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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
JBBA常任理事・東京ボディビル協会理事長
0からの出発・栗山昌三

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月刊ボディビルディング1978年12月号
掲載日:2018.06.19
川股 宏

◇雪国で培かわれた頑張り屋◇

 出身地や幼年時代を過ごした土地柄や風土が、生涯その人の性格や職業に影響を与えるとよくいわれる。商売がうまく、実業界に人材の多い山梨、大阪、気性が激しく働き者が多いところから“かかあ天下に空っ風”などといわれる群馬県の女性。
 そんな意味では「私は新潟県の出身です」というと、「それじゃあ頑張り屋ですね」という言葉がすぐ返ってくる。なるほど、昔から「新潟県人の通った跡にはペンペン草も生えない」といわれるくらい、頑張り屋で努力家の人が多い。
 たとえば、田中角栄元総理、立正校正会の庭野日敬会長、プロレスのジャイアント馬場、歌手の三波春夫など、ハンデを克服し、努力で頂点に立った人たちである。いわば0から出発して成功した人たちである。暗く寒い雪国の風土が、知らず知らずのうちに困難に立ち向う性格とねばり強さを与えてくれるからであろう。
 ここに紹介する栗山昌三氏も、一見ハデでちょっとキザッぽく見られることもあるが、それは職業上の必要悪、話し合った印象は、まさに“新潟の苦労人”であった。
 昭和10年4月25日、長岡市で生まれた彼は、国鉄職員だった父親の転勤で間もなく村上市に転居する。
 日本海にほど近いこの村上市は、鮎や鮭で有名な三面川や、その昔、内藤藩の城があった桜の名所、臥牛山など自然に恵まれた美しい城下町である。この街の特徴は、そんな古い城下町のせいもあってか、教育に熱心なところでもあった。
 ちなみに、その影響かどうか、栗山の兄弟妹は8人のうち6人までが教育者で、残る長兄も新潟県警の要職にある。
 しかし、1人だけ「俺は大学へ行かず、商売人になって成功してみせる」と云った昌三少年を父は不思議がったものである。彼にしてみれば、成績も良く、スポーツも万能な兄たちに「いまにみておれ俺だって」という競争心から出た結果であった。しかし、商売で身を立てるといっても、何の商売をするかという具体的な計画など、もちろんあろうはずはない。
 こうして、商売で身をたてようと決心した彼は、将来にそなえて新発田商業高校へと進む。しかし、卒業はしたものの、不景気のド真中、働かせてくれるところがない。ましてや、田舎のことである。野望は早くも打ちのめされそうになった。
 いずれにしろ、商売で成功するには東京に出なくてはだめだと考えた彼は知人の紹介でコックの仕事をみつけて上京したのである。昭和29年、19才のときである。
 しかし、コックとは名ばかりで、始めは明けても暮れても皿洗い専門であった。1日も早く1人前のコックになることを夢見ていた彼にとっては、これはたいへんなショックだった。
 「俺もみんなみたいに大学へ行った方がよかったのか」と最初の決心がぐらつきかけたとき、生まれてはじめて月給というものをもらった。金額はいまでもはっきり覚えている。手取2000円であった。1ヵ月、汗水流して働いて得たお金である。いままで親からもらっていたお小使いとは、同じ金でもこんなに価値が違うものかと、彼はしみじみとお金のありがたさを知ると同時に、ぐらつきかけた決心も、どこかえふっとんでしまった。

◇バーベルとの出合い◇

 コック見習いの仕事はつらかったが新潟県人特有のねばりで頑張った。夢我夢中で働いているうちにあっという間に5年が過ぎた。しかし、ついに無理がたたって体をこわしてしまった。
 “戦士の休養”としゃれてはみたものの、やせた体で新潟に戻るのは、いかにもつらい。全く“負け犬”の姿であった。「商売人になって成功してみせる」といって家を飛び出したものの成功するどころか、体をこわして帰るなんて、男としてこれほどみじめなことはない。
 すでに兄弟たちは警察官として、あるいは教育者として立派に活躍しており、いままた、健康面でも差をつけられてしまった。長兄は柔道六段、次兄は全日本体操選手権の吊り輪で優勝という具合で、とにかく雲泥の差とはこのことである。
 肩身のせまい思いをしながら、気晴らしに散歩していたとき、偶然、出合ったのが重量挙げであった。
 「バーベルとの出合は、まったくの偶然でしたね。散歩していて、何をやっているんだろうと、ふと見ると、道端で重量挙げをやっているんです。確か阿部商店とかいう店の前で、2~3人でやっていたんです。
 当時、新潟県はレスリングや重量挙げがとても盛んだったんです。重量挙げなど練習場がない時代だから、たいてい路上でやっていたもんです。
 しばらく立ちどまって見ていると、選手兼コーチ格の阿部さんから『どうだ、君もひとつやってみんか』と声をかけられたのがキッカケで、路上トレーニング同好会員になったんです」
 これが栗山とバーベルとの出合いであるが、どういうわけか、最初から彼はこの運動に魅せられてしまった。それからは毎日、つかれたように練習したものである。
 6ヵ月くらいして、病気のほうもほとんどよくなり、しかも、体のあちこちに筋肉がついてきたのを見て、「健康に優る資本はない。商売人として成功するためにも、まず、体を鍛えることだ!」と直感したという。
 やがて体も完全によくなり、あれほど打ちひしがれていた心にも、ファイトがみなぎってきた。そして、今度は名古屋にコックの仕事を見つけて新潟をあとにした。
 この時、変ったことといえば、バーベルを同伴したことである。このバーベルこそ、彼にとって名医であり、お守りであったといっても決して過言ではない。「ボディビルは私にとって、体を治してくれた病院ですよ」とはっきり彼はいっていた。
病気をして新潟に帰ったとき近くの海岸で

病気をして新潟に帰ったとき近くの海岸で

◇飲食業をライフワークに◇

 名古屋でのコックの仕事も楽ではなかったが、努力家で頑張り屋の新潟県人、栗山は決して弱音などはきはしなかった。健康をとり戻し、体が改造されると同時に、体中にエネルギーが充満してくる。こうなると、他人の見る目も当然違ってくる。
 そんな彼を見て、名古屋でキャバレーやパチンコ店を手広くやっている実業家から「ぜひ、俺んとこの養子になってくれ」と熱心にクドかれたこともあるという。
 名古屋で2年ほど修業した栗山は、「商売人として成功してみせる」という漠然とした夢を“飲食業”にはっきりと的をしぼった。飲食業という水商売で一本立ちの意志を固めた彼は、名古屋をあとに再び東京に帰って来た。バーベル同伴はもちろんである。
 とはいっても、彼が東京ですぐ飲食店をもつというのではない。あくまでも将来の夢である。店をもつほどの大金があろうはずがない。あるのは、ボディビルで鍛えた体力とバイタリティだけである。
 ここで理解していただきたいことがある。田中角栄氏のことを“わかったの角さん”と云う。これは外見的だが一方“コンピューター付きブルトーザー”とも云う。これは内面だ。田中氏と比喩される栗山氏も喜んでいいのか悪いのか、むづかしい時節柄ではあるが、これが新潟県人の特徴と云える。
 というのは、彼は、外見はハデ好きで豪快にみせる。ところが、彼の足跡は努力で培った“ペンペン草の新潟県人”で、実に商売にはきびしいお金の尊さも知っている。
 昭和38年、小さいながらも遂に念願の食堂を荻窪に開いた。夕方までここで働き、夕方からは奥さんに店をまかせて、自分自身はレストランのマネージャーとして勤めに出ていた。
 しかし、いかにタフな彼とて、こんな二足のワラジが長くつづくわけがない。それに水商売には酒がつきものである。彼はすっかり胃腸をこわしてしまった。
 それはちょうど昭和39年の秋、東京オリンピックが始まろうとしているときであった。用事があって、代々木のオリンピック村をとおりかかったときそこでトレーニングしていた黒人選手を見た彼は、そのあまりにも逞しく躍動的な体に驚き、しばらくの間、そこを動くことができなかった。
 そういえば、食堂を開店してからは忙しさのあまり、トレーニングがおろそかになっていたことに気付いた。そこで、前から一度訪ねてみようと思っていた渋谷の日本ボディビル・センターに行き平松コーチからいろいろ話を聞いた。やはり、自分一人でやるよりも、設備のととのった練習場で、基本からみっちりやる方が良いことを悟りさっそく入会することにした。
 練習生には、元ミスター日本の多和昭之進氏や、重量挙のチャンピオン村川選手などがここで練習していた。当時を想い出して彼は「あの頃の練習生はチーム・ワークがよく、とにかく真剣に練習していましたよ。とくにパワーに力を入れていたせいか、スポーツマン精神にあふれていました」となつかしそうに語る。
 昭和40年、三軒茶屋に適当な店が見つかったので、荻窪の店をたたんでこちらに引越した。しかし、依然として夕方から店は奥さんにまかせ、彼は中野のキャバレーの支配人として勤めていた。
 それから1年ほどして、勤めていたキャバレーの近くに中野ボディビル・センターが開設された。なにせ、昼夜忙しく働く彼にとって目と鼻の先にジムができるとは、願ってもない幸運だった。さっそく入会したのはいうまでもない。当時のコーチは遠藤光男氏、つぎが曾根将博氏だったが、遠藤氏が錦糸町ボディビル・センター、曾根氏が小金井ボディビル・センターのオーナーとしてそれぞれ独立されたので、第三代目のコーチとして彼が就任することになった。こうして、ボディビル指導者としての第一歩をふみ出したのである。
(つづく)
昭和45年、ベンチ・プレス157.5kgを挙げて全日本パワー重量級で優勝

昭和45年、ベンチ・プレス157.5kgを挙げて全日本パワー重量級で優勝

月刊ボディビルディング1978年12月号

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