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SPOTLIGHT 2012年女子東日本大会優勝者 愛宕珠子

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[ 月刊ボディビルディング 2013年6月号 ]
掲載日:2017.08.25
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結婚、出産、育児のため自ら幕を引いた

 ジャパンオープン優勝の実績もある日比野珠子選手が引退したときには驚いた人も多かった。その端正なルックスと実力からファンも多かったし、何より多くの人が、まだまだ上を目指せる選手と感じていたからだ。

 引退の理由は古い言い方でいうと寿退職だった。日比野あらため愛宕珠子選手は言う。

「結婚が決まり、とにかく子どもをもちたい、出産しようと決めたんです」ただ、ボディビルダーに限らず、結婚しても現役を続ける選手はほかのスポーツでもたくさんいる。そのあたりの疑問を率直にぶつけてみた。

「なぜすっぱりやめたかということですよね。一つにはやはりビルダーとしての生活を続けるのがつらくなったのかもしれません。減量など、やはり厳しい部分がありますからね。もう一つは仕事をやめたことも大きいです。私は、きちんと仕事をこなせる身体をつくるためにボディビルにとりくんでいたわけです。仕事とトレーニングがセットになっていたのです」

 珠子選手の職業は、エアロビクス・インストラクターだ。人の前に立ち躍動し、健康づくりを伝える人間として、まずは自分自身が人から憧れられるボディやマインドを持つことを厳しく課してきた。コンテストビルダーとして頑張ることが、〝エアロビクスインストラクターとしての自分〟を保ち成長させるのに役立っていたのだ。

「そのときの私には、子どもをもってなお、ビルダーとして頑張るというイメージがまったくなかったですね。誤解を招く言い方になるかもしれませんが、40歳を過ぎてビキニを着ることなどできないとハナから思っていました。若くて美しくあらなければできないという思いこみがあったのかも」

 そんなこんなで、周囲に惜しまれつつ引退した珠子さんであったのだ。当時は、主婦生活を満喫しよう! と考えていた。

 とはいえ、よくもあしくも現実は思ったようには進まないものだ。結婚後、しばらくして念願の第一子を授かり、長女を出産した。喜びに包まれたものの、それとは別にどこか満たされない毎日が続く。

「子どもが生まれてハッピーな反面、家の中だけにいることは私にとってつまらなかった。やはり動きたくなってしまう。それまで自分のやりたい仕事をやりたいようにやってきたので、専業主婦は合わなかったのでしょう。子どもが小さいとき、ベビーカーをひきながら散歩していて、街でスポーツジムを見つけるとしばらく店の前で立ち止まるという生活が続きました」昔の知り合いが活躍している記事が載った雑誌などは意識的に見ないようにしていたという。「どこか悔しかったからかもしれない」と、今だから、そう振り返る。
97 年8月号の表紙を飾る。読者に人気の高かった表紙の1つだった

97 年8月号の表紙を飾る。読者に人気の高かった表紙の1つだった

仕事(エアロビクスインストラクター)への復職

 それでも、なかなかジムへ戻るきっかけはつかめなかった。

 珠子さんの夫は転勤族だったので、埼玉県、神奈川県、千葉県と数年ごとに転居が続いた。その間にやや年の離れた次女も生まれ、むちゅうで二人の子どもを育てているうち10年の月日が流れる。

 一般論になるが、やりたいことを自分で自分に理由をつけてやらないでいると、胸の中で思いがくすぶり、知らぬうちに大きくなっていることがある。ひょんなきっかけで、それが具体的な行動となって外にあらわれてくる時期がくるものだ。マイナスをプラスに変えるクリエィティブなパワーである。珠子さんにもそのときが来た。

「4年前、現在住んでいる家を買うことになり、その直後に夫が北海道へ転勤することになりました。持ち家があるので夫は単身赴任をすることになり、それをきっかけに私も本格的に仕事に復帰することを決心しました」

 それまでは保育園への入園が外れてばかりで〝待機児〟となっていた次女の入園も決まり、トントン拍子に動いていく感じがしたという。

「私はエアロビクスインストラクター!」という、かつて長く親しんできたアイデンティティが珠子選手の心にすっと戻ってきた。「子育てだけしている自分より、自分のやりたいこと、やれることをイキイキとやる自分になろう」そう決めて前向きに歩き始めると、またたくさんの出会いが待っていたのだった。

 子どもたちも「おかあさん、かっこいい」と応援してくれた。

 独身時代に築いた人脈が功を奏してフリーランスのエアロビクス・インストラクターとして無事に復帰し、仕事をはじめた珠子選手。しかし10年のブランクはかなりのものであったそうだ。

 まず現実的なところから言えば、世の中の景気低迷に応じて、スタジオプログラム1本の報酬は、当時の半分か三分の一に下がっていた。民営・官営・外資などさまざまなスポーツクラブが90年代と比べても細分化され、個々の目的に応じて利用できるようになっている。自然、企業間競争もありコスト削減などにも厳しいものがある。どの業界でもそうだ。
98 年ジャパンオープン選手権。強敵水野(左)浅見を 倒して優勝する

98 年ジャパンオープン選手権。強敵水野(左)浅見を 倒して優勝する

 二つ目に、ウエアのデザインがまったく違っているのでまた一からそろえなければならず、出費も続いた。

 三つ目には、若手の独身インストラクターが多い中で、子育てしながら仕事をすることへの本質的な理解を得ることが難しい。具体的には子どもが急に熱を出すなどしたとき、誰も子どもを見ていてくれる人がいない、さらには代わりがなくレッスンが休めないなどが重なると泣きたくなる状況に陥るのは、子育てしながら仕事をする女性なら誰もが経験ずみのことであろう。珠子選手は、子どもを職場まで連れていったこともあるという。

 最後に、プログラムの構成などアイデアが浮かんでこないときも苦しい。その他つらいことはいろいろあるが、「いろんなことがあって、お金をいただくって大変なことだなと改めて思いましたよ」と珠子選手は言う。

 それでもエアロビクス、ピラティス、アクアビクスなどいろいろなプログラムを数か所のスポーツクラブで受け持ち、順調に忙しくなってきている。レッスンを受けた人から「楽しかった」と笑顔で言ってもらえると嬉しい。
昨年の関東ボディビル選手権。

昨年の関東ボディビル選手権。

パーソナルトレーナー資格取得とコンテスト復帰

 キャリアアップのためにすすめられて、パーソナル・トレーナー(PTCというのですが)をとることになったのが2011年。PTCとは、スポーツ・トレーナーとしてダイエットや筋力トレーニングのメニューを作って個人指導を行う専門的人材のことだ。

「忘れもしません。3か月間のPTC養成コースに行くことが決まり、その前に筋トレをやって鍛えておこうと思っていました。しかし、3月11日に大地震が起こって、大手のスポーツクラブは自粛のため2週間休みになってしまいました」

 たまたま家の近くで営業開始が早かったのが現在所属している「ビッグベアージム」だった。

「ここ(ビッグベアージム)にお試しチケットでトレーニングしにきて、過去の実績から、いきなりベンチプレス35kgあげたら、その場で吐いちゃった」と肩をすくめる。

 基礎からもう一度筋トレに取り組もうと思い、即、入会した。ジムのコーチには入会時、「私がまたコンテストに出るって言ったら止めてね」と冗談まじりに話したことを覚えているという。そばでコーチが黙って話を聞きながら微笑をうかべて頷いていた。珠子選手は、

「トレーニングを始めると、仲間ができますよね。引っ越してきたばかりで知り合いも少なかったので、よかったですね。7月には仲間が出場するコンテストを見に行きました」

 応援しているうち、昔の血がたぎってきたのだろうか。即刻、翌年のチャレンジを決めたという。もちろん4月には無事、PTCの資格もとり、スタジオやプールでのレッスン時間以外にも、パーソナルトレーナーとして日々、仕事に生かしていくようになった。その人その人の全身の筋バランスをみて、指導していくよう心掛けているという。

 これが、愛宕珠子選手が引退からコンテストに戻ってくるまでの顛末だ。「2011年7月にジムの仲間が出場したミスター千葉大会を見に行ってから、仕事をしながらトレーニングも本気で頑張りました」

 一言「懐かしかった」と言う。一時は戻ることのないと思っていた世界にみごと、舞い戻った目の前の愛宕選手は満足そうだった。

「ボディビルって、もうやらないだろうと思って引退しても、戻ってきてもう一度活躍することができるスポーツ。それが魅力でもあるんじゃないでしょうか」。

愛宕珠子流トレーニング

 コンテストビルダーとして活躍することが、パーソナルトレーナーとしての信用度にもつながっていくという。食事の大切さを説くことを重視し、栄養が足りていない人には、たんぱく質をプロテインで補うことを積極的にすすめている。

 さて仕事自体が身体を使うものなので、愛宕選手のトレーニング自体は本人もいうように、それほど詰めたものではない。

 まず、頻度は週3~4日。月曜日は脚をメインに4種目を行う。

 中2日のリカバリーを設け、木曜日に背中と腕の4種目。中1日のリカバリーで土曜日には胸と肩を中心に4種目程度。
トレーニングは週3〜4回と、周りと比べて頻度は高くない

トレーニングは週3〜4回と、周りと比べて頻度は高くない

「少ないですが、そのときそのとき、必ず出し切るという気持ちでかなり集中してやっています」という。もともと筋肉がつきやすい体質であることから、トレーニング効果が出やすいのだがその分故障も少なくないようだ。

「2012年末には肩が痛くて上に上がらなくなってしまって、1か月間痛み止めの注射を打っていました。仕事は2週間お休みしてしまいました。何でも石灰がついていたということです。秋に肩を強化しようと頑張っていたせいかもしれません」

 そんなトラブルや失敗もたくさん経験していればいるほど、パーソナルトレーナーとしての指導に役立ってくると愛宕選手は笑顔だ。

復帰のシーズンを優勝で飾る

 本格的にトレーニングを再開して1年、復帰のシーズンとなった2012年の夏は、関東クラス別と関東ボディビル選手権で、カムバック優勝を果たした。接戦を制したのは、やはりすぐれたトータルのバランスに対する評価だった。

 減量は、少しずつ数か月のスパンで行った。直前でも1800kcal以下には落とさなかったという。1600kcal以下にはしないことは決めている。夜は子どもたちと同じ時間に就寝するし、決して無理はしない。ブランク前よりより自然体で取り組むことができるようになっている。

「復帰して優勝できたのは、私はもともとスタイル的にもボディビルに向いているのかもしれません。子どもの頃はどんなスポーツも得意で器用でした。筋肉量が増えやすいし、頭がもともと小さいのです」

 仕事は応援してくれているが、コンテストに復帰するといったときはさすがに難色を示したという夫も北海道から応援にかけつけてくれた。

「私はパーソナルトレーナーなので、自分のコーチは基本的に自分です。そして、今後は一般の人だけでなく、ボディビルのコンテストを目指す人も指導できるようになりたい」
ビッグベアージムのコーチ&仲間たち

ビッグベアージムのコーチ&仲間たち

 愛宕選手のめざすものの一つは「女性たちが年を重ねても、もっとイキイキとやりたいことに取り組むようになってほしい」という願いなのかもしれない。

 かつて愛宕選手自身が「若くてきれいなうちだけ」「40過ぎてやるものではない」と思っていた、この「一般的な考え方」の壁を自ら突き崩し、いくつになってもやりたいことをやれるしなやかなこころと身体づくりをすすめ、健康づくりを広めたいというのが一つの愛宕流指針であるようだ。愛宕選手が伝えたいのは一般常識をくつがえす、新しい生き方なのかもしれないとも思う。

「出産しても腹筋はもとに戻ります」「中年になってもボディビルは続けられます」「トレーニング命じゃなくともちゃんと結果はついてきます」とくに女性にボディビルにとりくんで、健康的にきれいにダイエットできる実感を感じてほしいと強調する。それには筋トレの実践がじつは最適な方法だと言う。年齢を重ねて筋肉量が減ってきた中高年にこそ、筋トレはやり方によってとても効いてくるし健康にもよい。これをどう伝え、どう広めるのか。

 インタビューを終え、愛宕選手の運転する車で駅まで送ってもらいながら、彼女の思いの波動に同調したのだろうか、なんだかとてもワクワクとする筆者であった。2月の寒い日であった。2013のシーズンには2~3の大会に照準を合わせ、出場するつもりだと、愛宕選手は白い息を吐きながら声を弾ませた。そうして次女の保育園へのお迎えに向かっていった。
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あたご・たまこ/昭和40 年6月2日生まれ/鹿児島県出身/ボディビル歴9年+ブランク+2年(仕事)+2年(トレーニング)/家族構成 夫と娘2人/血液型:AB型/身長158cm、体重49㎏(オン)・54㎏(オフ)/ビッグベアージム所属/主な戦歴:1994 中部日本大会優勝、1997 年ミス日本7位、1998 年ジャパンオープン優勝・ミス日本5位、2012 年関東クラス別優勝・関東ボディビル選手権優勝
[ 月刊ボディビルディング 2013年6月号 ]

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