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重岡寿典

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[ 月刊ボディビルディング 2014年3月号 ]
掲載日:2017.08.30
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しげおか・ひさのり/昭和50 年5月7日山口県岩国市生まれ、37 歳。身長161㎝、体重63㎏(オン)、73㎏(オフ)。トレーニング歴17 年、ボディビル歴17 年。職業: パーソナルトレーナー、理容師。13 年11 月には広島でストレングスジムをオープンした。趣味: トレーニング。クラブストレングスジム所属

生半可な気持ちで出るな!

 2013年の日本クラス別ボディビル選手権は7月21日、札幌市で開催された。昨年の同65㎏級で念願の頂点に立った重岡寿典選手は、1階級上げて70㎏級に出場。あえて上げた。あえてとは自分自身を追い込むためだった。まだ自分でも70㎏級で戦う体には十分なっていないと分かっていたが、一度落ちるところまで落ちて自分を奮い立たせたかった。これまでもそうした経験を糧にして結果を残してきたからである。

 自己予想では予選落ちだと思っていたが、予選を4位で通過して結果は6位。それなりの結果は残したものの、周囲からの批判はある程度覚悟していた。が、いざそれが現実になるとさすがに落ち込んだ。なかでも中尾尚志審査委員長からは「クラスを上げて戦ってもオーバーオールで戦っても上位へ上がっていけば同じこと。わざわざ甘い状態で70㎏級に出てきて戦っても意味がない」とばっさり斬り捨てられた。重岡選手の胸にぐさりと突き刺さる。

 中尾審査委員長の言葉を試合に臨む心構えがなっていない、いつでもしっかり仕上げてこい、という意味に重岡選手は受けとめた。さらに輪をかけるような形で、たまに助言を受けていた同郷の千束正彦氏からは「重ちゃん、おまえやる気あるのかよ。そんな生半可な気持ちで出るな、他の人に失礼じゃないか」。水が乾いた砂にスーッと吸い込まれるように胸にしみた。しかしそうした辛辣な声は反面、重岡選手への期待の裏返しが込められていたといえよう。

 考えが甘かった分、体も甘くなってしまったと深く反省した重岡選手は、3週間後に控えていたジャパンオープンへ向けて心機一転、新たな取り組みを始めて捲土重来を期した。

 161cm 65kgと小柄な重岡選手が8月11日、ジャパンオープンのステージに立ったとき、彼の体よりひと回りもデカイ選手と互角以上に戦えるぐらいに厳しい仕上がりで見事インプルーブしていたのであった。果たしてこの3週間の間に、いったい彼に何があったのであろうか。

デビュー戦片川選手に敗れる

 重岡選手の故郷は、錦帯橋で有名な山口県岩国市。小学校時代は空手、ソフトボールをやり、プロ野球選手になるのが夢だったという。が、中学時代は野球部がなかったため、みんなに習ってバスケットボール部に入部。この中学時代に筋トレ好きの父親に頼んでダンベルやバーベルなどを買ってもらい、本を読みながら自宅でトレーニングに励んだ。ちょうど近所にボディビルをやっているお兄さんがいて、その筋骨隆々たる体に憧れたことも影響があった。バスケット部ではガードとして活躍して高校には特待生として引っ張られた。

 高校に入ってからもホームジムで筋トレを続けていた。しかし高校3年生のとき、右膝のじん帯を切ってしまいバスケを断念。目標を失い、大学進学後もとくに運動をすることなく過ごし父の仕事(塗装業)を手伝っていた。そんなとき父のもとで働いていた職人さんに声をかけられ、岩国スリーエスジムに入会。そこで当時支配人の山縣英彦氏と知り合ったことが、ボディビルの道に進むきっかけとなる。しばらくして山縣氏が独立し、クラブストレングスジムを設立したのを機にそこへ移った。

 本格的にボディビルを始めて一年目の21歳のとき、山口県大会新人の部に出場。あの片川淳選手のデビュー戦でもあり、彼と優勝を争った結果、敗れた。ところがこの後、重岡選手はその成績に満足したことと、まだ若かったこともあり遊ぶほうに目が向いてしまい、トレーニングは二の次、三の次に。かろうじて細々とトレーニングは続けていたものの、体は目に見えて変化していった。むろん退化。これはまずいと思ったのが26歳のときだったという。その間、片川選手は順調に結果を残していきトップビルダーに成長。差は大きく開いてしまっていた。

原石がキラリと光りだす

 自分のへたれた体を見て、やっぱりマッチョがいいとあらためて思った重岡選手は、山縣会長に頭をさげた。「私がトレーニングに身を入れてやっていない時期、山縣会長はなにも言わず見守っていれてくれました。きっと私がやる気になってくれることを信じて待っていてくれていた。山縣会長の思いやりがあったからこそ、今の自分があると思っています」と、重岡選手は感謝の念を語る。

 そのとき山縣会長はひとつ条件をつけた。トレーニングをしっかりとやってボディビル大会に出ることだったが、望むところの重岡選手は「はい、まじめにやります」と力強く返事した。仕事の関係でジムの営業時間外にしかトレーニングできない重岡選手のために、山縣会長は一人で使用することを許した。一人黙々とトレーニングにうちこんだが、原石が光りだすまでにまだ時間はかかった。

 復帰第一戦となった02年ミスター山口は予選落ち。その悔しさで重岡選手の心に火がつき、絶対にミスター山口になってやると決意したのであった。復帰から4年目の05年にミスター山口、06年には中四国65㎏級優勝、そして腕試しの感覚で出た日本クラス別60㎏級で準優勝。原石に磨きがかかり光り出した。と思ったら、また気持ちに緩みがでてしまい、1階級上げて出場した07年の日本クラス別65㎏級では調整が甘く、またも予選落ちの辛酸を味わうはめに。「審査員はだれも自分のほうに関心を示さず、はっきり言って箸にも棒にもかかりませんでした」と、重岡選手は振り返った。

 もちろん周囲の反応も厳しく、天狗になりかえていた鼻をバキッとへし折られた重岡選手の気持ちは沈んだ。しかし、ポジティブな重岡選手の立ち直りは早い。帰途、自分の慢心さを反省するとともに、かならずこの悔しさを晴らすと誓ったのである。そしてその屈辱をバネにして2012年、日本クラス別65㎏級表彰台の一番上に重岡選手の勇姿はあった。

経験のない渇きと空腹感

 こうして奈落の底から二度もはいあがってきた重岡選手だが、まだまだ気持ちの面で緩む不安定さがあった。それが2013年の日本クラス別70㎏級でまたも出てしまったといえよう。このままで同じことをくり返すだけだと考え、ジャパンオープンに向けて新たな取り組みのため千束氏に本格的な指導をお願いしに行った。なぜ、千束氏か。それは前々から厳しくも温かく見守ってくれていたことを感じていたからだという。千束氏も、以前から重岡選手は頭が小さく、ウエストが細くしまっているスタイルの良さを活かせば、十分重量級の選手と戦えるポテンシャルを持っていると思っていた。それを活かしきれない彼の姿に歯がゆさも持っていたのである。
「本気でやる気があるのか」
「はい、やります」
と、重岡選手は自分に言い聞かせた。

 千束氏は自分自身で蓄積していた豊富なデータをもとにして、重岡選手向けのトレーニングや食事などのメニューを作成した。期間が短かったこともあり、今回は絞ることに重点を置いた中身だったという。
「段階的にやることがあり、有酸素運動を多くやる時期、炭水化物を摂っても糖質と複合炭水化物に分けてとか。私は最後の2週間ですべてが決まると思う。その間、彼が言われたとおりにやるかどうか。とくに口に入れるものを制御できるかどうかにかかっていました」 と、千束氏は語る。

 群馬、山口という遠距離なため、メールで送られてきた写真を千束氏が見て、お尻を絞れ、スクワットはもっと深くなどと電話やメールによる通信指導が主だった。その期間中、なかでも食事の面がきつく、のどの渇きや空腹感などは、これまで重岡選手が経験したことがないもので「このまま死ぬんじゃないか」といくどとなく思ったそうだ。水や食べ物の幻想も見たことだろう。
同郷の先輩である千束氏のアドバイスによ り、昨年見事復活を遂げた

同郷の先輩である千束氏のアドバイスによ り、昨年見事復活を遂げた

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昨年の日韓親善大会

昨年の日韓親善大会

昨年のジャパンオープン

昨年のジャパンオープン

新たな進化の始まり

 試練の日々に耐えるなか、重岡選手は体が徐々に変化していくことを肌で感じていた。人の体質は十人十色であり、調整というデリケートなことは個々に合ったものでないとうまくいかない。その点、重岡選手の場合、千束氏が経験から得て編み出した指導法がうまく合致したといえるのではないか。重岡選手はこう語る。
「体格体質は人それぞれちがう。それを理解して最大限どう活かすか。千束さんの指導により私の体は、また新たな進化をはじめたといってもよいと思いました」
 いわばその試金石の舞台が今年のジャパンオープンであった。

 ボディビルは体が大きく筋肉も大きいだけでは勝てない。筋肉のバランス、セパレーション、ディフィニションなどトータルバランスが勝負の決め手だ。そこに妙味がある。小松選手はじめ、多くの選手と体の大きさだけだと見劣りする重岡選手だが、ボディビルとしての勝負では実力伯仲。日本クラス別と別人のような厳しい仕上がりで、バルキーでマッスルな小松選手、長身でワイドな辻田選手に挟まれてもひけをとらず、結果は惜しくも準優勝だったが周囲の評価も高く、名誉挽回を果たした。

 千束氏の指導を受け始めて短期間で結果を残したことにより、重岡選手の千束氏への信頼度は深まり、千束氏も重岡選手のポテンシャルの高さをあらためて痛感した。二人の絆はより強まったことはいまでもない。

 ジャパンオープンでの活躍は、重岡選手と同じ体格の人たちに勇気、元気、やる気を与えたにちがいない。

 トレーニングや食事内容は企業秘密というわけではないが、その中身をきちんと理解したうえで行なわないといけないことや、人間の限界に挑戦している面もあるので、ただ真似るだけでは効果が薄いし、なによりも中途半端にやられるのが一番困るということであえて差し控えさせてもらうとのこと。ちなみにこれまでは大会が終わるたびにリセットしていたという。
05 年Mr. 山口優勝   写真:吉田浩貴

05 年Mr. 山口優勝   写真:吉田浩貴

昨年重岡選手が開設したストレングスジムにて

昨年重岡選手が開設したストレングスジムにて

あしたのジャイアントキラー

 日本選手権は昨年同様、二次ピックアップまでだったが、舞台上の重岡選手の姿勢態度は堂々としていた。やってきたことへの自信の表れであろう。そこにはもう慢心はない。

 日本選手権の翌日、千束氏のサポートを受けながらトレーニングしている最中、ときどき「痛い、痛い」という言葉を発する。これは体が痛いのではなく、これまで効いていなかった筋肉に効いていることの表れた証の言葉だという。眠っていた筋肉が活動しはじめ、伸びしろが一段と大きくなったといえる。

 昨年を振り返り、重岡選手自身も「やるべき方向性が見えたことが一番の収穫でした」と言う。これからはもう自分を甘やかすことなく、さらなる高みをめざして千束氏と二人三脚で歩んで行き、めざすはあしたのジャイアントキラー。「重ちゃんは体が小さいというハンデはある。だが、それをどう克服していくかが私の仕事」と、千束氏は強調し、さらに「来年はもっともっと活躍します」。その言葉を受けるように重岡選手も大きくうなずいた。
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文/本誌・伊藤幸成
撮影協力・ゴールドジムサウス東京
衣装協力・X2X CLOTHING JAPAN
[ 月刊ボディビルディング 2014年3月号 ]

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