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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
上原隆一のチャレンジ・リポート 1979年8月号

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月刊ボディビルディング1979年8月号
掲載日:2019.03.22
川股 宏

◇パートナーの必要性◇

人の心を、1つの目標に向って努力するようにかりたてるものは、いったい何だろうか。それは「よし、やったろう!」という心の底から湧きあがる“情熱”に他ならない。

上原が捲土重来を期し、サンプレイトレーニング・センター(宮畑会長)の門をたたき、やる気を起こしたのは上原自身が、心底ボディビルが好きだったということはもちろんだが、やはり、過去数年、ミスター東京コンテストで負け続けたくやしさが大きな理由であった。しかしそのやる気を助け、きびしいトレーニングを継続することができたのには、ほかにもいくつかの理由がある。

1つは、よきライバルがあったことであろう。同じ目標意識をもっている友だちができたことである。

“佐藤敬治君”がその人である。元自衛隊員の彼は、素質、熱意、根性において、いずれ劣らぬ豪の者であり、上原にとって、この上ないよき競争相手であった。

しかもトレーニングにおいては良きパートナーであり、トレーニングが終れば何でも話し合える気心の合った友だったことは無上の幸いだった。

上原が、佐藤君という同志を、この努力の過程で得たことは、上原の再生に、筋肉の発達に大きく影響したことは確かである。

『縁は不思議なものです。宮畑会長や佐藤君との偶然の出合いが私にこれほどの影響力をもつなんて・・・・・・』と上原はしみじみ語る。

確かにそのとおりである。このことは明治維新を作りあげた“志士”たちを例にあげるとわかり易い。

彼らは、幕末という混乱の中で、新しい日本建設のため、全く別々の環境の中から、同じ目標に向って努力を開始した。

やがて彼らは“同志”となり、共通の目標のために集団で活動した。そして現代日本の基礎が出来たのである。

たとえとしては少し飛躍しているかも知れないが、この話でいえることはいくら“やる気”があっても、1人ではなかなか育ちにくいということである。常に同志の刺激があってこそ、成功につながるものだといえよう。

とりわけ、上原にとってパートナー佐藤君は、時々おそってくる甘い考えや、弱気から立ち直るキッカケを何度もつくってくれた。バーベル相手の苦しいトレーニングで「あと一発!もう一発」の佐藤君のかけ声がどんなに上原の胸や腕の筋肉へ刺激を与えてくれたことだろう。

最大重量の限界ギリギリのトレーニングで、さらに1回、2回とくりかえすことは、ロでいうのはやさしいが、危険すら伴なうものだけに、パートナーの支えがあり、競争心がなくてはとてもできるもではない。
〔トレーニング中の上原と宮畑会長〕

〔トレーニング中の上原と宮畑会長〕

◇コーチの必要性◇

さらに、上原にとって恵まれていたもう1つの理由は名コーチ、宮畑会長の存在である。

名コーチといえば、1から10まで、手とり足とり教えてくれるものと思うかも知れないが、宮畑コーチはそうではない。入会すると、まず各人の体型や筋肉の発達状態を見て、欠点を細かく指摘することは前に述べたが、トレーニング方法については「俺のトレーニングを見ておぼえろ」式だった。

宮畑会長は『私もジムの経営者ですが、個人的には選手の1人です。自分の体をどう仕上げるか真剣です。教えてくれる人がいたら教えてもらいたいことだってあります。ですから、自分の体、トレーニングのやり方、すべてを会員さんの前にさらけ出し、みんなの意見に素直に耳を傾けます。そして自分なりの方法を開発する。このくりかえしです』と語っている。

上原は、たまに宮畑会長とパートナーを組んでトレーニングする。そんなとき“井の中の蛙”を認めざるを得ない。使用重量、回数、スタミナ、すべてにおいて会長にはかなわないからである。選手同志という同格の立場においてみれば実力の差は歴然としているのである。この差が筋量の差であり、腹筋の差となって現われる。

ロでいわれる教えより、無言で、完膚なきまでに見せつけられる実力の差が、コーチとして、師として上原の求めるものと一致したのである。つまり壁をのりこえる厳しさを体で教えてもらった訳である。
〔スコット・カールをする上原。隣は宮畑会長〕

〔スコット・カールをする上原。隣は宮畑会長〕

◇苦しさのあとに充実感◇

自分よりレベルの下の者を相手に、優越感を感じながら好きな種目のトレーニングをする。これは、ある意味ではすごく楽しいことだ。“お上の大将俺ひとり”式のトレーニングをしている人も多いことだろう。実は以前、上原もこれに近いトレーニングを楽しんでいたといってもいい。

ところが、宮田会長から最初に『腹筋がダメだ』といわれ、明けても暮れても腹筋台と取り組むことになった。腹筋が弱いくらいだから、シット・アップやレッグ・レイズは嫌いな種目である。しかも、息を完全に吐き出し、極限まで曲げるシット・アップはくるしかった。

脚のトレーニングにしても同じことがいえた。いつもの例で、腹筋のあとは脚ときまっている。嫌な顔でもしようものなら、スクワットの得意の佐藤君が、すぐに『1つ、2つ』と数を数え始めるのだから始末が悪い。

たまには『ベンチ・プレス120kgで20回できるか?』というようなカケが始まる。たいがい無理なカケだから、負けるのはいつも上原のほう。くやしいから力をつけようと努力する。

『トレーニングが楽しい時期は俺からは去った。やはりこの欠点克服と会長との実力差を縮めない限り、俺は表彰台には昇れない。努力なくしてこれは不可能だ。こう考えると、苦しいトレーニングをしたあとで、いままで感じたことのない充実感が湧きあがってくる。そして、月日のたつのにともない腹筋、脚の筋肉が徐々に変化をとげてきたときは、喜びと共に勝利への意気ごみへと精神も変化をとげてきた。

1978年度ミスター東京コンテストの3ヵ月前、上原のトレーニングは、①シット・アップを中心とした腹筋運動、②スクワット、レッグ・エクステンションを中心とした脚の運動、③ナロウ・グリップ・ベンチ・プレス、ラットマシーン・プレス・ダウンを中心とした上腕三頭筋の3点にしぼって、セット数に関係なく、時間制にして徹底的に鍛えた。

また、トレーニングと同時に、好き嫌いの多い上原に、宮畑会長はかなりきびしい食事法を指示した。

それまでは、肉は嫌い、プロティンもダメ、好きなのは野菜、卵と魚はまあまあという菜食ビルダーだった。それが体の変化と共に何でも食べられるようになってきた。

大会めざして最後の追い込みに入った。勝ち気とムラ気の同居している上原は、たまに気力が抜けて少しだれてくることがある。そんなとき、会長はやさしい声で『ちょっと大事な話があるから、今日はいつもより1時間ほど早めにセンターに来てくれないか』と電話をかけてくる。

『君の体質は末光選手や榎本選手に似ているから、努力さえすれば必ず大成すると断言できる。もうひとふんばりだ』と、静かに語りかけてくる。会長の気持がヒシヒシと伝ってきて、やる気をふるい起こして練習をはじめると『やれ、腹筋がダメだとか、ポージングは小学生並みだ』とか、ガミガミいうからドギマギしてしまう。やさしく励ましたり、けなしたりして、なんとかやる気を維持させようというのだ。

ともかく、大会に向けて同志が2人3脚よろしく進んだ。ときには、名前もつけられないようなトレーニング方法をやったこともある。たとえば、脚のキレを良くするために、プレートを柔道の帯で結んで足先に引っかけ、高い所に腰かけて足を上下させるといった運動をひんぱんに行なったこともある。
〔1978年度ミスター東京コンテストに出場したときの上原〕

〔1978年度ミスター東京コンテストに出場したときの上原〕

◇大会当日、大目玉◇

コンテスト当日、晴れの舞台で入賞者にトロフィー、賞状が手渡される。この一瞬のために、長い間、きびしいトレーニングを積んできたのだ。努力して入賞した人ほど、その感激も大きい。

この大会で2位のトロフィーと賞状を手にした上原も例外ではなかった。表彰式が終るや、まず会長に『ありがとうございました』とお礼をいいに行った。内心、『よくやった』と会長からほめられるものと期待していたが、あにはからんや、返ってきた言葉は意外だった。

『上原君ダメぢゃあないか! 優勝を逃がしてしまって・・・・・・。今日は勝てた試合だったんだ。筋肉の迫力では1位の福岡選手に決して負けてはいなかったんだ。ところが、ポージングがまるでダメだ。見せ場がないし、オドオドと同じことばっかりやっている。もっと自分の長所を自信をもってアッピールしなくっちゃ。結局、勝負に負けたんだよ。これは私にも大いに責任はあるんだが』

聞いていて上原は、会長のいうことがよくわかった。『会長。すみませんでした。来年はきっとやります』と、すなおに心からわびたのである。

“心からわびた”理由は2つある。1つは、つかみ取れるチャンスが目の前にありながら、それをつかみ取れなかったということは、やはり気力が充実していなかったからであろう。チャンスというものは度々訪れてくるものではない。仮りに来年、今年よりはるかにいい体調でのぞんだとしても、相手がある以上、必ず勝てるという保証はどこにもない。訪れたチャンスを必ずものにするだけの自信と気力が不足していたことを上原は自覚したからである。

もう1つは、パートナーをつとめてくれた会長や佐藤君に、すなおな気持で優勝できなかった自分をわびたのである。

上原にとって、会長から『おめでとう』といわれるより、『ダメじゃあないか!』といわれるほうが、はるかにうれしい励ましの言葉となって伝ってきたことは事実である。

『来年のことをいうと鬼が笑うというが、全くそのとおりだと思う。来年のことは来年、現実問題として、力も体も、気力も追いつき、追い越さねばならない対象が目の前にいる。それは誰でもない会長だ。その会長を追い越さない限り、全日本にくい込むことなど絶対にできない。灯台もと暗しとはよくいったものだ。まず目標は、目の前にいる人に勝つことだ。そうすれば道はおのずから開ける。ようし一歩一歩がんばるぞ。佐藤君、一緒にまたがんばろうや』と、気持も新たに、さわやかな気持になった。
〔ミスター日本コンテストのとき〕

〔ミスター日本コンテストのとき〕

月刊ボディビルディング1979年8月号

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