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ニュース 1974年5月号

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月刊ボディビルディング1974年5月号
掲載日:2018.08.11

■アメリカ・パワーリフティング公認記録
AAU 1973年10月現在

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(注)記録はポンドをkgに換算したもので、小数点以下は四捨五入(IFBB.JAPAN松山令子会長資料提供)

IFBBアジア・ボディビルディング・チャンピオンシップス 1973
一一クアラルンプール(マレーシア)一一--

 1973アジア・ボディビルディング・チャンビオンシップスは、昨年9月15日、マレーシアの首都クアラルンプールで開催された。

 マレーシア・アマチュア・ボディビルディング連盟のヒュー・ストーレー中佐およびアブ・バカー中佐の昼夜をわかたぬ1日7時間に及ぶ執務によって、コンテストは見事な成功をかち得た。

 参加国は新記録の11カ国、同国の移民局と税関の大いなる協調によって、入国手続は極めて簡単、全員クアラルンプールの最高設備のホテルの1つであるメルリン・ホテルに7日間の宿泊と食事を提供され、滞在は極めて快適であった。また、トレーニング施設はすべて選手にとって満足すべきものであった。

 アジア・アマチュア・ボディビルディング連盟会長バクティアール・ラナ将軍が参加国を歓迎し、参加国の役員及びティーム・マネージャーは、アジア・コンテスト参加記念として美しいメダルを送られた。

 ナガラ国立競技場でのコンテストは6000名以上の熱狂的な観客がつめかけオリンピックさながらの入場式は圧巻であった。ゲストスター・フランク・ゼーンのポージングエキジビジョンは全員を酔わせた。特別来賓として同国の防衛大臣と国会議長が来臨したことは、同国がボディビルをいかに有意義なものとして認めているかを物語るものである。コンテストの結果、1973ミスター・アジアにはシンガポールの口ーマット・ビン・ジュライミが選ばれた。

 ローマット・ビン・ジュライミは、バルク、デフィニションともにすぐれ美しいプロポーションと相まって、まさにアジアのナンバーワンにふさわしい堂々の優勝だった。

 なお、このときのアジア会議で、1974年アジア・コンテストはフィリピンのマニラで開催と決定。日本からは坂口賢三選手と松山令子連盟会長、それに後藤紀久氏が役員としてアジア会議に出席し、後藤紀久氏は審査員として審査にも参加した。

 後藤氏の審査は、1972アジア・コンテスト及びユニバース・コンテストで遠藤光男氏(連盟理事長)がバグダッドで審査をしたのにつづいて、日本での2人目の国際コンテストの審査への参加である。

 (写直提供ならびに文寄稿はⅠFBB・JAPAN=JABBF会長、松山令子氏)
 〔1973ミスター・アジアに選ばれたロ一マット・ビン・ジュライミ 〕

 〔1973ミスター・アジアに選ばれたロ一マット・ビン・ジュライミ 〕

 一一松江でみたもの一一

 この3月、大学の卒業を前にして、私はボディビル・クラブの仲間と2人で山陰を旅行しました。そして、私たちは意外なところで古ぼけた1組のダンベルを見たのです。

 それは、鳥取の大砂丘や萩、秋芳洞、津和野などを見てまわったのち、松江に行ったときのことでした。松江は静かな城下町で、多くの文人が愛した街だと聞いていましたが、文人でなくとも愛したくなるような美しい街でした。

 私たちは松江城を見学してから、のんびりと歩いて濠のすぐ近くにある小泉八雲の旧居を見に行きました。隣には八雲の業績を記念して、八雲の遣品等を集めた八雲記念館があり、入場料30円を払って私たちは館内へ入りました。さして広くない部屋の中には、春休みということもあって、かなりの人がいました。

 私たちはそこで八雲の原稿や衣顛、書物といった陳列品の中に、1組の古ぼけた鉄アレイを見たのです。片方が12ポンドで、現在われわれが使っているものより握りの部分がいくぶん細目のものでした。そして「八雲が最小の時問で最大の効果をあげるために使用した……」というような説明文が書かれてありました。

 また、そのそばには1枚の写真があり、それには八雲がアメリカから日本へ来たときの持ち物が写っていました。小さなトランク1つに、わずかな衣類と身のまわりの品物を持ってきただけという説明文がありました。そして、その写真には、トランクのそばに先ほどのダンベルが写っていたのです。

 小泉八雲、すなわちラフカディオ・バーンは、明治23年、40才のときに日本に来たという。八雲がいつの頃からダンベル運動を始めたのか私は知りませんが、明治23年、1890年といえば、いまとは違ってダンベル運動などは一般の人はほとんど知らなかったと思います。そんな時代に、この運動の有効性を認めて、それを実践した八雲ではあっても、80年後の今日、ボディビルがこれほど普及するとは、おそらく想像もしなかったのではないだろうかと思います。

 私は山陰を旅行して、日本海の美しい風景や、萩や津和野の美しさとともに、松江で見た80数年の年月を感じさせるこの古びた1組のダンベルが強く印象に残っています。(世田谷区下馬2~38 明大OB 熊谷喜生)
月刊ボディビルディング1974年5月号

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