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世界トップ・ビルダー語録
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月刊ボディビルディング1979年6月号
掲載日:2018.12.01
吉見正美
 日本のボディビルダーの皆さんに、何か面白い話とか、変わったトレーニング法などがあったらご紹介したいと思っていましたが、なかなか思うようにいきません。
 昨年、ジュニア・カレッジを終えてカイロプラクティックの大学に入って以来、とても忙しくなり、四苦八苦しています。
 日本では今年は暖冬異変だったそうですが、ここアイオワ州では、この冬はとくに厳しいとかで、なんと34度という寒さ。
一晩のうちに町の機能をすべてマヒさせてしまうスノーストーム(雪あらし)を経験しました。
 その中を、朝7時45分からミッチリ6時限の授業を毎日。語学のハンディキャップをひしひしと感じながら、夢中でついていこうと努力しています。
 いま、最初の学期を終え、短い休みです。やっと原稿を書こうという気持の余裕が出来ました。これから、毎月連続は無理かも知れませんが、ボチボチと送るつもりです。
 今月は“パンピング・アイアン”の中から、世界トップ・ビルダーたちのボディビル観、人生観といったものをひろってみました。
 
『チャック・サイプスは力の強い男だ。しかし、私のほうが彼よりももっと強い。すべてにおいてもっともっと強い。
なぜなら、彼はベンチ・プレスでは強いが、私はすべての種目に強いのだ。
ジムにあるすべての器具を使って、どんな種目をやっても私は彼に勝つことができる。
―フランコ・コロンブ―
記事画像1
『10歳のとき、私は何かで一番になってやろうと考えた。手はじめに私は水泳をやってみた。そして何度か優勝した。
しかし、内心これが自分の最善だとは思わなかった。
 次に私はスキーを手がけてみたが、このスポーツには自分が可能性を秘めているとは思われなかった。サッカーもやってみたが、どうも好きになれなかった。
なぜなら、特別なことでもしなければ、私が1人で得点することは出来なかったからだ。それ以来、団体スポーツは避けることにした。
 私はその後もいろいろのスポーツをやってみたが、その中で、ウェイトリフティングが私にとって一番面白かった。そして私は1964年のオーストリアの選手権に優勝した。
だが、私は自分がウェイトリフティングをするには余りに背が高すぎることに気がついたので、見切りをつけ、ボディビルの世界に入った。
 そして2年後、私は“これだ!”と確信した。これこそ私が最善を尽すことができるものだと確信した』
―シュワルツェネガ―
記事画像2
『私はコンテストの1年前から、だいたい1日に1時間はポージングのために時間を費やす。
 私は終始音楽に合わせてダンスのステップのような感じでポージングを練習したものだ。音楽は決められたポージングの一部であり、ライティングもまたその一部だ。
 ポージングは、あたかもエド・サリバン・ショーに私が出演しているようなものだ。つまり、それは1つの演技なのだ。その演技力を養なって、プロの芸術家のようにそいつをコンテストの舞台で忠実に表現するのだ。
私はそのために、どこへいくにも自分のためのライティング、ステージ、ポージング台、その他あらゆる用意をしたものだ』
―ビル・パール―


『私は、ほかの誰よりも大きくなりたい。しかし、他の人々が、その大きさを受け容れることが出来なくなってしまうほどには大きくなりたくない。
 たとえば、君の腕が30インチになったとしよう。でもそんなものは君の仲間でさえ受け容れることは出来ないだろう。
私はそんなにはなりたくない。私は、際限のない、非現実的なものにはなりたくない』
―マイク・キャッツ―


『ボディビルというのは、ある意味でとても面白いものに違いない。というのは、非常に説明しがたいのだが、ある種の充実感が得られるからだ。
 ボディビルダーは、自分の筋肉がパンプ・アップしたとき、それが筋肉の成長を意味することを知っている。筋肉がよくパンプ・アップしたとき、それは進歩なのだ。
 パンプ・アップはビルダーを満足させる。ビルダーは、自分のからだに進歩を実感する。だから、パンプ・アップは快いものだ。
 それは、実際ボディビルダーが持ち得る最も素晴らしい感覚だ。しかし、説明するのは甚だ難しい。それを説明するのにボディビルダーはこんなジョークを飛ばすかもしれない。
 “我々はパンプ・アップというものを経験するが、それは言ってみれば、君たちがセックスで経験する絶頂感よりもよいものだと認めざるを得ないほどのものだ”と。
 門外漢には理解できないことだろうが、ともかくパンプ・アップはビルダーが持ち得る最高のフィーリングなのだ』
―シュワルツェネガ―


 『ミスター・アメリカのタイトルをとるということは、大変な責任を帯びることを意味する。たんに立派な筋肉を持っているということだけでさえも実は大変な責任があるのだ。
 人々はあなたを尊敬する。彼らはあなたをある種の特別な人だと考える。
だから、あなたがそのように考えようと考えまいと、あなたはいつも彼らが思っているように感じるようでなければならない』
―スティーブ・ミカリック―
記事画像3
 『君は自分の筋肉をある意味でほんとうにからだの一部としては見ていないだろう。君はそれを”もの”としてとらえている。
だから君は、こいつは少し長めに出来ているとか、二頭筋はもっと長くなければならんとか、三頭筋は肘のここらあたりではもっと厚くなければならんとか言う訳だ。
君は筋肉を見ていて、それが自分のものであるように思ってはいない。それは君にとって彫刻のようなものだ。からだの各部分をよく観察したあとで、彫刻家の君はこの“もの”にとりかかる。
 ちょっと手を加えてみる―君はおそらくどこかの部分に多少余分にフォースド・レプスを試みるかも知れない―君は筋肉に形をつけていく。彫刻のように』
―シュワルツェネガ―

 『あるとき、私は浜辺にいた。そして1人の女の子がそのボーイフレンドに向って言った。
“ねえ、あの人を見て、何て素敵なからだをしているんでしょう”私は“いやあ、どうもありがとう”と答えた。
 すると、ボーイフレンドは“なあにあんな筋肉は見せかけだけさ、弱いヤツなのさ”と言った。
 私は彼のところへ行って言ってやった。“どうしてそんなことが言えるんだ。僕は君よりも強い。何でも持ち上げて君よりもはるかに力が強い証拠を見せてあげよう。
僕はどんなスポーツだって君には負けないぞ。さあ、あそこの競技台まで行こう。そして証明してあげよう”
 すると彼は狼狽しながらも言ったもんだ。“こん畜生くそったれめ!"
 そこで私は、彼の首ったまをひっつかんで、言ってやった。“いいか、よく聞きな、こんなことは二度と言うんじゃないぞ!”
すると彼女がたまりかねて“オーケー、もういいでしょ、彼を離してあげて”』
―フランコ・コロンブ―


『ボディビルを志すマッスル・ガイとしては、さしずめこんなことに気を配ったらよいと思う。
もし君がとても素晴らしいからだを持っていたら、できるだけそれを誇示しないように努めたほうがよい。
たとえば、あなたもご承知と思うが、ごくあたりまえのシャツを着るのだ。
自分のもっているものを、いつも、すべてさらけ出してはいけないし、その方面の話には言葉を慎しむことだ。
 たとえば、君が小さなBMWの車を持っていたとしよう。そしてその車で相手かまわず競走しようとすれば、きっと地獄に暴走するようなことになってしまう。
なぜなら、ご承知のとおり、この小さなBMWは110マイルがせいいっぱいというところだからだ。
ところが、君がフェラーリやランボルギーニを駆っているやつらを見たとしよう。しかも彼らはフリーウェイを60マイルで気楽にスイスイと走っているのだ。彼らは、アクセルを踏み込めば軽く170マイルも出せることを知っていながら。
 これと同様のことは、どこの世界にでもあるものだ』
―シュワルツェネッガー―


『エド・コーニーのからだは、私よりも幾分完成されている。彼のからだは少し丸味を帯びている。
 諸君も知っているように、彼には欠点というものがない。そして私といえば、彼よりも私の腕のほうが少し大きめだというぐらい。
ないしは、私のカーフのほうが少し大きいというぐらいだ。
 さらに彼について言えば、彼のからだは人を圧倒するほどでもないし、見る限りでは巨大でもダイナミックでもない。しかし、とても均斉がとれている。
 試しに彼の欠点を探してみなさい。ほとんど欠点がないということが判るだろう』
―マイク・キャッツ―
エド・コーニー

エド・コーニー

マイク・キャッツ

マイク・キャッツ

『私はボディビルディングを1つのフォーム(形)と考えている。それはバレエのフォームではないが、バレエに非常によく似たものである。
 私は妻とバレエを見に行って、バレエの動きを観察したり、研究したりすることによって多くのことを学んだように思う。
 私の妻は、このフォームというものにとても関心を持っていたので、それが私に影響してきた』
―フランク・ゼーン―


『コンテストのときなどに、私のすることを理解し、鑑賞することのできるような人のまわりでは、私はトランクス姿でいつも気楽でいい気分でいられる。私は誇りを感じる。
 テレビなどに出たときも、私は誇らしく思う。
 しかし、ビーチなどでは、ほとんどの人たちが私のやっていることの真価をよく認めることのできるような、眼のこえた人たちばかりとは限らない。
 ごく一般の人々は、どのように理解し、鑑賞したらよいのか判らない。彼らが、自分で見ているものが何であるのかさえ判らないときに、君はどうして誇りを感じることができようか』
―シュワルツェネガー―


『私はこんな女性は求めない。―私のからだゆえに私と結婚したいと思うような女性。からだをもてあそぶほんの気まぐれな偏執狂女性。あるいはサンローションを私のからだに塗ることだけに関心を抱く肉体派の女性。
私を見るごとにセクシーに装う女性。
 私の妻は、もちろんそんな女性ではない。その人の個性、真の人間性に関心を抱く女性だ。
 私たちは一緒にいても、彼女が私のからだをほめるでもなく、彼女が私とベッドに入りたくてヨダレを流して待つようなこともない』
―マイク・キャッツ―


『私はステージの上にいるとき、下にいる観衆全員を支配している。私は非常に強い自信を持っている。私はそこにいる誰よりも優位にある。
 なぜなら、私はステージ上の主役であり、観衆は私を見ているからだ。私を見にお金を払って来ているのだ。
 私は非常に自信に溢れている。だから私は私に可能なすべてを見せる。
 私は何ものも恐れはしない。私の心は決してゆらぐことはない』
―フランコ・コロンブ―


『ステージの上にいる私と、ステージの下の私とでは全く違う。ステージの下にいるときは、私は非常に有好的だ。
しかし、ステージの上では、そのコンテストで競争相手を一蹴するのに次々とトリックを使う。
 なぜなら、それには私の生活がかかっているからだ。私は勝たねばならない。
 フランコ・コロンブは私の一番の親友だが、コンテストにのぞんだときは私は出来る限り彼が悪く見えるようにする。そして私をよく見えるようにする』
―シュワルツェネガー―


『私はどこかの墓石に名前だけ刻みつけられた一介の薄ぎたない人間としては死にたくない。
 私はどこか一番トップに私の名前を刻みつけて死にたい。
 私の参加しているスポーツに小さな足跡をつければ、40年後人々は言うだろう。
“オイ、こいつはミスター・アメリカだったんだぜ!”
 これだけで私は十分幸せだ。そして私は微笑を顔に浮べて死んでいくことだろう。
―マイク・キャッツ―
月刊ボディビルディング1979年6月号

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