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☆セルジオ・オリバ物語☆(その4)
"大魔神の半生"

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月刊ボディビルディング1982年7月号
掲載日:2018.12.13
国立競技場 矢野雅知
 キューバ人であるが故に、また黒人であるが故に、オリバはコンテストで幾多の苦汁をなめさせられた。しかしそんなことでボディビルディングをやめようとはしなかった。コンテストの結果が偏見に満ちていればいるほど、その怒りをトレーニングにぶつけていったのである。

ジョー・ウイダーとの出会い

 ちょうどその頃、ジョー・ウイダーから手紙が届いた。彼は自分が主宰するプロのボディビルディング組織に加入することを、しきりに奨めていた。決心したオリバは、ニューヨークに行きウイダーのもとで働くことにした。だが、英語をまだ十分に話すことができなかったので、ウイダーとは初めのうちはしっくりとはいかなかったようだ。

 プロのフィジーク・コンテストにオリバが初めて出場したのは、1966年のミスター・ワールドである。世界各国から、様々な選手が集まってきた。彼らはよくトレーニングされた素晴らしい選手ばかりであったが、優勝はオリバであった。

 1ヵ月後、ニューヨークのブルックリンで、1966年度ミスター・ユニバースのコンテストがあり、その日の夜には、ミスター・オリンピアのコンテストがある。その当時から、プロのボディビルダーにとって、ミスター・オリンピアは最高レベルのコンテストであった。つまり、ミスター・オリンピアのタイトルを獲得するということは、事実上、世界一のボディビルダーである、ということでもある。

 1966年といえば、アーノルド・シュワルツェネガーが19歳にしてNABBAのミスター・ユニバースに初挑戦した年である。(註:このときはチェスター・ヨートンに敗れて第2位)

 その前年は、レジ・パークがこのNABBAのミスター・ユニバースで三度目の優勝をとげて全盛期であり、ビル・パールも健在であった。ハロルド・プールやデイブ・ドレイパーが絶好調であり、フランク・ゼーンやデニス・ティネリーノが台頭してきた年でもある。

 一方、IFBB系には、絶大な人気を誇るビルダーがいた。ラリー・スコットである。彼は、1965年の初代ミスター・オリンピアの栄冠に輝いており名実共に世界一の座に君臨していたのである。

1966ユニバースで優勝、オリンピアはスコットに敗れる

 オリバはミスター・ワールドを獲得した勢いでミスター・ユニバースでも優勝した。そのベスト・コンディションのまま、ハロルド・プールなどと共にミスター・オリンピアに挑戦した。結果はラリー・スコットが連覇して、オリバは第2位であった。

 しかし、オリバにとって、第2位とはとても信じられない、納得のいかない結果であった。ミスター・ワールドにつづきミスター・ユニバースと、数多くの強敵をすべてたたきつぶして優勝したオリバが、なぜラリー・スコットなどに負けるのか。ましてやミスター・ユニバースに優勝したその日の夜であるから、コンディションは最高のはずである。負けるハズがない。

 やがて、オリバはコトの真相がわかってきた。ミスター・オリンピアのコンテストは、始めから「ラリー・スコットが優勝」と決められていたのだということが……。

 ラリー・スコットといえば、当時のボディビルダーたちの憧れのマトだった。"スコット・カール"というポピュラーな用語さえ残しているほど、スコットの腕は凄かった。上腕のみならず、前腕も太く発達していて、彼の腕を強調するポーズはまさに一世を風靡していた。シュワルツェネガーでさえラリー・スコットの腕には憧れを抱いていたのである。

 現在のレベルからみれば、とても腕だけではコンテストには勝てないし、ラリー・スコットは過去の偶像ではあるが、少なくとも当時は大スターで、アイドルであった。

 そのアイドルが、前年度に初代ミスター・オリンピアとなり、そしてこの1966年のミスター・オリンピアのコンテストを最後に引退することになっていた。アイドルはミスター・オリンピアのまま引退させなくてはならない。どんな選手が出場しようが、ミスター・オリンピアにはスコットがなることが望まれており、そうあるべきだったのである。
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シュワルツェネガーとの対決

 翌1967年のミスター・オリンピアでは、当然のようにオリバが勝った。さらに1968年と連覇した。リアル・ワールド・チャンピオンとして、世界一の座に君臨しながらも、オリバは再びシカゴにもどってきた。そして、工場で働きながら、毎日トレーニングをつづけていた。

 オリバは毎朝5時に起きる。6時には工場で働き始め、みっちりと夕方6時まで仕事をやる。そのあと8時半までトレーニングをして、さらに英語の勉強をするためにすぐ学校にかけつけて、10時まで机に向う。ひじょうにキツイ毎日のスケジュールであるが、その間も世界中の大きなフィジーク・コンテストに出場しては、圧倒的な勝利を収めていた。

 1969年のミスター・オリンピアにはNABBAミスター・ユニバースとなったシュワルツェネガーがチャレンジしてくる。

 アーノルド・シュワルツェネガー、彼の巨大な筋肉の躍動は、並み入る強豪たちを総ナメにして、一躍世界のトップ・ビルダーにかけのぼってきた。AAUのミスター・アメリカとなったデニス・ティネリーノなど、シュワルツェネガーと並んでポーズをとれば、ただの引き立て役に過ぎなかった。シュワルツェネガーの巨大な筋肉を粉砕できるのは、オリバをおいてはいなかった。

 果たして、この1969年のオリンピアの舞台では、オリバとシュワルツェネガーのド迫力のポージング合戦が演じられた。もう一人の参加者、フランコ・コロンブなどは、観衆に全く無視されたピエロ役でしかなかった。
 この両巨人の初の激突は、オリバが勝った。これでミスター・オリンピア3連勝である。オリバの強さは観衆に強烈な印象を与えたが、ジャッジの判定は僅少差であった。

 シュワルツェネガーは、このときの心境を自伝で述べているように、すでにコンテストの舞台に立つ以前に、控室においてオリバの人間ばなれした筋肉に圧倒されて、完敗のショックを受けていた。あの自信に満ちあふれて、いかなるビルダーであろうと「絶対に打ち破ってみせる」と豪語するシュワルツェネガーが、「オリバは別格だ」とシャッポを抜いだのである。

 シュワルツェネガーですらこうなのであるから、日本のトップ・ビルダーが、オリバを見て「逃げ出そうと思った」と語ったり、また、ボディビルディングに打ち込む決意をしてアメリカに渡った男がオリバを見て「自分がまるでトレーニングなどやってない初心者に思えて、すっかりやる気をなくした」と言っていたことなどは、むしろ当然であるかもしれない。

 しかし、いくら強いからといって、その者がいつまでも勝ち続けることを好まない人間もいる。かってAAUミスター・アメリカのコンテストでは、ジョン・グリメックの連勝を避けようと、優勝者の連続出場禁止というルールを設定したことがあるが、ここでまた、黒人のオリバを世界一の座に居すわらせるよりも、新たなミスター・オリンピアを誕生させようとする動きが出てきた。

 オリバは、1969年のミスター・オリンピアに勝って3連勝すると、すぐに翌1970年のミスター・オリンピアのタイトルを目指して着々とプランを練っていた。そんなとき、何人もの人間から、ミスター・オリンピアには出場しないように迫られたのである。オリンピアのタイトルは、他のビルダーが獲得するように、すでに取り決められているからだという。

『オレはそんな願いを、すべて無視した。とにかくベスト・コンディションでコンテストを闘いたい。ただそれだけなのである。他の選手と闘わんがために、オレはトレーニングをやってい
るのである』
記事画像2

オリンピア3連覇のあと、宿敵シュワルツェネガーに敗北

 1970年のミスター・オリンピアではオリバの敵はシュワルツェネガーただ1人。彼をたたきつぶすことがすべてであった。両者はベスト・コンディションで激突した。

 そして、オリバは敗れた。3年間保持した世界一の座をシュワルツェネガーに明け渡したのである。

『アーノルドはポージングを優美に展開するベストのボディビルダーの1人である。しかしながら、私に挑みかかってきたとき、本当にどちらが勝者であり、キングなのか、彼には判っていたはずだ。もし、アーノルドがコンテストで勝つだろうという約束がなされていなければ、オレは今でもミスター・オリンピアであっただろう』

「ザマぁみろ」と言わんばかりの審査員たちのうす笑いやあざけりで、オリバはIFBBのコンテストには、二度と出ないコトを決意した。

 それから2年、オリバはいっさいのコンテストに出場しなかった。だが、彼の闘争本能が消えたわけではなく、依然として燃え続けていた。

 1972年になって、ドイツのピーター・ファッツェンから、ドイツで開催するミスター・オリンピア出場の招待状を受け取った。オリバは2年間の沈黙を破って出場した。

 オリバとシュワルツェネガーに加えて、サージュ・ヌブレもチャレンジしてきた。さすがのヌブレも彼らが相手では広背や脚の弱さが目立ってしまいやはり1ランク落ちる。

 結果は、シュワルツェネガーが再びオリバを破って、オリンピアのタイトルを防衛した。しかし、この結果に異をとなえたのは、オリバ本人ではなく観客であった。シュワルツェネガーにはブーイングが浴びせられ、彼はヤジり倒されたが、彼に非はない。

 コンテストの結果が、あらかじめ取り決められていたことについては、シュワルツェネガーに責任はないのだ。オリバは、実質の勝者だという圧倒的な支持があり、激励の大きな拍手を浴び続けていた。オリバにとっては、コンテストの結果よりも、観客の反応こそがすべてであった。

 この経験は、オリバをズンと強いモへにした。それは、オリバを待ち受けている試練の1つなのだ。これと同じように、ボディビルディングの世界には巨大な力が支配しており、これが国際大会でも、アメリカ国内の大会でも重要なコンテストではオリバに対する妨げとなっていたのである。

 その後、再びコンテストから身を引いていたオリバは、3年後の1975年にメキシコで開催されるミスター・オリンピア・インターナショナルのコンテストに出場することを決意する。それというのも、このコンテストのプロモーターであるエディ・シルベスターに審査はすべて公明正大であることを確約させていたからである。

 彼はオリバに約束したように、不正を許さなかった。ドイツでのオリンピア・コンテストで裏工作をした同じ人物から、エディ・シルベスターにも同じように、あらかじめ優勝者を決めるようにと、巨大な圧力が加わってきたが、彼はガンとしてこのビッグマンの要求をはねつけた。

 エディ・シルベスターの毅然たる態度に腹を立てたミスター・ビッグマンは、このコンテストに出場する予定であった彼の傘下の選手たちの出場を、すべて取り消してしまったのである。

 このミスター・オリンピア・インターナショナルには、もちろんオリバが勝った。いまIFBBと決別しているオリバの自叙伝であるから、多少、オーバーな表現はあるかも知れないが、彼はいう。

『私をよく思っていないボディビルディングの月刊誌に、私のかなり体調の悪いときの写真が掲載されているのを見たり、悪口を書いてある評論を読んだことがあるだろう。そこには、たえずオリバの時代は終った。体からキレが消えてしまい、たっぷりと脂肪がのっている。もはや過去の時代のビルダ
となった、と−−。

 もしそれが事実としたら、今だに私が現役として勝ち続けているのを、何と説明するのだろうか…………』
月刊ボディビルディング1982年7月号

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