやなうわさが流れすぎる・・・・・・」
「うわさ?」
「ビル・パールは、ミスター・ユニバース・コンテストで、ほかの強豪ビルダーと競うことをいつも避けていた・・・・・・というんだ」
「変なうわさですね。私がほかのビルダーとの競合を避ける意志も必要もいまだかつてなかったことは、一般の人々がよく知っている筈ですが・・・・・・」
「ビル・パールはコンテストにエントリーする時、強豪ビルダーの参加しない時を選んだ・・・・・・ということらしい。事実はむしろ逆なのだが」
 ビルはこのうわさを聞いて、ボディビル界の相もかわらぬいやらしさを悲しく思った。
 たしかに、ビルが参加を表明したコンテストには、故意か偶然か、超一流といわれるビルダーがエントリーせずビル・パールの一人舞台におわった・・・・・・そんなコンテストもあるにはあった。これはレオが云ったように、ビルが強豪ビルダーのいないコンテストを選んだわけではない。逆である。
「レオ、このようなうわさをけしとばすいい方法が一つありますよ」
「どうするんだ?」
「もう一度、ミスター・ユニバースのコンテストに出場するんです。それも世界の最高のビルダーがみんな集まってくる。そんなコンテストを選んで・・・・・・」
「しかし、そういう君はあと3カ月で40才になるんじゃないか。年令的に優勝は先ず無理ではないだろうか」
 レオはあきれながら、この愛弟子を見つめた。
「そこですよ。40才を超えた年代でミスター・ユニバースになった者はまだいません。今度こそ、私の参加不参加など問題にせずに、多くのビルダーのエントリーするコンテストが必ずやってきます。その時、真のビルダーとしての競争が実現できるでしょう」
 ビルは、この無謀とも思える計画をこの時、心にはっきりと決めた。
 自分のビルダーとしての歴史と、人生そのものをそのコンテストに賭けてみるつもりであった。

ーー1971年ーー

 ビルがこの決意にふみ切ったのにはもう一つの大きな原因がある。
 その原因とは、当時この世界で毎日のようにさわがれていた薬、すなわちステロイドやアナボリックといった蛋白同化剤、の存在である。
 世界のビルダーたちは、ほんのわずかな例外を除いて、この薬物の厄介にならないものはいない、とさえいわれていた。筋肉増加の効果を高めるために、この安易な道に飛び込むビルダーが多く、薬の多用で死亡事故まで起こっていたのである。
 ビルは、わずかな例外の一人であった。生まれてからこの種の薬物に一度も手を出していない。
”それでもこれだけの体が作れるのだ”という見本を世界の檜舞台で見せたい、若いビルダーたちの眼をさまさせたい、これがビルの一つの悲願だった。
 レオはこのようなビルの心境を知らなかったが、ビルの決意の堅さを知ると、何とか”40代ビルダーのミスター・ユニバース実現”を成功させたいもの、と願うようになった。
 そして願ってもないチャンスがやってきた。
 1971年5月、ロス・アンジェルスで開かれたAAUミスター・カリフォルニア・コンテストがそれである。
 ビルは云われてこのコンテストでゲスト・ポージングを行なった。
 ジム経営の多忙さからか、はたまた最高の体調をその年の9月にもっていこうとした故か、この時のビルはバルクこそあったが、デフィニションの無い、どちらかというとスムースな体でスゴミは全然なかった。
 この会場には、多くのボディビル団体から”諜者”がはなたれて来ていた。
 もちろん、コンテストを見るためではなく、ビルの体調を見とどけるためにである。
 ”ビル・パール恐れるに足らず”、この噂はアッという間に全米に流れた。
 やがて、1971年NABBAミスター・ユニバース・コンテストに参加すべき選手の名が続々と発表されはじめた。
 プロの部に、いわく、セルジオ・オリバ、いわくアーノルド・シュワルツェネガー、いわくフランク・ゼーン、そして南阿からレジ・パーク。
 この年のコンテストは、空前絶後のスター・ビルダー総参加のもとに華やかな幕を切っておとさんとしていた。

ーープレ・ジャッジングーー

 ビルが6月から突入した”ミスター・ユニバースへの特訓”はまさに目を見はるものがあった。
 週に3回、同筋群を鍛えるスプリット・システムを採用し、週7日レイオフなし、日曜も腹筋と脚部トレーニングを怠らず、デフィニションの形成にはとくに力を傾注した。
 その結果は驚くべき効果をこの41才のビルダーに与えていた。
 ビルがその体をダーク・スーツにかくしてロンドンに乗り込んだのは、9月15日の夕刻である。
 ロイヤル・ホテルにはすでにほとんどのビルダーがチェック・インしていて、この老雄ともいうべきビルを笑顔で迎えた。いうまでもなく、レオ・スターンはビルと共にあった。レオは、まるで自分がステージにあがる者のように興奮し、一心にビルの世話をやいていた。
 翌16日を休養にあて、あけて17日はプレ・ジャッジング(事前審査)の日である。
 会場はホテルのホールがあてられ、煌々たるライトと13人のベテラン・ジャッジの前で、厳しい比較審査を受けるのである。
 シカゴから飛行機でロンドン入りしたセルジオ・オリバも、サンタ・モニカからはるばるやってきたフランク・ゼーンも、ヨハネスブルグ(南阿)からかけつけたレジ・パークも、そこにいた。
 ビルは、ゼーンのおそるべきデフィニションに驚嘆し、”黒い筋肉の化物”と異名をとるオリバに圧倒され、自分より一つ年上のレジ・パークのバルクに魅了されて、ロンドンにやって来た目的も忘れ茫然としていた。
「ビル! この日のために君の永い研鑽の日々があったのじゃないか。しっかりしないか!」
 背中をレオ・スターンにどやされるまでビルはまったく戦意を喪失していた。
 審査委員の命ずるままにリラックス・ポーズで、フロント、サイド、バックと全員が動く。つづいて、規定の5ポーズをとる。
 煌々たるライトのもとでは一部のスキもかくし得ず、他のベテラン・ビルダーとの比較に於ては自分の誇る筋肉部位も欠点をさらけ出すもの・・・・・・と同時に、これほど厳正な審査も世界に類を見ないのである。
 プレ・ジャッジングが済んでホテルの部屋にひきあげたビルは、もう綿のように疲れていた。
 結果はまだ判らない。
 それは、明日のミスター・ユニバース・コンテスト本番で発表されるのだ。

ーー41才の四冠王ーー

 プロ・コンテストの幕が上がると、会場のヴィクトリア・パレスを埋めつくした観衆の興奮は、その極に達した。
 プロ・クラス2のカセム・ヤズベック、トニー・エモット、ルドビック・インゲブレッツェン、そしてフランク・ゼーンと、その華麗なポージング合戦が展開されたあと、いよいよプロ・クラス1グループの登場である。セルジオ・オリバ、レジ・パーク、ビル・パールなど総勢6名が舞台に出てくると、この大きな劇場全体がウォーンとうなり声をあげ、世界中から集った観衆がそのひいきとするビルダーの名を連呼して耳を圧するばかりだ。
 コンテスト直前になって、その出場をとり消してきたシュワルツェネガーこそいないが、世界の超一流ビルダーがガップリと四つに組んだこのコンテストこそまさに世紀のみものなのだ。
 ジョン・バブ、アブデセレム・モカタリー、ロジェ・フランソワに続いていよいよビル・パールがポージング台に登場する。
 観衆がひときわ高い拍手をこの褐色の巨人に投げかけ、ライトが彼を浮かび上がらせる。
 ゆっくり右腕をあげ天を見上げた立像から、左脚を軽く曲げて両手を左の腰へそろえて大胸筋と広背筋をアピール、つづいて左脚を床について大腿筋を強調しつつ体をひねって美しい座位ヘ・・・・・・流れるような華麗なポージングが3分間つづく。
 シーンとしていた観衆は、ビルが一礼して台を降りかけると、われにかえって会場を割らんばかりの拍手と歓声をあげた。
 2歩、3歩ポージング台から歩み去ろうとしたビルは、この拍手にひき戻されたように台へ戻って手を上げる。
 彼の顔には、もう勝敗を度外視して己のベストを尽した満足感があった。
 台をおりようとした時にさらに拍手が高まって、彼は両手をあげて歓声に応えること三度、四度・・・・・・。
 彼につづいて、レジ・パークが、そしてセルジオ・オリバがポージング台に立つ。観衆の声援はビルのそれに劣らず、拍手はとぎれも無く続いて、この両巨頭の熱戦をたたえる。
 さて、ゼーン、オリバ、パーク、ビルの中からいったい誰がプロ・ミスター・ユニバースに選ばれるのか・・・・・・
 観衆の興味はこの一点にしぼられてきた。
 フィナーレの幕が上がる。
 ミス・ビキニたちをはじめコンテスト参加者全員がステージに上ってきた。
 ただ一人、ステージに姿を現わさないのがいる。セルジオ・オリバだ。何か審査結果でもめたのだろうか。何か不満でもあったのだろうか・・・・・・。
 オスカー・ハイデンスタム会長がマイクのもとに歩み寄る。
「コンテストの結果を発表します。アマ・ミスター・ユニバース、ケン・ウォーラー君! プロ・ミスター・ユニバース、ビル・パール君!」
 すさまじい拍手が起こる。
 ビルは遂に41才にしてNABBAミスター・ユニバース四冠王の栄光をつかんだのだ。しかも、2位のオリバ、3位のパーク、4位のゼーンをしのいで、遂にトップ・オブ・ザ・トップスの証明を世に問うたのだ。
 シュワルツェネガーがコンテストを降りたのも賢明だったかも知れない。出場していたら、おそらくオリバと同じ非憤を味わっていたであろうから。
 オリバはその後ついに会場に姿を見せず、その日のうちにアメリカへ去っていった。

ーー生きている巨人ーー

 筆者はオスカー・ハイデンスタム会長の好意で、この日のコンテストに出席し、この激戦を観戦し、そしてビル・パールに会ってその人となりに直接ふれられることが出来た。
 その時、冗談であったろうか、ビル・パールは微笑しながらこう云ったものである。
「私が次のミスター・ユニバース・コンテストに出るとしたら、それは、50才を過ぎてから、50才台代表として出ることになるだろう、と思います。そして万に一つも優勝することが出来たらどんなにうれしいでしょう」と。
 ビル・パール物語はこれで終わる。
 しかし、この巨人はまだボディビル界に生き続けている。
 彼のパサデナ・ヘルス・クラブは盛況の一途をたどっているし、彼の筋肉は43才の今も何の衰ろえもみせていない。彼は毎日トレーニングを続け、ミスター・ユニバース当時のベスト・シェイプを維持している。
 人を愛し、後進の指導に献身して、そしてすべての人々から愛され尊敬されて、有意義な人生を過している。
 彼は死ぬまでボディビルを愛しつづけていくだろう。
 本当の意味の「ビル・パール物語」はこれから始まるのかも知れない。
【完】
〔1971年度NABBAミスター・ユニバース・コンテストで優勝したケン・ウォーラー(アマ)とビル・パール(プロ)。ビルはこのとき41歳。〕

〔1971年度NABBAミスター・ユニバース・コンテストで優勝したケン・ウォーラー(アマ)とビル・パール(プロ)。ビルはこのとき41歳。〕

月刊ボディビルディング1974年3月号

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