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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★ 勇気ある旅立ち

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月刊ボディビルディング1980年1月号
掲載日:2019.02.28
1979IFBBオールジャパン・ミドル級3位 増渕 聖司
---川股 宏---

◇自分の乗った船は沈めるな◇

 想いおこせば増淵は、中学、高校と走ることに専念し、1分1秒でも速さを短縮することのみに、全神経を集中してきた毎日であった。

 時々戦士が休養でもするかのように陸上競技のトレーニングの合間に描き続けた絵画に、自分の一生を託そうとは、それまで一度も彼自身想像したことはなかった。

 しかし、高校を卒業する目前になって、画家として自分の将来を託してみたい。すなわち“画家”という船に乗って、未知への旅立ちをしてみたいと決心したのである。

 祖父や父の乗った船は、はからずも世界大戦という大波にのまれて難波してしまった。が増淵は、自分の乗る船だけは、どんなことをしても沈めたくないと思った。

 そして彼のまぶたの中には、自決した祖父佐平氏の大海原に向かって進む勇姿がありありと映った。『ようし、今に見ておれ、誰にも描き得ない芸術の極地を獲得するぞ』と、心の中から情熱の伴なった言葉が、口から自然に出てくるのであった。

 さて、将来画家を目ざすとしても、絵に対する知識や基礎ははたして十分なのかどうなのか不安である。やはり大学へ行って知識武装する必要があると考えるのは当然であった。彼は迷わず大阪芸大を受験すべく決心した。そしてまず両親の説得である。というのは、絵書きというものは、すぐに確実に収入に結びつくものではないし、「絵を描きたい!そして、それを生活の糧にしたい」というような欲望は一般の人にはあまり受入れられないし、理解しにくいことだった。

 『自分の力で学費から生活すべてをかせぎ、親には一切面倒はかけないから芸大へ行かせて下さい』と歯をくいしばっての説得であった。

 やっと説得し終えた次に、増淵にとって大問題が横たわっていたのを、本人はあまり興奮して忘れていたのである。その大問題とは、何をかくそう彼の高校の成績である。ものすご~く立派すぎるのだ。何と驚くなかれ、卒業生中ビリから3番なのだ!

 『なに、芸大を受験したいんだって!そりや正気か。自覚してんのか君はエエ。受験とは試験受けるんやでェ。合格する確率が1%でもあるんならまだしも、まったく確率はゼロやないか。それにどうやってワシに内申書を書け言うのやこの成績で!!』とまるで気狂い扱いだ。

 しかし、捨てる神あれば拾う神ありの諺どおり『それがほんまの男の青春や。君はバケツの水をあびせられても走り続けた。それだけそれに熱中しとったちゅうことだ。そやからビリから3番かてちっともはずかしゅない。要は君が成績がへたってから水を浴びせられた後、どうするかや。受けてみい体あたりや!』と言って励ましてくれる別の先生に助けられて、やっと勉強が始まった。

 受験は3科目、国語、社会、外国語が試験科目である。まともに受験したのでは、落ちるのは火をみるより明らかとさとった彼は、まず外国語に対し1つの計略を思いついた。

 『ふつう、外国語言うたら英語や、しかしまてよ、受験案内見るとフランス語、ドイツ語も可能や、そや、ここは一つ受験者が一番少ないフランス語を狙うてやれ、それが問題が一番簡単なはずや』それからというもの、フランス語の勉強を一からやり始めた。というのは、英語ですら彼は一からやり直さなければならなかったのだから・・・。

 が、ここに一つの教訓がある。“目的をどうやったら達成することが可能か”というと、それに対する“集中力の有無”だ。その結果彼はみごと合格した。先生からみたら奇跡だった。さらにまた、普通の物指では計れない彼に、またまたアッと驚くことが起こったのである。かの先生が、『ありゃやっぱし、どうみたってアホや』というのは、あれだけ苦労して入学した学校を、なんともったいないことに1週間通学しただけで中退、いや、初めっから止めてしまったのだ。

 『あんな子供だまし、ワシの求めている絵と違うわい』がその大きな理由であった。やはり彼は自分の乗った画家という船を、大きな波にも耐えるように作りたかったに違いない。だからこその行動だった。
[ボディビルを始める前の増淵]

[ボディビルを始める前の増淵]

◇無限の力◇

 成功を約束するもの、それは何だろうか。それはひと言で言えば、人生のあらゆる苦難に体当りして、それを克服することにある。言いかえれば、何物かを創造し、建設するところにあるのではないだろうか。それは理論の中や、机の上からは決して生れてはこない。

 増淵は発作的に中退したとは思っていなかった。むしろ、苦労して苦労のしがいのある創造的なことにチャレンジしたかったからこそ、学校の授業が甘く思えてならなかったのである。だから中退した彼自身が悩んだ。

 ともあれその当時の彼は、食にありつくことが先決だった。そして絵を描きながら出来る職業として、彼は水商売に飛び込んだ。バーテンである。夜はバーテン、昼はデザインのアルバイト、そんな生活が2年ほど続いた。

 そして描きつづけた作品を、彼はいくつかの展覧会に出品し、自分の実力を世間に問うてみた。

 そのころ出品した油絵が大阪の展覧会に入選。そして東京・上野の都立美術館で行なわれた二紀展(アンデパンダン展)で、みごと金賞を獲得した。そして彼は『苦労したかいがあった。食うや食わずのドン底の生活の中でこそ、この作品は完成したんだ。ヨーシまだまだやるぞ』と自信とともに。将来への確信が強まったのもこの時である。

 東京へ行って勉強をし、再出発したい。そんな気持が二紀展を境にして起こってきた。その大きな理由に、絵を描き続ける手段として、美術教師としての資格を得たい気持が心に育ってきたからである。時に彼が19才のころであった。

 大阪芸大を中退して2年後、彼は東京武蔵野美術大学受験を決意、再びバーテンをしながら再挑戦すべく、またまた苦手な勉強へのアタックが開始された。

 苦しい時、彼は祖父・佐平氏の勇気そして敗戦による焼跡生活、そして花見の行商、中学・高校時代のクラブでの、倒れた頭からかぶせられる無感覚とも言える水の音を思い出す。『俺の船は俺がカジを取る。そこには嵐もナギもあるだろう。未知への旅立ちだからこそ勇気を出さねばならぬ』これが彼の情熱への源だ。そして絵は心で描くもの、心の入魂された絵こそ俺の求めるものと自分自身に言い聞かせる。それが何を始める時にでも用いる克服への一歩だった。

 一度中退の経験をもつ彼は、本気で武蔵野美術大学に入学したかった。そしてどんな苦しさに耐えてでも、今度こそ本格的に絵というものを求めつくしたかった。

 そんな時、一枚の作品を肩にかけ彼は或る人を訪ねた。『私の絵を見て下さい。そして教えて下さい』

 彼に絵を無理に見せられた先生は、かけ引きのない真剣な顔つきや態度、そしてなにより彼の作品のスケールの大きさに、その道を求めた先輩として彼の可能性を、大いに理解したのである。こうなるまで、何度も電話をかけ断わられても断わられても、何度もお願いしての今日であったことか。この人こそ当時、武蔵野美術大学の学長だったのである。

 そして最後に、『私、この度御校を受験いたしますのでよろしく』とのあいさつの時、先生が目を白黒させたのは勿論であったが、この面会が入学依頼だけのハッタリでないことを、この作品が証明したのである。というのはその作品は、受験生のそれの域をとうに越えていたからである。そして昭和37年4月、東京の武蔵野美術大学に無事入学したのである。
[1979IFBBオールジャパン・ミドル級3位入賞の増淵]

[1979IFBBオールジャパン・ミドル級3位入賞の増淵]

[増淵の卒業記念の油絵]

[増淵の卒業記念の油絵]

◇茨の道でも惚れた道◇

 群を抜いて秀でる方法は、あたりまえの仕事を、ただ、並はずれた情熱をもって行なうことだ。そして情熱こそ成功の最大の要素だ。

 増淵が事を成すにあたって感謝していることが3つある。もしかしたら、自分が本当は情熱のない人間だったのではないかと想うからである。

 一つは祖父佐平氏の勇気ある血が脈々とつながっている、という自己信頼がどんなに心の支えになっていたかということ。

 二つめは、苦しい生活や、苦しいトレーニングの中に、自分自身ですら信じられない無限の力を培養する何かがあったということだ。幼い時の苦しみがなければこうして絵を描いていられたかどうか、今日ここに立っていられたかどうか定かでないということだ。だからあのバケツの水が、神が与えてくれた最大のプレゼントだったのではないかと今となって感謝するのだ。

 そして三つめは、絵画という、心から惚れる対象があり、その役割をありありと自覚出来るからである。

 この画家の道にどんな障害があっても、惚れた道だからこその決意も固く苦しい学生生活がスタートされた。

 アルバイトも本当に飢えをしのぐ程度のお金が入れば、それがなくなるまで専ら絵に集中した。

 この当時、彼は1日1食、しかも安価なものばかりで、インスタントラーメン1個という生活が何日間続いたかわからない。水商売の経験を持つ彼が、ともすればその苦しさから逃れることはいとも簡単なことだったが、彼はそれをしなかった。月1万~1万5千円の生活が続いた。40kgそこそこのやせ衰えた体からは、中・高校とスポーツで鍛えた体などという印象はかき消えていた。

 その反面、彼の絵の技術とスケールは大きく飛躍していった。だから、この苦しみの生活の中で彼の船舵は安定していったと言ってよかった。

 これだけの苦しい学校生活、一般の学生のなじむマージャン、パチンコ、楽しいデート、総てを断った上にこそやっと花のつぼみがほころんだと言ってよい。

 1日1食という栄養失調ぎみの体は実際よくもったといえる。が、今思っても苦しいと感じなかったのは絵が好きでたまらなかったからである。

 その結果、またも驚くべき結果が示されるのである。それは昭和41年度の武蔵野美術大学の卒業式である。『卒業生総代、増淵聖司君!』・・・なんと彼は首席で卒業したのである。さらに彼の描いた卒業記念制作の絵は、武蔵野美術大学永久保存という栄誉にまでなっての堂々たる卒業であった。誰があの高校でビリから3番目の彼が、首席で卒業することを想像しえたであろうか。これは彼の努力の栄えある勝利であった。

(つづく)
月刊ボディビルディング1980年1月号

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