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08 日本ボディビル選手権 優勝者の手記1【西本朱希】

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[ 月刊ボディビルディング 2009年3月号 ]
掲載日:2017.04.25

優勝者の手記

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誰もが夢見るボディビル日本一。それを決める日本ボディビル選手権で合戸孝二は2連覇、西本朱希は2連覇を成し得た。ここだけ聞くと2人は雲の上の存在、超人的なイメージがどうしても湧いてしまう。しかし2人は他の選手と同じように怪我に苦しみ、調整に苦しんだ。そんな2人が日本一になるまでの敬意を赤裸々に語ってくれた。

西本朱希

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前回の手記から4年・・・

「ボディビルを競技として続けることを諦めてしまっていたときに起こしてしまった交通事故。怪我やその後遺症からくる様々な症状だけでなく、負荷が今までのように扱えなくなってしまったことに、いら立ちを感じて大学生の時からずっと続けてきたウェイトトレーニングまでも辞めようかと考えるようになってしまった。そんな気持ちを克服するために出てきた“何かまた目標を持とう!”という思いと、ずっと途絶えることなく送り続けてくれた「ボディビルの競技に復帰して!」という、まわりの方々の温かい声援が後押しとなって、2004年にボディビル競技にとうとう復帰し優勝することまでできた」

4年前、こんなことをこの月ボの手記に書かせていただいてから、とうとう全日本5連覇を達成するところまで試合に出続けてしまいました。

「初優勝とか復帰優勝とか、そんな劇的な内容での優勝でなければ、私の書いた手記なんて読者にとっても面白くないでしょうから・・・」と理由で、その後の手記はお断りしたのですが、「次の手記は5連覇を達成したときにでも」なんてことを言ったのを覚えていてくれたのか・・・はたまた、たまたま載せる記事がなくて困っていたからか・・・こうしてまた、久しぶりに手記を書かせていただく機会を頂くことができました。

ジムで「西本さん、何連覇まで続けるつもり?」などと苦笑されることがしばしばあるので、それに対しても最後に少しだけ触れさせて頂くことにして、まずは2004年から今回5連覇を達成するまでの過程で起こった“様々な出来事”のダイジェストを書かせていただくことにします。

初めての連覇

まず復帰して2年めの2005年。“事故の後遺症”自体は目標を持ってトレーニングできたことが良いリハビリにつながり、かなり改善したのですが・・・。試合出場を目標にすればやはり限界まで無理をするもので(それを望んで出場を決心したわけですが)、後遺症で効かない右腕をカバーしながらのトレーニングは、左肩や腕の故障をまねく結果にもなりました。

この歳はワールドゲームズ開催の年だったのですが、私は「ライト級の選手が選ばれるだろうから・・・」などと出場を端から諦めており、特に左腕の腕撓骨筋の炎症の状態からかなり悪く日常生活にも支障が出ていたことも考慮して、「今年の試合はオフにしよう!」と完全に決め込んでいたのです。そして「たまにはトレーニングから離れてみよう」という考えから、あくまでも観光中心の海外旅行まで予定していました。

ところがところが、そこで突如“ワールドゲームズ出場”の話がきたのです。私にとっては、突然おいしそうなニンジンを鼻先にくくりつけられたような状況だったわけで、思わず「出ます!」と答えてそのまま突っ走ることになったのでした(申し込んでいた旅行については結局キャンセルできず、「のんびり旅行」の内容であるはずの旅行は、わずかな自由時間を利用して無理矢理トレーニングジムに行くような”ドタバタ珍道中”に変わってしまいました。これについては月刊ボディビルディング2006年8月号のトレーニングインタビューのなかでも取り上げていただきました)。
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身体のケアを担当して下さった方には「止めたほうがよい!!」と反対され自分でも途中で「断念するべきだ」と何度か諦めかけたこともあったのですが、変な執念のようなものが、痛くて携帯電話も持てないはずの左手に重いダンベルを握らせ、なんとかワールドゲームズに出場。結果は9位に終わってしまったのですが・・・(自分では痛む左腕にも右と同じ負荷をかけ、ベストコンディションで臨もうと必死で努力したつもりだったのですが、ドイツの公園で試合前に撮ってもらったバックポーズの写真などを見ても、左の前腕から上腕の筋肉が落ちてしまっているのがわかります)。

そしてさらに、この年は福岡連盟から9月に行われる試合でのゲストポーズの依頼を頂いており、「どうせそこまで頑張るのだったら、全日本まで頑張ってしまおう!」と決心したのです。そこで、全日本選手権で初めて“連覇”というおのを経験したのでした。

ユニバース~初めてのミドル級への挑戦~

それまで連覇にはあまり感心を持ったことがなかったのですが、一度連覇をしてみるとまわりの人達の煽りも手伝って、「せっかくまた競技に復帰したのなら連覇くらいまで挑んでみようかしら」という気持ちが出てきました。

とはいうものの、“連覇し続ける”ということは思った以上に精神的に難しいもので、優勝を経験してしまった後は、「あの人を追い抜いてやろう!」などといった非常に身近で具体的な目標も持てない条件の下で、”試合に向けての苦行”を自分自身に強い続けなければならないわけで、ともすれば手を抜こうとしてしまう気持ちに対して“向上心をいかに持ち続けるか!?”が大きな課題となってきます。

そこでまず目標にしてみたのが未経験であるミドル級出場です。そもユニバースでの。私のそれまでの試合出場時の体重は、ピークコンディションで臨む全日本出場当日の朝、水が抜けた状態でだいたい59~60kg。ユニバースのミドル級は検量時に57kg未満でなければなりません。「渡航で浮腫むこともあるし、測定の機材によっては重く量れてしまうこともあるから58kgを切るくらいまでは落としておきなさい」という朝生さんからのアドバイスを参考にそれを目指したのですが、59kgを切ったあたりから見た目は確実に絞れてきているのに体重がピクリとも動いてくれない状況に陥ってしまい、最後は「もう筋量落としてでもどうにかせにゃ~!!」という感じの減量になってしまいました。いつもヘビー級出場だから分からなかったのですが、階級別にギリギリ絞れる体重で出ている選手は、常にこういう経験しているのですね・・・頭が下がります!!

なんとか体重を57kg代に乗せてスペインへ出発。そして検量当日は朝から海岸で走ったり風呂に入ったりして水抜きをして、自分の持って行った体重計では56.8kgまで落とすことができました。自分ではその体重計は少し重めに量れるものだと思い込んでいたので「これで絶対に大丈夫」と、高をくくって検量に臨んだのですが・・・。実際に検量用の体重計に乗って目にしたその数字は“57.6”。「・・・!?」

自分では余裕で臨んだつもりだったで数値を見た瞬間すぐに理解できなかったのですが、その体重ではミドル級に出られないことに気づいた次の瞬間、意識が遠のいて気絶寸前!検量係の丸顔のおっちゃんも、呆然としている私の様子に慌てたのか、ひどく心配そうに「大丈夫!大丈夫だよ!20分のリミットがあるから落としてもう一度来なさい!大丈夫かい?頑張って・・・!」。

「これまでのあの地獄のような減量は一体なんだったんだ!!こんなに細くなってヘビー級出場じゃ話にならない!」もう半べそパニック状態です。用意していたレインコートを着ながら会場の階段を転げ落ちるようにして降り、そのまま海岸へ行き、ひたすら走る走る・・・走って走って・・・。ところが水着を着たまま走ってしまったので水着が汗を吸い込んでいたのに気づき、再検量前にまたパニック!(今その状況を思い出すと思わず笑ってしまうのですが・・・このとき本人はマジ必死です!!)。

結局、監督してついてきて下さった大垣さんや選手の望月さん、三國さんに泣きついて水着の汗を絞ったり、ハンカチなどで拭いてもらったりして無事再検量でクリア。丸顔のおっちゃんと手を取り合って喜んでしまったのでした。しかし、こんなところで喜んでいたって仕方なかったのです。実は次の日の試合時間に合わせた調整までも失敗することに。

試合当日、「出場は午後4時くらいから」と聞いていたので、ホテルで身体を休めて午後から会場に向かおうか迷ったのですが、望月さんのフィットネス試合があるからということで午前中から会場入り。昼から調整に入るつもりで、その前にできるだけ検量疲れの回復をしようと塩分と水分を多めに取りながら横になっていました。

ところがどうもまわりの様子がおかしいのです。ボディビルの選手達がカラーをしっかり塗って・・・。なんと、もうパンプアップまで始めているではありませんか!慌てて連盟のスタッフらしき人をつかまえて聞いてみると「ボディビルは全て午前中にやる」とのこと!!化粧やヘアスタイルなんて気にしている暇などあるわけがなく、とにかく着替えて自分で塗れるところだけカラーを塗って・・・。でも焦っているからなのでしょうか、水抜き前の身体からは異常なほどの汗が出てカラーが全く塗れないのです。ついでに、ホテルの部屋で「過去最高のバリバリだ!」と大垣さんに見せびらかしたほど絞れていたはずの身体の表面はすっかり水を含み、カットなど見える状態ではありません。そして、出番を終えて帰ってきた望月さんをつかまえて途中からパンプアップを手伝ってもらったのですが、検量時の失敗で疲れきっていた身体は全く張ってきません。結果は今まで経験したなかで最低の結果。思わず大泣きしてしまった私でした。

ただ、それが未知への挑戦になったわけで、結果的には不甲斐ない結果でしかないのでしょうけれど、私にとっては“しておくべき良い経験”だったのだと思っています。次の年のユニバースは検量時61.2kgで出場しましたが、そのときのほうがカットも出ていたので、結局変な無理をしての出場は逆にユニバースで戦うには不利だということも分かりました。相手はあのゴツゴツした選手たちですからね・・・。自分本来のピークコンディションで臨まない限りは勝ち目など全くありません。
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しかしスペインまでの往復は地獄?拷問?辛いです!ミドルに惨敗したこの年は特に大変でした。フィットネスの選手の選抜大会が9月2日という遅い日程での開催だったのですが、ユニバース出発は9月19日です。すなわち渡航手続きを開始したのが出発のおよそ2週間前だったため、乗れる飛行機が1週間前になっても見つからず、旅行会社の方は大苦戦。結局取れたのは、イギリス経由などの遠回りの便。家を早朝6時前に出て、スペインのホテル到着が夜中の12時すぎ。時差が7時間だから、25時間以上かかったことになります。帰りもスペインのホテルを早朝5時に出発して、成田に到着が次の日の夜8時頃だったんじゃなかったかな?ホテル出発の前日も午前2時頃までレセプションパーティーに参加したので出発まで不眠。移動中も、機内では眠れないタイプの人間ですし、シートに1時間以上続けて座っていると右膝が腫れてしまうこともあって半分以上の時間は私は後ろで立って過ごしますのでほとんど眠っていません。試合惨敗の精神的疲労も重なっていましたからね、帰宅後は廃人状態です。身体はダルいし3日間くらいはヒドイ浮腫に、なんと帰宅して5日後に大阪で全日本選手権ですよ!!全日本出場は前日まで取り止めるべきかかなり悩んだのですが、気合がそうさせるのでしょうか?うまい具合に当日は疲労感が抜けて浮腫みもとれ、なんとかチャンピオンの座を守ることができたのでした。

08年の試合~クラス別前の悲劇~

07年は、私には珍しくトレーニングに大きく支障をきたす怪我もなかったのですが、08年はといえば特に前半、“身体の故障チャンピオン”を獲得しそうなほど、痛みや怪我とのバトルの年になってしまいました。

私の場合、ボディビルを始めたのも復帰を決意したのも常に怪我したことがキッカケであったわけですし、痛みや怪我とわざと戦うために出場してきたようなところがあるのですから、それは仕方ないし当たり前と思って取り組んでいるのですが・・・。ただそれが、今年は痛みだけですまされず、試合出場に差し障るような怪我を全日本クラス別の2週間前にドカンと一発かましてしまったのです。

その日のトレーニングの締めとしてクリーンの練習をしていたときに、60kgのバーベルを引き上げて肩に乗せたか乗せないかというその瞬間、右ひざをトンカチで「コーン!!」と突然思い切り叩かれたような感覚があり、すぐにバーベルを置いて思わず「だ、誰!?」と、まわりを見回しました。でも、考えてみればどんなに私と親しくても、またはどんなに私を嫌っていたとしても、トレーニングの最中に私の膝をふざけてトンカチで叩けるような勇気のある輩などいようはずはありません(たぶん顔面に膝蹴りです)。昔、空手の練習中に半月板を割ったときのことを思い出し「これ、やったかも!!」さほど痛みはないのですが膝にはイヤな違和感があり、だんだん腫れてきているのは分かります。すぐにトレーニングを止めてケア担当の先生のところへ向かったのですが、着いたときにはもう右足を床に着けないほどの痛みと腫れ。症状としては「後十字靭帯損傷&残っている側の半月板も割っている(またはもうすでに割れていた)可能性あり」。クラス別まであと2週間だというのに!!

それから1週間は歩くどころか膝が曲がらないため自転車も乗れず、移動は全て車を使うしかないので代謝は下がる一方。これでは膝の症状が治まってポージングができるようになったとしても、観客をガッカリさせてしまうようなコンディションでの出場を覚悟しなければなりません。しかし、出場は絶対にしようと決意していたのでした。そこで迷えば全日本出場も心が萎えて欠場しそうな気がしたからです。結局足を引きずりながらの出場でしたが、フリーポーズは能の「高砂」を用いたポージングだったこともあり「すり足」ということにしてごまかし、なんとかこのハプニングを乗り越え、辛うじて優勝することができたのでした。
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実は怪我をする前に一旦、私は申し込んでしまった出場をキャンセルしようと福岡連盟に電話をかけています。私としては去年よりも改善し始めているとの確信がある部位を「世界大会で他選手と並んだときにどう評価されるか?」試してみたい気持ちがあり、女子ユニバースの選抜を兼ねている全日本クラス別選手権に申し込んだのですが、その後に全日本選手権の開催日程がユニバースと重なる日程に変更となったのです。全日本出場を決意していた私にとってはクラス別に出る意味も必要性もなくなってしまいました。コンディションづくりのことやハワイに行って何泊か遊んでこられるくらいの旅費などの負担を考え、出場のキャンセルを申し出たのですが・・・。

今年のクラス別にはアジア選手権に出る選手も日程の関係から出場しないとのこと。せっかくの全日本級の大会なのに女子のトップ3が出ないことになります。福岡連盟の方々も私の出場申し込みに「ホッとしていたところだった」とのことで、それならば出場しようとキャンセルを撤回したのです。

ただ、最近全日本クラス別を行う趣旨が何だか見えなくなってきてしまった気がします。本来は国際大会の先発大会としての意味合いが強かったかと思いますが、ほとんどの国際大会の選手をこの大会の前に選抜するようになってきているので、大きな大会で優勝している選手たちにとっては、特に何のメリットも意味合いもなく、ただただ負担になっているだけの試合になってしまっている気がします。あり方や必要性をもう一度見直してもらえないかと思うのですが・・・。

08全日本に向けて

残るメインは全日本一本ですが、今回のフリーポーズを作り上げるまでにはいつも以上に産みの苦しみを味わいました。前年は能、その前は歌舞伎をテーマにしてのフリーポーズで高い評価をいただくことができたのですが、だからといって3年続けて和テイストの選曲になってくると「ああ、また“そっち系”の曲でのフリーね」なんて言われかねません。そこから脱却し、且つなにか芸術的な作品をつくるためには、一体どんな曲にすればよいのだろうか?ということで、まず選曲までに1ヶ月かかりました。だというのに選んだその曲は全くポージング向きではない。暗い暗~い曲。映画ダンサー・イン・ザ・ダークの「I've seen it all」という、目が見えなくなる病気を背負った女性が自分を気持ちを歌った曲で、途中に「私はもう全てを見たの・・・親友に殺されてしまった人もね」なんてフレーズまで入っている曲です。

歌詞付きの作品を使っているのにその内容を無視したポージングをしてしまったら、自分が常に求めようとしている次元のものと全くかけ離れてしまうし、だからといって歌詞に合わせて「大きな栗の木の下で・・・」をしてしまったら幼稚園のお遊戯になってしまいます。

映画を観て主人公の気持ちの浮き沈みだとかと想像して、そういう世界にひたすら浸って・・・。ポージング練習自体はゴールドジムノース東京にご協力いただきスタジオをお借りしたり、比較的安い料金で借りられる鏡付きの会議室を見つけて利用したりしながら、2か月かけてどうにかこうにか試合の数日前にやっと作り上げたのでした。

ところで、コンディションの面はどんなだったかと言えば・・・?昨年は試合直前の過酷なスペインまでの往来もありませんし、世界選手権にピークを合わせた後の全日本というわけではありません。調整自体は坦々と全日本に合わせることができたので、前年や前々年に比べればコンディションづくりが難しいことはなかったので「今年はコンディション良かったんじゃない!?」などと言っていただくことまでできました。

ただし、実はこのときも3日目の夕方から不覚にもひどい風邪で熱を出して寝込んでしまい、当日もまだ微熱は続いて狭~い控室でゴホゴホ咳をし、まわりの方々には大変な迷惑をかけてしまったという状況だったのですが(相馬さんごめんなさい!風邪移らなかったですか!?)、逆にこの風邪が試合前に身体を十分に休ませる状況を作り出し、結果的には良いコンディションづくりの後押しにもなったのかもしれません。
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ボディビルに求められていることって?“筋量の多さ”それだけで見れば、特に女性の場合は他の競技の選手のなかにだってボディビルダー以上の筋量を持っている人なんて数え切れないほどいるでしょう。実をいうと、空手をやっていたころの私は「柔道だとかレスリングだとかの筋量の多い選手が体脂肪を落としてボディビルの試合に出れば、すぐに勝っちゃうじゃないの!?」なんて安易に考え、ボディビルを見くびっていた人間の一人でした。実際にボディビルをやったことのない人は、多かれ少なかれそんなふうに考えるのではないでしょうか?それがボディビルをメジャーにさせない、とっても小さいけれど核心にある重要な要素にもなっている気がします。

じゃあ、他競技の筋量豊富な選手達にさえ「ボディビルダーってすごい!」と言わしめるものって一体何なのかって・・・、それは身体操作のテクニックなのではないでしょうか?ポージング技術や、自分がターゲットにしている筋肉のみを的確に且つ高強度をかけても逃さずに効かせられるトレーニング技術(特に完全な差をつけられるのはテクニックが大きく関わる筋肉、例えば広背筋下部だと私は思いますが?)

そして、女子ボディビルが一般的にも“憧れられるスポーツ”に発展していくためには、それに加えてポージングの芸術性をもっともっと全ての選手が追求して競い合うことも重要になってくるのではないかと思っています。

例えばフリーポーズの芸術性についてですが、私は“美しい踊り”を追求しろと言っているわけではありません。そんなものを求めたってバレエやダンスを専門にしている方々の足元にさえ及ぶことはないでしょう。

そうではなくて身体操作というボディビルダーが誇るべきテクニックを駆使して筋肉の大きさや各筋肉の動きを確実に見せつつ、一つの芸術作品として人を感動させたり惹きつけたりするものを求めていくこと。そしてまた、美術で人物像をデッサンする場合と一緒で、誰がみても“最も美しい”と感じる身体の軸やその軸に対する身体のパーツの配置だとか顔の向きだとか足先手先の向きだとかがあるわけですから、組み込まれたポーズの一つひとつにそうした美的センスの良さを求めていくこと。

そういうものを求めようとする、ボディビル以外の様々な芸術的なもの、例えばバレエやらダンスやら能楽やらオペラやら芸術性の高い他競技やら・・・。そういうものに興味を持ってみることも大切になってくるのではないかと思いますし、様々な絵画や彫刻を鑑賞してセンスを磨く必要性も出てくるのかもしれません。

また、こうしたボディビルの芸術性などを全面に出した良い意味での宣伝があまりできていない気がしています。ボディビルは、本気で取り組もうとすればかなり多くのことを犠牲にしなければならない競技です。色んな時間を割いて試合出場のためにひたすら努力して・・・おまけに「ストレス発散のために美味しいものを食べよう!」も禁止しなければいけない競技です。でもそんな過酷なことをやっているわりに報われない競技だなぁと思うことが多々あります。

それだけでもメジャーになれない要素が多いのに、ついでに“良いイメージ”があまり伝わっていないのでは、若い女性が「私もいつかボディビルのチャンピオンになってやろう!」なんて目標を立てるわけがありません。ボディビルに触れたことのない方々にもボディビルの良さを知ってもらう機会を増やすような工夫をしていかなければ競技人口は増えないでしょうし、たとえ”ボディビルダーとしての非常に優れた才能を持ちボディビル競技を高い次元に引き上げる力がある若い逸材”が世の中のどこかに潜んでいても、その人物がボディビルに興味を示してくれるチャンスなど皆無に等しくなってしまうでしょう。

宣伝について“良い意味での”という前提に敢えて私が書くのは、それでなくとも偏見をもたれやすい競技なのにメディア出演によってそれをまた”あおる”ような対応をすべきではないと思うのです。ボディビルが“変な意味”でメジャーになっても本当の意味で競技人口が増えて発展する方向には向いていきません。出演を安易に引き受けるのではなく、内容がボディビルの良い意味での宣伝になるかどうか判断し、ボディビルを良い意味で広めるための宣伝役として、「茶化そうとする人がいたら黙らせてやろう!“ボディビルって素晴らしい!私もボディビルダーを目指してみたい!”と言わせてやろう!」くらいの気持ちでカメラの前で常に毅然として立つように心がけることが必要なのではないでしょうか?そうしていくことがボディビルの競技人口や質の向上のキッカケになるのでしょうし、後に続く人達もボディビルという競技をやっていることに強い誇りを持つことができると思うのです。

最後に、冒頭で書いた「西本さん、何連覇まで続けるつもり?」についてですが・・・。まず私から言わせてもらいたいのは“そんなに簡単に連覇ができるものだなんて思わないでくれ!!」ということです。わたしがどこか少しでも手を抜くようなことをしようものなら優勝は難しくなるというのは分かっています。痛かろうか、辛かろうが、それらを無視して自分の理想に近づこうと一点だけを見て走り続けた結果が5連覇だったというだけの話なのです。「来年はどうするつもり?」という質問として受け取るならば、来年はワールドゲームズ開催の年ですから、もし選抜していただけるのであればもう一度だけチャレンジしてみたいという強い希望は持っており、そこでの結果によってその先の方向を決めてみてもよいかと思っています。

筋量・バランス・ポージングセンス全てにおいて「ああ、この人には完敗です!!」と感じさせられて、そしてこの競技から去ることができれば、自分がボディビルを続けてきた意味が見えるような気がするのですが・・・。
  • 西本朱希(にしもと・あき)
    東京 1967年1月1日生
    身長169cm・体重60kg ボ歴18年

    所属・ゴールドジム・イースト東京
    99、04、05、06、07、08年ミス日本優勝

[ 月刊ボディビルディング 2009年3月号 ]

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