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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
鍛えあげた筋肉と体力こそバイタリティの源だ

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月刊ボディビルディング1978年2月号
掲載日:2018.07.28
1977IFBBオールジャパン・ミディアム・クラス・チャンピオン
高橋 威
~~川股 宏~~

◇創造性を伸ばせ◇

「威坊、お願いだから、その不潔な髪の毛切ってちょうだい。もし切ってくれたら1万円威坊にあげる。そんなきたならしいの大嫌い!」と、肩まで伸ばした髪のことで姉から何回か注意された。
 ちょうどその頃、街を歩いていても長髪が若者たちの間にボチボチ目につくようになってきた。だから、みんなからはビートルズの真似をしたキザなやつだと思われていたらしい。
 しかし、高橋自身は「真似じゃなかと、わしゃビートルズが有名になる前から伸ばしとるけん、ビートルズの方がわしの真似しとるんじゃ。たまたま相手があまりにも有名になりすぎたからいかんのじゃ。その証拠に、ビートルズはかぶと虫の名のとおり、内巻に髪が伸びとろうが、わしのよ〜く見てみい。ストレートに伸びとろうが・・・・・」とリキんでみたものの、ほかならぬ姉さんの忠告に心は動いた。
「そいじゃ姉さんのたのみでもあるけん、どうじゃろうか、1万2千円で手打ちというところで・・・・・」と、今のお金にしたら10万円くらいになるだろうか、断髪のはこびとなった。
 高橋の兄弟は、この姉をかしらに、下に男の子が5人の6人兄弟である。一番の年上だからというのではなく,この姉のいうことに対して、高橋ばかりでなく、家族全員が一目も二目も置いていた。それについてはあとで触れるが、さすがの高橋も、この姉の言葉にはしぶしぶしたがわねばならなかったのである。
「きっと姉は、1日も早く会計士になることを期待していたのでしょう。そして、品位や清潔感の習慣を身につけさせようと思ったんですねェー、ハイ。それに、姉の信条からいって、髪の毛なら誰でも伸ばそうと思えば自然に伸びる。そこには何の創造性もないということをいいたかったんだと思いますよ、ハイ。男なら汗と努力で人に認められるようにならにゃあいかん。なにも、ほっとけば自然に伸びる髪の毛なんぞで人に勝とうとするな、といわれているみたいでした、ハイ」という高橋にとって、この姉は、大きな努力目標でもあったのである。
 だから、自分の汗と努力で1人前になろう。そして、天才ではない自分に出来るのは地道な努力しかない。人生だって、ボディビルだって同じだ、と心にいいきかせた。
[1973年度ミスター長崎コンテスト優勝]

[1973年度ミスター長崎コンテスト優勝]

◇こわ〜い存在◇

 自慢していると思わないでくださいといいながら、高橋はこの姉さんのことを話してくれた。
「いま、姉が経営しているのは東京新宿の木村病院、それに人間ドック。この人間ドックは多少有名らしいですよ、ハイ。それから赤坂のスナック、新宿歌舞伎町のパブ・レストラン"ぴいどろ亭"、家が2つと、マンション2つですか、ハイ」と指を折りながら高橋が数えあげたその内容は、とても女手1つで築きあげたとは信じられないすごいものである。
 被爆手帳を手にした一少女が「死んだつもりで頑張る!」と決意した結果が今の成功につながったのであろう。
「病院を経営しているといっても、姉は医者ではありません、ハイ。学校を出てすぐ勤めたのは銀行です。それがどこでどう脱線したのか、実業家になってしまいました。生まれつき負けず嫌いで、ふつうの女の子のように恋愛をしてお嫁に行って、楽しい家庭をつくろうなんてことは考えなかったんでしようね。だから、いまもって独身です、ハイ」
 いろんな面で優れている人、あるいは成功した人をみる態度には2とおりある。「俺はあの人にはぜったいかなわない。真似すら無理だ」と完全にギブアップするのと、「なに、俺だっていつかは必ずやってみせる。今にみていろ」という発奮型である。
 もちろん高橋は、姉さんべったりの美空ひばりの弟になるには自尊心が許さなかった。「姉さん、いまにみとれよ。俺は俺なりに、自分のやっていることをコツコツと1つずつ完成させていくから・・・・・。だけど、金の勝負じゃなかよ。それは後まわしじゃ。まず、始めは体で日本一、つぎに会計士の資格をとること、そして何か少しでも人のためになることをしよう・・・・・」と心に言い聞かせた。
[1977年度IFBBオールジャパン・コンテストでミディアム・クラス優勝]

[1977年度IFBBオールジャパン・コンテストでミディアム・クラス優勝]

◇よき師、よき友◇

 いろんなことに関心がある高橋は、なんにでも手を出すクセがある。
「欲が深いというのか、いろんなものに手を出し、しかもそれを成功させなければ気がすまないんです。それには何事も広く浅くじゃだめだし、広く深くやるには時間がかかる。そんな無理を無理でなくするには集中力しかありません。その時、その時に全力をつくす。その集中的エネルギーの出し方を養なわなけりゃいかんと思います」という高橋は、たとえばボディビルのトレーニングにしても、毎日、約2時間、夢中でトレーニングする。それがすんだら、ボディビルのことはすっかり忘れて、ほかのことに没頭する。
 次に高橋が大事にし、時間を割いたのは、よき友人をつくることである。生涯のうちに、できるだけ多くの、よき師、よき友をつくることが、人生の最高の幸せだと日頃から考えていたからである。
 エレキの友、ボディビルの友、酒の友、恩師、学友、いろんな人間的出会いが自分を大きくし、視野の広い人間へ導いてくれる。
「1人、新しい友人ができると、1つの新しい世界が目の前に開けたような気がします、ハイ」だから高橋は青春を友人でうずめつくしたかったのである。そして、それが人生において最も有意義だと信じていた。
 大学院時代の恩師、吉武先生は"酒を肴に友情を飲む"という句を高橋に贈っている。が、この句は、いま高橋の良き伴侶である奥さんの安子さんからみれば、世の中で一番きらいな句かも知れない。なぜなら、この句のおかげで、いつも酒を飲むための名文句、名口実になっているからである。
 こんな高橋だから、学生時代から現在まで、友の数もずいぶん増えたが、アルコールの量も充分パワーアップしていったようだ。なにしろ、気が向けばボトル3本は軽く空けるというのだからすごい。
 こうして大学時代を、アルバイトにボディビルに、音楽にと、学業のほかに手を染めながら青春を謳歌し、いよいよ卒業も間近となった。
「先生から、就職する希望があるなら紹介してやろうと言われました。しかし私は将来は高橋会計事務所をつぐつもりでいましたから、そのための勉強をもう少し続けることにしました。そして、福岡大学の大学院に行くことにしたんですよ、ハイ。父親もよろこんでくれました」
 こうして大学院に進んでからは、会計学を専攻するかたわら、税理士試験の準備も着々と進めていった。
もちろん、この間も、ボディビルを忘れたわけではない。ほとんど毎日、ジムに行ってトレーニングを続けていた。全体的にバルクもつき、ようやくコンテスト・ビルダーとしての片りんをみせはじめた。こうなると、トレーニングにもますます熱が入る。「九州に将来よくなりそうな選手がいる」とボチボチ高橋の名前が出はじめたのもその頃である。
[婚約時代の高橋さんと奥さんの安子さん]

[婚約時代の高橋さんと奥さんの安子さん]

◇税理士合格、そして結婚◇

 大学院に進んで間もなく、高橋に遅ればせの春が来た。つまり安子さんとのなれそめである。大学時代の4年間は、忙しすぎたのと、どちらかといえば硬派に属していたから、恋愛らしい恋愛などしたことはなかった。
 いまでこそ亭主関白の高橋も、当時は「僕は将来、税理士の資格をとって高橋会計事務所をつぐつもりです。ですから資格をとるまでは結婚はしないつもりです、ハイ。でも僕はあなたのために頑張ります、ハイ」と実に頼もしい殊勝なことをいったらしい。「オーイ、ウイスキーを持ってこい。飲むのは男の甲斐性だ。“酒を肴に友情を飲む"か、ウィ」なんてことは、決して当時はいわなかった。
 安子さんと結婚するためにも、1年でも早く税理士試験に合格しなければならない。それからの高橋の勉強ぶりはいちだんと熱が入った。そして大学院を卒業して1年後には、念願の税理士試験に合格してしまったのである。昭和49年のことである。
 これで結婚のパスポートは手に入れた。両親に安子さんとの結婚の意志を打ちあけるのにも大いばりだ。
「なあ安子さん、俺は大学時代から親の仕送りなしでやってきた。結婚式も、わしゃ親の力や金は借りとうないんだ。これが俺の主義だから、ささやかでもいいから、2人の力だけで式をあげよう」と、昭和50年5月2人の協力で立派に結婚式をあげたのである。
 こうして、高橋の第二の人生は、高橋会計事務所の新しい主として動き出した。もちろん、毎日2時間のトレーニングは欠かさない。高校時代、はじめてみたスティーブ・リーブスの勇姿は10年たったいまも脳裡に焼きついていて離れたことがない。そして、今では、もうちよっと手を伸ばせば、日本のトップ・ビルダーになれるところまで来ていることもわかった。
 「今だ。今をはずして日本一になるチャンスはない」とトレーニングに精を出す一方、会計事務所の経営者として、事務員の指導、顧問会社へのアドベイスや会計監査、とにかく目のまわるほどの忙しい毎日だった。そして、世間の人の信頼もいちだんと高まってきた。
 そこまでなら、なにも並の人とそれほど変わりない。高橋にはまだ何か物足りないものがあった。それは、尊敬する姉のように、自分でも何か1つ事業をやってみたいという欲望である。エネルギーを思いっきり燃焼させるのは若いうちに限る。
「姉さんがレストランをやっているので、アドバイスを受けながら、まず長崎にスナックを開店しました。"ポパイ”という店です、ハイ。実際の経営は弟に任せています、ハイ」と、実業家としての第一歩を踏み出した。
 一方、人間、かっこばかりじゃダメだ。頭ばかり使っていても、実際に体を動かし、汗を流し、自分を磨くことができる方法はないものだろうかと高橋は考えた。「そうだ、新聞配達がいい。ボディビルのトレーニングにもなるし、朝早いから健康にもいい。なあ安子」と意を決すると、即実行に移すのがいかにも高橋らしい。
 それからは、朝、4時30分に起床して新聞配達。朝食をして8時には事務所に出勤。それから夕方までみっちり仕事をして、夜は約2時間のトレーニングというハード・スケジュールの連続である。
「人間。前向きに忙がしくしていると、毎日、毎日が充実していて、疲れなんて感じません。それに、自分の肌で感じる“これだ!”というものがつかめるものです。
 体だって、仕事だって、すぐにはわからなくても、いつか必ずやっただけの効果は出てくるものです。目先の結果にとらわれず、前向きに頑張れば、なんかの形で、いつかはきっと報われますよ、ハイ」
[仕事の鬼の高橋も家にかえればよきパパである]

[仕事の鬼の高橋も家にかえればよきパパである]

◇ユニバース日本代表に◇

 彼のいうとおり、忙しい合間のひたむきなトレーニングの結果として、昭和52年8月21日、下関で行われたIFBBオールジャパン・コンテストにおいて、ミディアム・クラス優勝、そしてミスター・ユニバース日本代表選手に選ばれたのだった。
「ミスター・ユニバースまでの2カ月間、わしゃ酒を断つ。そして、あとで決して後悔しない勝負をしてくる」彼のこの言葉を耳にして、家族やトレーニング仲間はみんなびっくりした。そして「今年の夏の長雨はこのせいじゃ、たたりじゃ!」とひやかすのだった。
 ところが、断言したその日から、あれほど好きだった酒をピタリとやめてしまった。トレーニングは日を追うにしたがってハードになる。体がピシッとしまり、迫力も増してきた。これほど短期間に、見ちがえるばかりに変身した高橋をみて、周囲の者はア然としてしまった。
 しかし世界の壁は厚かった。無惨な結果に終ったことは前号の最初に書いた。そのことを、いま高橋は悔んではいない。「俺は俺なりにベストを尽した。結果はともかく、これは俺の1つの証明にすぎない。わしゃこの大会のあと、もっと大きな可能性にチャレンジしたい。わしのエネルギーの可能性は、誰よりもこの自分自身が知りたいのだ!」
 この可能性とは、もっと大きなチャレンジとは、この時点まで、高橋自身もまだ具対的には気がついていなかった。(つづく)
月刊ボディビルディング1978年2月号

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