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★ビルダー・ドキュメント・シリーズ★
実業団とミス健康美の育ての親
山際 昭の歩んだ道〈2〉

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月刊ボディビルディング1982年9月号
掲載日:2018.11.02
川股 宏

◇プロダクション設立◇

 日本の復興、経済の立ち直りは世界の的となるほど急成長を始めた。昨日までの物資不足やインフレは、勤勉性を誇る国民の努力でようやく克服されていった。こんな国民の勤勉性の良き糧となったのが映画や歌であった。まだテレビのなかった当時、リーゼントの髪形の若者や、ロングスカートの女性は、休日ともなると映画館や劇場の前に長蛇の列をなした。

 こんな時代背景の時、芸能界に飛び込んだ山際は、本人の努力、才能もあったのだろうが、やはり強運の男と言って良かった。司会者という立場上、多くの歌手との友好も温められたし、また、都会、地方を問わず、多くの興業主との知遇を得たことは、それからの山際にとって有形、無形の財産であった。

 しかも、地方巡業という、寝食を共にするコミニュケーションは、いやが上にも人と人とのきずなを強くしていった。

「よし、今までつちかった友情をたよりに、ひと旗あげようか。興業主や映画館主、クラブ、キャバレーは、人気歌手を血眼になって探している。歌手や俳優に仕事の世話やマネージメントする仕事、そう、プロダクションの方が男としてやり甲斐もあるし、今の俺だったら十分出来るのではないか」と山際は奥さんに相談してみた。

 ふだんあまり自分の行動を奥さんに相談したことのない山際が、奥さんに相談したのにはワケがある。というのはこの奥さんは、実は「小柳三プロダクション」社長の娘さんだったのだ。「あなた、勇気を出してやりましょうョ。芸能界はこれからが成長期ョ」と話はトントン拍子だった。

 確かに山際夫妻の読みは正しく、テレビの普及をはじめとして多様化した芸能界と、それをマネージメントする仕事とジャンルは成長性を十分に持った新分野だったのである。

 こうして、それまで司会者として一本立ちしていた山際は、惜し気もなくそれを捨てて、実業の分野へと徐々に方向を転換していった。昭和30年、山際が29才のときである。

 そして設立されたのが「山芸プロダクション株式会社」である。「人に笑いと喜びを」を心ざして吉本興業に飛び込んでちょうど10年の歳月が経過していた。浮き沈みのはげしい芸能界において、順風満帆、そんな言葉がぴったりする程の10年間であった。

 山際を順風満帆といったのは、この華やかな芸能界には、一握りのスポットライトを浴びるスターや興業主、有名プロダクションがある反面、その陰にはその何百倍もの陽の当らない人々がウヨウヨいるからだ。

 山際は、以前、故伴淳三郎さんから直接、彼の苦しかった時代のことを聞いている。

「私は山形の小学校を出るとすぐ、日本橋の呉服屋の丁稚となった。山形弁丸出しの私は、先輩たちからいじめられ、からかわれた。私は、なんとかして先輩たちを見返してやろう。それには資本のいらない役者になって、有名になるより方法はない、と、その呉服屋をとび出した。

 しかし、役者の修業は呉服屋のそれより辛かった。鼻くそみたいな給料では着る物はおろか、めしさえ食べられない日が何日も続くことがあった。泣けて泣けてしょうがなかったけれど、呉服屋をとび出した以上、なにがなんでも一本立ちしようと自分に言い聞かせて頑張りました」

 比較的順調にこの10年間、芸能界をくぐりぬけ、ようやくプロダクションの経営者になった山際は、当時をふりかえって、なつかしそうに語る。

「私は多くの人にかわいがられ、多くの人に人生を教えられました。人と人とのきずなの中で生きた勉強をしたと思っています。将来を期待されながら酒と女で人生をダメにした人、バクチに手を出して夜逃げをした人、そんな人を何人も知っています。半面、芸能界にも義理がたく、生きた金ならどんどん使うが、死に金は一切使わないという人もいました。そういう人は、やはり最後には成功しています。

 真面目で礼儀正しいことで有名な東海林太郎さんは、後年『私は山際さんの司会でないと歌いません』と、自分の意志を押し通して私を立ててくれました。東海林さんの葬式の時、私は男泣きに泣き、いつまでも涙がとまりませんでした。

 美空ひばりさんなんかも、私は将来きっと伸びるナ、と横浜国際で司会をさせてもらったとき思いました。まだ12、3才のときでしたが、本番前の音合わせなどは、一流歌手なみに注文をつけていたものです。それでいて、祝儀などの金払いはすこぶる良い。やはり芸能界のノウハウをあの頃から知っていたんですネ。

 そうそう、私の山芸プロダクション設立のときの話をしましょう。山際の山と芸能の芸をとったこの山芸プロダクションは、社員が8名、所属歌手には春日八郎 ♪泣けた泣けた こらえきれずに泣けたっけ♪ あの別れの一本杉すごかったですねェ。それから菅原都々子 ♪月がとっても青いから 遠まわりして帰ろ♪ それに、誰か故郷を想わざるの霧島昇もそうでした。

 当時、銀座のキャバレーは、ほとんど私の山芸から派遣した歌手でした。また、地方へ行ってもいつも押すな押すなの盛況で、私は楽屋で金勘定。千円札のしわを伸ばしてトランクにギュウギュウつめこむんです。一興行で家が1軒買えるほど稼いだものです。

 まあ、こんないいことばかりでなく時にはトラブルもありました。台風で交通がマヒし、次の興業地に行けなくなってしまって大損害を受けたことなどもありました。

 このころの競争相手は、ベース奏者から独立した渡辺晋氏が設立した渡辺プロダクションだったですョ。その当時、まだプロダクションというのはあまりなく、私たちがプロダクションのハシリだったですから……。その後、渡辺プロはご存知のとおり芸能界に君臨するまでになるんです。

 こうして山芸プロダクションが軌道に乗ったころ、もう1つ、山際商事というのを設立しました。これは最初、小料理屋だったんですが、その後、不動産業に転向しました。当時、土地の異常な値上がりがはじまった頃で、1年で2倍にも3倍にもなるという時代でした。業績もぐんぐん伸びて社員も25人ほどになりました。そして、この社員たちの健康管理ということで、バーベルを買い込んだのが、ボディビルと私との出合いだったのです。

 ちょうどその頃、大森の旅館の売買の斡旋の話が山際商事にありまして、見に行ったところ、私がすっかり乗り気になってしまい、それを自分で買いとったんです。それが私のホテルの第1号というわけです。

 ですから、私のこの昭和30年代にやった仕事やボディビルが、昭和40年代から今日まで、大きく、しかもうまくつらなってきたんです。この間の10年間というものは、仕事も順調で、よく働き、よく遊び、ほんとうにアッという間の忙しさでした」

 と、山際は当時の想い出を目を輝か せて語ってくれた。
 日劇の春のテイチク祭。左端が司会の山際

日劇の春のテイチク祭。左端が司会の山際

前列右から2人目が山際。1人おいてその右が東海林太郎

前列右から2人目が山際。1人おいてその右が東海林太郎

1981年ミスター日本コンテストにて

1981年ミスター日本コンテストにて

◇実業団連盟とのかかわり合い◇

 今でも語り草になっている昭和30年前半のプロレス・ブーム。各家庭にまでテレビが普及していなかった当時、電器店の店先は力道山の空手チョップを見たさに黒山の人だかり。当然、プロレスラーたちの遅ましい筋肉美にあこがれて、若者たちがボディビルへと走った。ジムも雨後のタケノコのように誕生して第一次ボディビル・ブームが到来したのである。

 中には、こんなアメリカ・ナイズに反発して「あんな張り子の虎みたいな筋肉は、見かけだけで力もなく、そのうちにすぐしぼんでしまうんだとサ」と、ボディビルの効果を認めようとしない人々もいた。

 さきにも書いたように、山際商事でもバーベルやダンベルを買いこんで、山際自身が先頭に立って、連日、仕事が終ってからトレーニングに励んだ。着実に効果もあらわれ、逆三角型になった山際の体は、すれちがう人がふりむくくらい目立つようになった。

 日頃の成果をためさんと、山際は、昭和41年、第1回実業団コンテストに出場した。そして第3位に入賞した。その時、山際は40才であった。

「これが私とボディビル界、とくに実業団とのかかわり合いの最初で、その後、現在まで続いているわけです。

 今の若い人は、私をただの司会者や協会の役員と思っている人がいるかも知れませんが、私はレッキとしたビルダーです。しかも、第2回実業団コンテストでは2位にまで行ったんです。41才の中年で……。自分では本気でトレーニングした結果の評価と満足し、真剣にその時、ヨシ、これからは選手としてではなく、何らかの形でボディビル界の手助けをしよう。若い人たちに正しいボディビルを伝えよう、と考えたんです。

 その結果が、役員と、それから、昔とったキネヅカで、司会をやるようになったというわけです。私も、今でこそ以前のようなトレーニングはやっていませんが、ボディビルで流した汗の匂いは今でも忘れません。そして、若い逞ましい青年たちと交流することが私の生きがいであり、私自身の若さを保つ秘訣です」

 と熱っぽく語る山際からは、どうしても昭和元年生れとは思えない若々しいムードがただよう。
月刊ボディビルディング1982年9月号

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