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= 海外ビルダー紹介 = 現代の“へラクレス” シュワルツェネガー

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[ 月刊ボディビルディング 1968年7月号 ]
掲載日:2017.11.21
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 前回のジョン・グリメックについで、今回は、時代の流れを一気に20年とび越して、最も新しいトップ・ビルダーをご紹介しよう。その名はアルノルト・シュワルツェネガー。1967年度のNABBA‟ ミスター・ユニバース ”である。

 それまでまったく無名であった彼は、1966年度のミスター・ユニバースで、初出場ながら、優勝者のチェスター・ユートンとはげしくせり合い、2位に終わったとはいえ、いちやく世界ボディビル界の注目するところとなった。つづく昨年のミスター・ユニバースでは、文字どおり、他を寄せつけずに楽勝し、観衆をアゼンとさせている。

 現在のシュワルツェネガーの写真を見る人は、この道にそうとう造詣の深い人でも、この男はボデイビルを始めるまえから、りっぱな体をもっていたにちがいない、というだろう。ところが、そうではなかった。5年まえトレーニングを始めたときの彼の体は、身長こそ182cmであったが、体重じつに69kg、胸囲85cm、上腕囲33cmだったのである。
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若冠20才である。現在身長 188cm、体重 113kg、胸囲 143cm、上腕囲 54.5cmと報告されている。まさしく“現代のへラクレス”である。
 前述した現在の彼の数字とくらべてみていただきたい。奇跡ともいうべきこの変化は、たゆまぬ努力の結晶以外のなにものでもないのだ。(磯部俊行)

“ 現代のへラクレス ” シュワルツェネガー

 アルノルト・シュワルツェネガーは1947年オーストリアに生まれている。父のグスタフはスポーツマンで、“ カーリング ”という競技(14ポンドの平円形のみかげ石を目標に向けてころがす氷上競技)のヨーロッパ選手権保持者であった。アルノルト少年もこのゲームに興味をもち、大会に出場するようになったが、なかなか上位に入賞できなかった。この競技に勝つには強い体力が必要であることを、いやというほど思い知らされた。

 しかし、1962年のある秋の日、偶然が彼の行くべき道を開いた。近くの湖畔で休息していたアルノルト少年は、1人のたくましい肉体をもった青年に会ったのである。彼はその青年のすばらしい肉体に感嘆し、ただボウゼンと見とれているだけだった。アルノルト少年の食い入るような視線に気づいた青年は、静かに話しかけてきた。

 この青年はクルト・マーナルといいオーストリアを代表するボディビルダーの1人であった。アルノルト少年はそくざに彼の指導を求め、翌日からマーナルがコーチしているジムで練習を開始する約束をした。こうして、当時15才のアルノルトは、将来世界のヒノキ舞台へとつづく階段の第1歩を踏み出したのである。

 練習開始から現在にいたる彼のトレーニングの効果を、表にまとめてみたので、じっくりと検討ねがいたい。
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 さて、トレーニング開始後1年半、はやくもいちじるしい効果があらわれはじめた。1964年グラツ市カーリング大会でジュニア級に優勝したばかりでなく、全ヨーロッパ選手権大会でも第2位を獲得してしまった。

 ボディ・コンテストでも、1965年ジュニア・ミスター・オーストリアとミスター・スチリアに選ばれている。当時、すでに彼は体重89kg、上腕囲45cmの肉体をつくり上げていた。そして、きたるべき1966年度ミスター・ユニバースにそなえ、同年8月ミュンへンに移り、1日5〜6時間、週7日という猛練習を開始した。
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 結果は、前述のとおり、2位に入賞。熱狂した観衆は、1回のポージングに満足せず、彼は再度アンコールのポージングを行なったという。そしてつづく1967年度ミスター・ユニバースでは、他の参加者をまったく問題にせず優勝したのである。

 彼がいかに練習熱心であるかは、1965年に兵役にとられたとき、はげしい服務のあとも練習を欠かさず、仲間をおどろかせたことや、1966年のミスター・ユニバース・コンテストのあとたった2日しか練習を休まず、1967年のコンテストにそなえたことからも、充分にうかがえよう。もちろん彼は、ただたんにはげしい練習を行なうばかりでなく、1日10時間の睡眠をかならずとり、アルコールやタバコはぜったいにたしなまないという節制ぶりである。

 彼の練習は次のとおりだ。
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[ 月刊ボディビルディング 1968年7月号 ]

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