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元ボディビルダー・現砲丸投げ世界ランカー 池田富雄

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池田富雄(いけだ・とみお) 1962年1月12日(47歳)/兵庫県神戸市出身、加古川市在住 身長173cm、体重88~90k9(ピーク110kg) 兵庫県職員・土木事務所勤務/妻、大学生長男(陸上三段跳選手21歳)、専門学校生長女(18歳) タイトル: ボディビル94年NBBF全日本トールクラス優勝 96年~99年NBBF全日本優勝(4連覇) 94~95年NBBF広島オープン優勝 1994年NBBF愛知オープン優勝、 96年PCナショナルズ4位 1997年NBBFミスターヘラクレスチャンピオンシップス優勝 1996年NGAナチュラルチャンピオンシップス世界大会ミドル級優勝 陸上競技1985年大阪選手権優勝1987年兵庫選手権優勝 2002年~03年05年~08年全日本マスターズ優勝 2007年砲丸投げマスターズ世界ランク21位 2008年兵庫選手権3位同年近畿選手権6位 ストロング安田(本名・安田強・やすだつよし) 1964年京都府福知山市出身 身長171cm、体重84kg、京都府在住、既婚―女一男の家族4人、血液型A、趣味は筋トレと読書、自称日本一のノーチラスマニア。 地元の高校卒業後に半導体メーカーに就職し28歳でボディビル留学と称して米国ロサンゼルスに移住。 その際、コンテストビルダーとしても活動の場を日本からアメリカに移す。 渡米後に故マイク・メンツァーを師と仰ぎ、ヘビーデューティートレーニングの直接指導を受ける。 2001年日本に帰国しSTRONG株式会社(http://www.strongcompany.co.jp)代表取締役として会社経営に邁進し現在に至る。 インタビュー:ストロング安田[ 月刊ボディビルディング 2009年6月号 ]
掲載日:2017.06.19

STRONG安田の筋トレ最高! 各界に広げよう筋トレ “WA・輪・和” VOL.5

記事画像1
今日では各種スポーツ競技での筋トレの重要性や必然性を語る事はもはや常識となり、筋トレがパフォーマンスを上げる土台としての位置を確立したといえるのではないでしょうか。その証拠に、第一線で活躍する選手から健康を意識してジム通いをする老若男女問わず、筋トレの重要さについて普通に話題に上ることが多くなってきているようです。

そうそうこの記事を書いている時にゴルフ界のプリンス石川遼選手が雪山でクロスカントリーをするシーンが何度も何度も流れ、本人曰く「昨年初めて取り入れたら、昨シーズン調子が良く毎年恒例に・・・」と発言していました。クロスカントリーでは、足元が不安定な雪山で下半身のスキー板と上半身のストックを繋げる、言い換えれば両方の足裏と手の平の末端を脳神経で交互に連動させた動作が、筋トレとしてゴルフ競技での基礎体力を造り役立つという事です。

今回は、足裏から手の平への力の連動で7.3kgの鉄球を遠くへ投げる競技“砲丸投げ”の現役選手として活躍し続け、世界ランカーでもあるアスリート池田富雄さんを紹介します。

インタビュー

記事画像2
STRONG安田(以下ST)‥流石、現役のアスリートですね!外見からは47歳という年齢を全く感じさせません。

池田富雄(以下池田)‥ありがとうございます。

ST‥陸上競技はいつ頃から始められたのですか?

池田‥中学3年から始めました。ちなみに小学校時代はブヨブヨと太っていました。

ST‥今の容姿からは全く想像できませんね!当時のスポーツ歴は?

池田‥父親の影響で柔道をやっていましたが、中一ではバレーボール、中二でバスケットボール、中三では陸上部でした。

ST ‥柔道という個人競技から団体スポーツを経て個人競技の投擲なのですね。

池田‥高校でも陸上部に入りましたが、とにかくむちゃくちゃ走らすクラブで、22人いた新入部員も一気に8名と半分以下にまで減りました。それに団体競技になるのでしょうか、駅伝の選手もしていました。

ST ‥むちゃくちゃって言っても陸上部として走るのは当然なのではないですか?

池田‥それが伝統というのでしょうか。当時の先輩はしごきで何人の新入部員が残るか試していたようです。僕なんか(投擲)なのになんでこんなに走らんといけないのかなと思いました。でも投擲は走り込みが必要不可欠と思ってます。なにせ基礎体力を養うには、走り込みと筋トレと考えてますので。

ST‥特に上級生のしごきは強烈ですよね。私の高校時代もヒンズースクワット1000回や20mの走り込みと気が遠くなるようなメニューを先輩からさらりと強要され、これでもかっていうぐらい根性が鍛えられました。

池田‥高校1年のとき、自分の通っていた高校の近くに高取山という山があり片道約1500mある階段を3往復し、これで終わりかと思ったら片道3mある須磨海岸まで行き、砂浜ダッシュ100m×10本か海岸近くにある妙法寺公園では500m×10本、肩車、手押し車、背負って走ったりと3ヵ月続けました。

ST‥それが青春ですよね!砂浜や階段を恨みそうですね(笑)。

池田‥入部当初は177cmで75kgあった体重も70kgまで一気に減りました。根性=情熱とでも言うのでしょうか、自分でもよくやったと思います。クラブを辞める事が悔しくて根性で遣り抜きました。

ST ‥正に継続は力なりですよね。ウェイトトレーニング=筋トレはいつから始めたのですか?

池田‥筋トレを始めたというよりも、初めてバーベルを握った時期というのが中学三年の頃で、クリーンで60kgを挙げたのを覚えています。本格的な筋トレといえるのかどうかわかりませんが、冬季トレーニングの一環としてサーキットトレーニングの中に軽いバーベルでウェイトトレーニングも取り入れるようになりました。高校2年の冬だったかな?近所の人から譲ってもらった40~50kgのバーベルで自宅で、ベンチプレスやスクワットをやり始めました。

ST‥それらの鍛錬が今のアスリート池田さんの基礎となるのですね!その後の進路は?
現在の池田氏(左)と著者

現在の池田氏(左)と著者

池田‥それが恥ずかしい話、大学受験に失敗し、兄が国鉄に勤務していたこともあって、国鉄職員になりました。

ST‥確か私達の年齢(昭和39年生まれ)の頃に国鉄の採用がなくなり、民営化に突入したのですよね!

池田‥国鉄では6年間勤務しました。最初の3年は朝霧駅と西明石駅で飯炊きや便所掃除など雑用ばかりの下積みでつらい時期がありました。先輩の夜食づくりをしていて、プラットホーム監視の時間に一分遅れて、どやされたことがあります。国鉄は時間に厳しい職場でした。また、ちゃんとそうじができていないとか、焼いたゴミの灰が始末できていないとか、作った飯がまずいとか、風呂がぬるいやら熱いやら、先輩に対する気配りがなっていないとかで、怒られない日がないくらいでしたね(笑)。そんな時期を経て22歳のときに鉄道公安職員として大阪駅と京橋駅で勤務しました。在職中は、陸上部があったので実業団陸上にも出場していました。

ST‥その後、民営化ですね?

池田‥民営化と同時に鉄道公安職員は、警察官の試験を強制的に受験することになってました。民営化になる一年前、当時24歳だったかな、結婚していたのですが、警察官になる事に対し殉職の危険などから妻(家族)の反対もあり県職員の道に進みました。

ST ‥JBBFトップビルダーとして活躍する今中直博選手も大阪府警で一時期鉄道警察だったと記憶しています。

池田‥実科や逮捕術を学び、スリや痴漢、不正乗車などを検挙もしました。

ST‥私は決して犯罪者ではないのですが、警察と聞くだけで何故だかドキッとします。警察官は怖い存在でなければいけないですよね。

池田‥そりゃ~治安を守り、犯罪者を検挙する仕事ですから怖くて当然ですね。でも、今は僕も警察官を見るとドキッとします(笑)。

ST‥その後も筋トレは続けたのですか?

池田‥それが20歳の頃に自宅で酔っ払っいるのに、調子に乗って75kgのバーベルを持ち上げた瞬間、後ろに倒れバーで顔面を強打し、唇はちぎれかかるわ左の前歯6本と歯槽骨までボロボロになる怪我をしてしまいました。

ST‥えっえ~!頭で想像しただけでも痛過ぎですね。

池田‥酔っ払っていて麻酔も効かないからということで、麻酔なしで唇を縫われました。翌日も出血が酷く、歯医者で手術を受け2時間も掛かりました。

ST‥怖くてもうバーベルを握れなくなるのではないですか?

池田‥はい。1年間はバーベルがトラウマになってしまいました。今で言うPTSDでしょうか。当時、治療に通った歯医者に歯科助手として勤めていたのが今の家内です。

ST‥運命の出会いなのですね!

池田‥以前に付き合っていて一度別れたのですが、その彼女を頼って医者通いをしました。怪我のお陰で寄りが戻りました(笑)

ST‥まるで福山雅治か武田鉄也のドラマのような話ですね。(笑)。

池田‥その後、22歳の頃に自宅近所の加古川で今でもお世話になっているトレーニングジム(オリンピアジム)ができたとのことで、迷わずそのジムに入会しました。

ST‥1年もの間見るのも嫌だったバーベルに対する恐怖をどうやって克服されたのですか?
池田‥ 筋トレをしないことで記録が低下してきました。せっかく13mを越えるようになったのに一時期には11m台まで記録が落ち込みました。投擲は、走り込みや投げ込みだけでは記録が伸びないと感じました。このままではいけないと思い、初心に帰ってベンチプレスを30kgから始めました。するとだんだん重量が上がってきたのと同時に、記録もあがり、昭和59年に兵庫選手権で13m43で2位になり、昭和61年には大阪選手権で13m72で優勝、平成元年の兵庫選手権で初めて14mを超える14m06を投げ優勝することができました。その年には当時の自己最高の14m21まで記録を伸ばすことができましたが、右ハムストリングスを切ってしまって、記録は伸びなくなってしまいました。当時の体重は約110kg近くもあって、健康診断で高脂血症、高血圧になり、ダイエットせざるを得なくなって、ボディビルを始めました。
体重が110kgあった結婚式当日(24歳)

体重が110kgあった結婚式当日(24歳)

ST‥その後、ボディビルダーとしての活躍は読者の皆さんの記憶に残っていると思いますが、現在の砲丸投げの選手としてのトレーニングをお聞かせ下さい。

池田‥そうですね41歳までは高重量でのトレーニングを好んでやっていましたが、厄年の42歳で椎間板ヘルニア、44歳で頚椎のヘルニアに悩まされました。

ST‥まさに厄年ですね!

池田‥手や足が痺れ歩くのも苦痛なほどでしたが、何とかしなければと体をいたわりながら体をいじめることをモットーにインナーマッスルを鍛えることと、バランスを重視したトレーニングを中心に行うようになりました。加齢とともに神経伝達が鈍くなってくるのは避けられません。アウターマッスルばっかり鍛えていると記録に繋がらなくなってくるし、無理に高重量を挙げようとするから怪我もしやすくなります。また、筋トレが調子いいときは、逆に記録が悪いときが多いです。だから、アウターマッスルばっかり鍛えても肝心な神経伝達ができてないのだと感じました。例えば、スクワットをすると腰が痛くなってしまう。痛くなるからといってスクワットをしないと筋力が衰えてしまうという錯覚をしてしまう。そういう心理に駆られてしまうと、無理にスクワットをやってしまう。するとかえって記録が悪くなってしまい体にも悪影響を起こしてしまいます。でも、足を鍛えなければ記録は出ない。となるとどうすれば腰に負担をかけずに足をしっかり鍛えられるのかを考えるようになります。僕の場合、バランスボールとバランスボードを使って主に大腰筋を鍛えることと、高重量でレッグプレスもやってますが、メインはワンレッグプレスやドンキーワンレッグスクワットと片足ずつ行ってます。片足ずつ行うことによって、神経伝達ができるようになったのか、それが記録に結びついているようですね。

ST‥私の知る限り永年現役で活躍されるスポーツ選手は身体のケアやストレッチ、コアトレを重要視されていますよね。

池田‥まさに!それが体をいたわりながら体をいじめるトレーニングだと思います。コンテストビルダー時代に渡辺実さんから体のケアやストレッチの重要性、コアトレの指導を受けたことがあります。特に、背中のアーチを造ることや体幹部を鍛えることは競技スポーツをしていく上で必要不可欠であることを教えてもらいました。

ST‥具体的には?

池田‥ストレッチボールを用い背中を丸めて反ったり、肩甲骨を動かすようにしました。42歳までは力任せに鍛えていて骨にとても負担がかかっていました。言い換えれば骨がダイエット(やせ衰え)し弱っていたのだと思います。

ST‥以前、本誌で連載していた渡辺実さんの記事は人気がありましたよね!

池田‥コンテストビルダー時代のトレーニングについて、ベーシックでマンネリ化していた僕にとって、彼のトレーニング理論は新鮮でかつ衝撃的でした。彼はとある大学のラグビー部のトレーニングコーチもしていて、その大学に連れてもらったことがあって、トレーニングや補強をやっているところを見せてもらったことがあります。こんなやり方があったのか!」と目からウロコでした。主に行っていたことと言えば補強がメインでした。具体的な例を言うとほんの一部ですが、タオルを使った大臀筋の補強とか、シャフトを使って左右全く違う動きをしながら体軸を安定させるトレーニングをメインにしました。体にやさしく、しっかり鍛えられるトレーニングでした.それをヒントに自分に合うようアレンジをしてみました。
いつも練習している加古川競技場にて

いつも練習している加古川競技場にて

そのおかげで、ボディビルコンテスト出場を休んだ38歳のときに出場した加古川選手権で5.4kgの砲丸ですが15m25を投げ、まだ砲丸が押せると思い、兵庫選手権では13m37で2位になることができ、陸上競技に復帰を決意しました。平成14年の兵庫選手権では40歳で自己最高の14m25(2位)を投げることができました。その後も20歳台の記録を維持しています。全日本マスターズのM40歳クラス(40歳以上44歳以下)に初めて出場した40歳のとき、14m09の大会新記録を出しました。しかしその後ボディビル時代に無理した付けがきたのか、ヘルニアに悩まされ記録が低下しました。そこで、ヘルニアを克服するにはバランスを重視したトレーニングしかないと思い、自分に合うようトレーニングを工大してヘルニアを克服することができ、M40クラスでは4回優勝することができました。そして、投げ方のフォームも変えました。それまでは、構えの右足を軸として左足を後ろに蹴って投げるグライド投法から、逆足の左足を構えとし、右足を蹴って左右クロスさせて投げるステップバック投法に変えました。すると体が新しい部品に変えたようになりました。そのおかげでもうこれといった障害がなくなり、今はM45(45歳以上49歳以下)のクラスですが、記録も13m後半まで記録を戻すことができ、2年連続優勝しています。また、マスターズ世界ランキングにも21位にランクされました。昨年の兵庫選手権では6年ぶりに14mを越える14m07を投げ3位に人りました。この記録はM45クラスの日本記録にあと5センチに迫る記録でした。またその年の近畿選手権でも13m79で6位に人賞することができました。ちなみに8位までの人賞者は僕を除いて全員大学生でした。
兵庫投榔倶楽部の皆さん。下列左端が鉄球師匠こと船引さん、上列左から4番目が池田氏の息子さん

兵庫投榔倶楽部の皆さん。下列左端が鉄球師匠こと船引さん、上列左から4番目が池田氏の息子さん

ST‥現在のトレーニングルーティーンをお聞かせ下さい。

池田‥オフシーズンは筋トレ重視をし、シーズンは投げ込みと走り込みを中心に行っています。幸い今は職場が地元なので、昼休みもトレーニングや練習にうまく活用できています。

・月曜日‥昼休み筋トレ(胸、体幹部)夜筋トレ(足)オン、オフ共

・火曜日‥休み(オンは気が向いたら投げてます)

・水曜日‥オン昼休み筋トレ(背中)と、夜は走り込みと投げ込みオフは筋トレのみ

・木曜日‥オンは昼休み投げ込みオフは休み

・金曜日‥昼休み筋トレ(胸、腕)

・土曜日‥走り込み投げ込み

・日曜日‥走り込み投げ込み

毎朝、ストレッチとバランスボールとバランスボードを使った補強(主に体幹部)をしています。

ST‥陸上競技におけるメンター(師匠)は存在しますか?

池田‥鉄球師匠こと船引規正さんといい、人生の師匠でもあります。僕が17歳だった頃、当時大学生だった船引さんから声をかけて頂きました。それから30年来家族ぐるみでお付き合いさせて頂いています。実は息子まで親子2代でお世話になっています。

ST‥鉄球師匠とはその名前から砲丸投げの選手なのですか?

池田‥はいそうです。今年の1月にマスターズ50歳クラスのアジアチャンピオンになられました。本業は神戸市内の高校の教師ですが、現在は砲丸の技術向上を目指すため教師を休職し兵庫教育大学の大学院に行かれてます。現在は船引さんの他、兵庫県内の【投榔】好きが集まって4年前から兵庫投擲倶楽部というクラブを作って月1回合同練習をしています。年齢も20歳の若い方から最高79歳の女性の方もおられ、僕もその所属から大会に出場しています。この倶楽部の発足で兵庫の【投郷)が強くなってきました。兵庫の選手は全日本マスターズの優勝者が多いですよ。

ST‥池田さんの下半身の太さは陸上競技での走り込み、上半身の発達は投擲で鍛えられたと思うのですが、遺伝的なものも大きいのではないですか?

池田‥そうですね4年前に他界した父は若いとき柔道をやっていて筋肉質で、母親は魚屋の娘で骨格が良かったです。それでも首や腰のヘルニアで177.5cmあった身長が173cmと4.5cm縮みました。

ST‥え~!そんな事ってあるんですね。息子さんも大学で陸上競技をされているという事は池田さんの遺伝子を受け継がれたのですね!

池田‥そうなりますかね?まあ、跳躍の選手にしては脚が太いほうかもれません。スクワットは200kg挙げたこともあるようですから。しかし、大学1年のとき、半月板を痛めて手術をしてからそんな高重量はしなくなり、クリーンを中心に行っているようです。110kg挙げるみたいです。現在、息子は千葉県勝浦市にある国際武道大学に通っています。昨年の関東インカレで大学代表として三段跳びに出場したのですが、初めての大舞台ということもあって硬くなってしまい、残念ながらいい結果をだすことができず予選落ちしてしまいました。今年は4年で大学最後の年になるので、入賞するつもりで頑張っています。日標は大きくもって全日本インカレのA標準の15m50を跳びたいと言っています。大学内で定期的に競技会が開催されてますが、僕も時々砲丸投げに出場させてもらってます。大学の先生方から言われたのですが「今まで親が子供の応援に来ることはあったが、競技会に出場して、しかも学生と互角に戦う親なんてみたことがない」と言われてしまいました(笑)。一昨年陸上部の監督さんから筋トレ講習をしてほしいとのオファーがあって行ったこともありました。体育大学で講師をしたことは自分にとって一生の思い出ですね。

ST‥ 私の記憶ではNBBFからJPCと2つのボディビル連盟で活躍され、残すはJBBFの舞台ですか?

池田‥もう一度挑戦してみたいという気持ちはありますが、現時点では何ともいえませんね!今は砲丸投げの世界マスターズに出場し表彰台に上りたいです。その為にはもちろん家内(家族)の協力は必要不可欠です。コンテストビルダー時代は色々と迷惑をかけてしまいました。食事では子供と別メニューを作ってもらったり、当時、子供も幼かったので、「もっと子供の面倒をみてほしい」としょっちゅう文句を言われ喧嘩も多かったです。僕は一生懸命育児に協力していたつもりでしたが家内にしてみれば、物足りなかったのでしょうね。喧嘩が絶えなかったのは我が家だけかと思ったら、僕の知っている親しいボディビルダーから話を聞いても子供が幼いうちは「喧嘩が絶えなかった」とよく聞いてます。よくよく考えてみれば、子供が幼い時、奥さんは子供にかかりっきりで自由が利かない。あくまでも趣味でやっていることだから、自分だけ好きなことをしてという気持ちになるのだと思いました。せっかくいい才能をもっているのにそのような都合でやめてしまったもったいない選手は僕の知る限りでボディビルに限らず、陸上競技の選手でも結構います。僕の場合、喧嘩をしながら時間も経過し子供も成人してしまい、今はあきれているのか、昔ほど喧嘩しなくなりましたね(笑)。でも、ここまでボディビルや陸上をやらしてもらっている家内には感謝しています。家内のお陰で今の自分があると思ってます。
記事画像7
ST‥最後の質問ですが池田さんにとって筋トレとは何ですか?

池田‥筋トレをしているから今の自分がある。競技をしていくうえで筋トレは必要不可欠。そして、記録を維持していくためには家族を含めいろいろな方から支えを受けている。更に筋トレをしているからストレス発散もでき仕事もはかどっている。まさに筋トレは自分の人生そのもの。また、風邪をひきそうになったり、体調がすぐれなくなったら筋トレ。自分にとって筋トレは薬でもあるんですね。筋トレをしないと身体がフワフワして地に足が着かなくなります。自分にとって筋トレがない生活は考えられないのですが自らの筋肉と対話しながら一生続けたいものです。

最後に:

両頬にざっくり刻み込まれた2本の深い笑い跛から仕事やトレーニングでの苦労を跳ね飛ばしてきた男の年輪を感じました。取材が終わり帰りの道中で私自身が中学の体育の授業で触れた冷たくてずしりと重い鉄球の感触を思い出し、鉄アレイが恋しくり、錘マニアの私は筋トレが遣りたいという不思議な衝動に駆られました。確かプレートや鉄アレイは鋳造という手法で造られ、砲丸投げの鉄球は削り出しだと思うのですが、錘マニアの私は砲丸投げの鉄球をコレクションに追加する事を密かに誓ったのでした。
マックスジム木下代表推薦文
私が池田さんを初めて知ったのは今から20年前で、ジムに通い始めて直ぐの頃でした。
第―印象は今までに見た事も無い分厚い胸板に蛙のような太い脚“誰なんだこの人は!”と今でもその時の衝撃は私の瞼にはっきりと焼き付いています。そして、何と言っても池田さんの)凄いところはボディビルのチャンピオンでもあり、現在もマスターズ砲丸投げの現役選手として活躍されている事です。また、私の知る池田さんは、常に前向きで必ず目標を掲げて地道な努力を欠かせません。

更に、ジム内では何時も笑顔で愛想良くジム内で他の会員さんとコミュニケーションを取られています。こんな池田さんですからいつまでも選手として第一線で活躍され、ウェイトトレーニングの大切さを陸上競技の方々に広めて行って欲しいと願います。
(スポーツジムMAXGYMスタッフ日記:https://ameblo.jp/maxgym/)
  • 池田富雄(いけだ・とみお)
    1962年1月12日(47歳)/兵庫県神戸市出身、加古川市在住
    身長173cm、体重88~90k9(ピーク110kg)
    兵庫県職員・土木事務所勤務/妻、大学生長男(陸上三段跳選手21歳)、専門学校生長女(18歳)
    タイトル:
    ボディビル94年NBBF全日本トールクラス優勝
    96年~99年NBBF全日本優勝(4連覇)
    94~95年NBBF広島オープン優勝
    1994年NBBF愛知オープン優勝、
    96年PCナショナルズ4位
    1997年NBBFミスターヘラクレスチャンピオンシップス優勝
    1996年NGAナチュラルチャンピオンシップス世界大会ミドル級優勝
    陸上競技1985年大阪選手権優勝1987年兵庫選手権優勝
    2002年~03年05年~08年全日本マスターズ優勝
    2007年砲丸投げマスターズ世界ランク21位
    2008年兵庫選手権3位同年近畿選手権6位

  • ストロング安田(本名・安田強・やすだつよし)
    1964年京都府福知山市出身
    身長171cm、体重84kg、京都府在住、既婚―女一男の家族4人、血液型A、趣味は筋トレと読書、自称日本一のノーチラスマニア。
    地元の高校卒業後に半導体メーカーに就職し28歳でボディビル留学と称して米国ロサンゼルスに移住。
    その際、コンテストビルダーとしても活動の場を日本からアメリカに移す。
    渡米後に故マイク・メンツァーを師と仰ぎ、ヘビーデューティートレーニングの直接指導を受ける。
    2001年日本に帰国しSTRONG株式会社(http://www.strongcompany.co.jp)代表取締役として会社経営に邁進し現在に至る。

インタビュー:
ストロング安田
[ 月刊ボディビルディング 2009年6月号 ]

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