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'75'76'77 IFBB全日本チャンピオン 磯村俊夫
努力で切り開いた人生

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月刊ボディビルディング1978年11月号
掲載日:2018.07.02
★ビルダー・ドキュメントシリーズ★

<川股 宏>

◇明と暗は紙一重◇

 「私が後楽園ジムで本格的にトレーニングを始めた昭和40年ごろは、ちょうど高度経済成長の初期で、兄と一緒にやっていた鉄工所もその恩恵を受けて今から思うとジャンジャンとまではいかないが、順調に商売も伸びていきました。
 そんなわけで、毎日充実した気持で後楽園ジムに通いました。ただ、仕事が忙しかったので、夜8時頃から1時間~1時間半くらいトレーニングしました。もっとやりたかったんですが、当時のジムは9時キッカリになると電気を消しちゃうんです。ですからこれから調子を上げようと思っていると、“パチン”でまっ暗。私のように遅く来る連中は不満が積って、『俺の大きくならないのはジムが悪いんだ』と、抗議したものです。それはともあれ、充実しきった楽しい時代でしたネ。
 それから3~4年、練習だけはやっていたんですが、私の体はほとんど変化がないんです。それに商売の方は相変わらず忙しかったものですから、兄貴が『お前、一文にもならないボディビルなんか止めちまったらどうだ。それに、ちっとも効果ないじゃないか』と文句をいうんです。それも、そのはず、私のところに遊びに来る連中は、見るたびに大きく変身しているのだから、兄貴の方が私より先にイライラしちゃったのでしょう。
 私がはじめてコンテストに出たのは確か1969年のミスター東京コンテストです。上位入賞は無理としても、うまくしたら決勝に進出できるんじゃないかと、はりきって出場したものの、みごと落ちちゃったんです。
 ところが、この予選失格がキッカケとなって、その後、私の体は急速に発達してきたんです。
 というのは、私は前々から考えていたんです。他の人のように発達しないのは、自分に素質がないんじゃなくて、練習方法や食事法が間違ってんじゃないかとネ。そして冷静に考えてみて気がついたんです。
 それは、まず第一に、練習方法が先輩の人のやることをなんとなくマネして“我流”でやっていたということです。この頃のジムは、みんながみんな思い思いに我流でやっていましたから自分というものを客観的に計る正しい尺度というものがなかったんですネ。
 具体的にいうと、当時、私は170㎏でスクワットをやっていましたから、かなり強い方でした。だから、脚の形や太さはかなりイイ線いってました。問題は上半身、とくに胸が全然ダメもいいとこだったですネ。
 先輩のやっているベンチ・プレスの使用重量だけを目標にして、少しでも重いバーベルを挙げれば、それで胸が発達すると思っていたんです。だからひどいブリッジをして、しかも反動をつけて挙げていました。これを反省して、それ以後は、適切なウェイトをキチンと正確に、大胸に意識を集中しながら挙げるようにしました。つまり、チーティング・スタイルからストリクト・スタイルに変えたわけです。
 そしたら、間もなく少しずつですが効果があらわれはじめたんです。今まで何年もかかって大きくならなかった胸に筋肉がついてきたんです。これまでの習慣を破っただけで、これほど大きな変化をもたらしてくれるとは、実は私自身も驚いたんです。
 そして1970年のミスター東京コンテストでは5位入賞。ついに念願の入賞を果すことができました。仕事の都合でジムも後楽園から小岩ボディビル・センターに移り、心身ともに出直しのいた気持でしたから、この5位入賞は本当にうれしかったですネ。
 私が、この頃つくづく思ったのは、コロンブスの卵じゃないけれど、自分の欠点をちょっと直しただけで、効果が全然違ってくるという、この現実を体験して、コーチの大切さ、知識の大切さということです。
 ほんのちょっとしたことを知らないばかりに、根性だ素質だと、手探りで4年もかかっちゃうんですから……。この時、もっと勉強して、将来、多くの人に適切な指導をしてやれば、きっと喜ばれるに違いないと、チラッと頭をかすめたものです。それから7年、ようやくそれが現実となったというわけです。

◇優勝を逸したのが幸い◇

 そして、1971年のミスター東京コンテスト。優勝の水上選手につづいて私は2位。始めて表彰台にのぼることができました。この頃から私は『将来は必ずチャンピオンになれる』という自信をもつようになりました。
 もちろん、自信ばかりでなく、トレーニング法や食事法についても、これまで以上に研究しました。当時の使用ウェイトは、確かベンチ・プレス140kg、スクワット200kg、カール45kg前後と、かなり重いものでやっていました。食事法も、ずいぶん無理をしてタンパク質やビタミン類を摂ったものです。
 『ことしこそミスター東京を!』と決めてかかった1972年。しかし、またしても坪井選手に優勝をさらわれ、2年連続の2位でした。
 いくら私が辛棒強い性格でも、あの時のくやしさは忘れません。自分にこんな一面があったのかと思うほど、感情を表に出しました。審査員の判定では負けたが、私自身の目には、欲目かも知れませんが、総合的に見て、決して劣っていないと思えたからです。
 でも、いま想うと、カッコいい言い方かも知れませんが、もしあの時チャンピオンになっていたら、あるいは現在の私はまったく別の道を歩いていたかも知れません。
 というのは、当時、私の年令は29才で、そんなに若くもなく、商売の方もうまくいっていましたから、ミスター東京のタイトルに満足してしまって、あとはせいぜい現状維持か健康管理程度にぼつぼつトレーニングをするという状態になったと思います。
 坪井選手に負けたことが刺激となって、よーし、それならもっと大きなタイトルを獲得してやるぞ、という気持になったんです。その結果が、1975年から1977年まで3年連続IFBB全日本チャンピオンにつながったと思います。
 事実、地方大会のチャンピオンになり、大きな素質を秘めていながら、優勝したことに満足して、全国大会の栄光を知らずに去って行った選手が意外に多いのを見てもそう思います。だから、あの時、2位になってかえって良かったと思っています。
 私に限らず、どちらかといえば大器晩成型の人は、きっと途中で道草をくい、そして失敗し、それを刺激としてあきらめずにコツコツと努力を積み重ねて、結局は最後の栄冠を獲得するということになるのだと思います。
 ボディビルを途中でやめずにやりとおしたことを誇りに思い、ここまでこれたことに感謝しています。これも、すべて自分自身を信じてきたからです。
 自分の好きなボディビルを楽しみ、それを指導することを職業として生活出来ることは、ほんとうにすばらしいことです。これは、好きなボディビルを大切にいたわってきた私の所産だと思います。若い人たちに言いたいことは、好きなものは、どんどん好きとして意志を通しなさい。ボディビルであろうとなんであろうと。

◇自分に適した練習法を探せ◇

 私は自分のトレーニング法を変えて成功したことを前述した。私のやったことなど、ある程度の知識と経験があれば誰でも思いつくことです。しかし知識やコーチの助言だけでは解決出来ないことがあります。
 あるセールスマンの話であるが、ボディビルのトレーニングとも共通する点があるのでしてみよう。
 物を沢山売るのがセールスマンの仕事である。だから、より多く歩くことが好成績につながるわけです。
 あるセールスマンは、1日500軒訪問するという計画を立て、これを実行しました。当然、成績もつねに上位を占めていた。計画とそれを実行する熱意をもちつづけていたからです。
 ところが、ある日、このセールスマンは上司からこんな話を聞かされたんです。
 『君はなかなか優秀なセールスマンだが、まだまだ研究する余地があるようだ。私の知っているV氏は、1週間に4日しか仕事をしないんだ。しかもその1日に8軒しか歩かないんだ。1週間で4日×8軒=32軒、君は6日×500軒=3000軒だから、約100の1というわけだ。ところが、このV氏とは、実は、保険セールスで世界No.1といわれるフランク・ベドガーなんだよ』
 これを聞いてそのセールスマンが驚いたのはいうまでもありません。自分は毎日、朝早くから夜遅くまで、クタクタになるまで歩いているのに、ベドガーは1日たった8人のお客をそれも1週間に4日訪問するだけで世界No.1といわれるんですから無理もありません。
 しかし、よく聞いてみると、ベドガーのやり方は、普通のセールスマンとはずいぶん違っていたんです。ベドガーは1日8人と面会の約束をして、4人と実際に商談をしたというんです。さらに、彼は同じ顧客を2度訪問することはあっても、3度訪問することはなかったのです。つまり、保険契約をしてくれる可能性があるかどうか、的確に見抜く力を持っていたんです。そして、その可能性があれば、持ち前のねばりと才能で、確実に契約をとったというわけです。
 ボディビルのトレーニングにもこれと共通している点がたくさんあると思いませんか。
①セット数やレップス数にこだわってがむしゃらに時間をかけていないだろうか。

②好きな運動にはたくさん時間をかけて、苦しい運動をおろそかにしていないだろうか。

③自分の欠点をよくつかみ、それを矯正する適切な方法をとっているだろうか。

④各種の運動が、身体各部に与える効果、あるいは栄養等に関する正しい知識を持っているかどうか。

⑤最後までやり抜く熱意と計画性をもっているかどうか。

 このように、ボディビルに限らずすべての分野において成功するための条件はよく似ていると思います。だから一流の人や、経験者の意見をよく聞いて、自分に最も適したトレーニング法を開発すべきだと思います。目標を大きくもって、苦しくとも逃げたり、止めたりしないでやり抜くことです。
 目標にしても、私がボディビルを始めた頃は、日本のチャンピオンになるのが最高の夢でしたが、いまはもう、世界に照準を合わせなくてはいけません。事実、何人かの日本選手がユニバースで優勝しているんですから。
 私は、そういう世界を狙う人でも、健康管理でトレーニングする人でも、ボディビルを実践しようとする人のために一生を捧げたいと思っています。私にとってはそれが決して苦労することではなくて、楽しい生涯の仕事だか
らなんです」

―終―
月刊ボディビルディング1978年11月号

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