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話しだしたら止まらない!600号記念特別企画第2弾!! 月ボ名物マニアック著者が集う筋肉座談会

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[ 月刊ボディビルディング 2013年9月号 ]
掲載日:2017.08.17
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◆出席者◆
司会:鎌田 勉(ボディビルディング編集長)
川島英博(㈱ヘルスプロデューサー代表)
吉賀俊行(BIGTOE・会社員)
渡辺 実(裏技師・ゴールドジム公認パーソナルトレーナー)
中島康晴(元編集部員・フリーライター)

川島英博

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川島英博(かわしま・ひでひろ)
1948年8月2日生まれ/O型/(株)ヘルスプロデューサー代表/トレーナー・鍼灸・整体師・通訳/「からだ工房」でスポーツ故障者の治療をする傍ら大手スポーツクラブで治療とパーソナルトレナーの両方で活躍している。著書に『ザ・ウエイトトレーニング』『筋力トレーニング』がある。

吉賀俊行

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吉賀俊行(よしが・としゆき)
1955年神戸生まれ/73年月ボに出会う/75年ナニワボディビルクラブでボディビルをはじめる/80年Mr.大阪で大会デビュー。大阪ジュニア優勝/84年米国ユタ州でラリー・スコットの指導を受ける/85年Mr.岡山優勝/95年Mr.大阪、Mr.関西優勝/00年ウェブサイト「BIG TOEの筋肉物語」開設。http://bigtoe-jp.com/サラリーマン生活の傍ら2003年より月ボライターとして今日に至る

渡辺 実

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渡辺 実(わたなべ・みのる)
NSCA・AFAA 認定パーソナルトレーナー。ラグビーやキックボクシング、ボディビルなど自分自身が幅広い競技経験で培った経験をもとに、万人が理解しやすいような独自の指導理論を展開。特に「トレーニングに大切な要素」を多くの人が理解しやすいように様々なアプローチを自身で考案。現在、ゴールドジムで公認のパーソナルトレーナーとして活躍中!

中島康晴

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中島康晴(なかじま・やすはる)
89 年体育とスポーツ出版社入社、月ボ編集部に在籍する。自らもボディビルを実践し大会に出場していたが、29 歳で出場した東日本大会を最後に大会出場を止め、その2 年後にはトレーニングも辞め、事実上の引退をする。しかし、10 年43 歳で突如としてトレーニングを再開。その10 ヵ月後の11 年、実に15 年ぶりに大会復帰し、千葉県大会70kg 級優勝。同年、Mr. 日本の会場で編集長と21 年ぶりに再会し、現在本誌ライターとして取材活動、レイアウト編集、MBB Web のサイト運営を行う。また、国内でのフィジークコンテストの開催を提唱する活動の一環として、ベストボディジャパンの審査員を行う

月ボとの出会い
なんと編集長が一番遅かった

編集長 今日はお忙しいところ、お集まりいただきまして誠にありがとうございます。月ボの創刊は昭和43(1968)年で、45年というおおよそ半世紀の歴史を誇る日本のトレーニング雑誌の草分けです。この度600号という節目を迎えることにあたり、現在執筆陣として活躍している方々にテーマごとに月ボとの思い出や今後のボディビル界の将来について語り合っていただきたいと思います。はじめのテーマは月ボとの出会い。まずは年齢順に川島さんからお願いします。

川島 最年長(64歳)の川島です。高校時代からトレーニングが大好きで、アルバイトをしてダンベルを買い自宅でトレーニングをしていました。創刊号が出るのを知って本屋さんで購入して以来、毎月発行日が楽しみで走って本屋さんに行ったものです。目を皿のようにして毎日読み、自分のトレーニングに生かしましたね。だから創刊号から持っていますよ。

吉賀 高校時代、同級生の大森君(現倉敷トレーニングプラザ代表)の部屋に遊びに行った際、月ボがズラリと並んでおり、こんな雑誌があるのかと思いながらその中からたまたま引っ張り出して見たのが「超巨大なビルダー出現ルイス・フェリーノ」というタイトルが表紙にあった73年6月号でした。その記事に釘付けになりました。それが月ボとの出会いであり、ボディビルとの出会い。あとは宮畑さんの結婚記事も印象に残っています(笑)。

編集長 それを見てトレーニングを始めようと思いましたか。

吉賀 いや、まだ思いませんでしたね。それから3年後くらいでしょうか、大阪で学生時代を過ごしていたとき、テレビをつけたらアーノルド・シュワルツェネガーのポージング姿が映り、これはすごいと思いました。大森君と本屋さんへ行って月ボを見るとジム紹介が載っていて、その中の一つ、ナニワトレーニングジムへ気軽な気持ちで見学に行ったのが本格的にボディビルを始めるきっかけでした。それから月ボは毎月買うようになりました。
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吉賀氏が初めて目にした月ボ1973年6月号。ルー・フェリーノの記事とサンプレイの宮畑会長が結婚されたという記事が印象に残っているそうだ
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編集長 当時プロテインはどんなものがありましたか。

吉賀 明治製菓のセシリア。800g入りでたしか3千数百円だったと思います。粉ミルクみたいな感じで、健体( 健康体力研究所)も最初はそれを売っていたと思います。

川島 すごくなつかしい名前ですね。

編集長 それは知りませんでした。値段高いですね、いまの金額に直すと一万以上はするんじゃないでしょうか。

吉賀 ジャパンヘルスプロダクツという会社が海外製の物を売っていましたが、それは水などにまったく溶けない。原料は大豆でシェーカーで振っても水と分離してだめで、ミキサーでまぜるしかなかった。しかもすぐに飲まないといけなし、まずかった。

川島 ほんと、口に入れてもどう喉に流すか迷うような物も中にはありましたね。

吉賀 その頃に比べるといまは本当に味もよく飲みやすくなり、安くなりましたね。

編集長 渡辺さんと月ボの出会いは。

渡辺 高校ぐらいからホームトレーングをはじめ、その頃月ボの存在を知り本屋さんで立ち読みしていたけど、買うことはなかったですね。しかし背中のトレーニングをやっていてしっくりこず思案していたとき、いつものように立ち読みしていたら、訳されたクリス・ディカーソンの背中の記事を読んでこれはいいと思って買ったのがおそらく80年12月号だったと思います。でもまだ不十分で訳す前の記事を読みたくなり、「マッスルマグ」の原書を探しに古本屋めぐりし、ある店主にこんな本ありませんかと聞いたら、すご~く嫌な顔してあっちだと。それが薔薇族関係のコーナーだったわけ。

(一同、爆笑)
渡辺氏が初めて購入した月ボ 80年12 月号。クリス・ディカーソンの背中の記事に惹かれたそうだ

渡辺氏が初めて購入した月ボ 80年12 月号。クリス・ディカーソンの背中の記事に惹かれたそうだ

編集長 中島さんはどうですか。中島 学生の頃、榎本正司さんの北浦和のヘルスクラブに通っていた頃からなので、1986年に月ボを知りました。ちょうど榎本さんが日本で開催されたミスターユニバースに出場する年でした。まだトレーニングを始めたばかりの私はユニバースがどんな大会であるかも知らず、榎本さんが非常にナーバスになっていたのを覚えています。大会が近づくと、ジムには「○月○日から指導できません」という貼り紙を見て驚きましたが、世界大会の調整をしている重要な時期だったとは当時は全く知りませんでした。

吉賀 榎本さんは私の憧れのビルダーの一人です。

中島 写真を今見てもかっこいいですよね、特に腹筋は見事です。ところでユニバース(世界大会)が日本で開催されたのは、この年だけでしょうか。

(一同、そうそう)

渡辺 このときにはじめてドーピングチェックが導入され、13人も失格者が出ました。

編集長 えっ、そうすると私が一番月ボとの出会いが遅い! 小沼敏雄さんがラットスプレッドをやっている表紙の87年1月号を読んだのが初めての出会いですから。

中島 おお、ここですごく意外な事実が発覚しましたね、おもしろい!(笑)
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月刊ボディビルディング創刊前にベースボールマガジン社から発行されていた『ボディビル』左が創刊号(62年2月)だが、それ以前から存在していたというのはどんな理由からか?

元編集部員の爆弾発言?
逆取材 私の写真を撮って

編集長 次のテーマは、月ボで記憶に残る記事・写真・出来事や思い出のビルダーなどについてお聞かせください。今度は中島さんからどうぞ。

中島 じつは私は89年に月ボ編集部に在籍していました。編集長から半年遅れの入社です。その年、編集長と国際スポーツフェアで開かれたボディビル大会に取材に行きました。

編集長 ああ、覚えている、テレビ放映もされたし。

中島 メチャクチャよかったじゃないですか、あのイベントは。主催は確かフジテレビ。ベリー・ド・メイやショーン・レイも来て。ああ、この写真は私が撮った写真、いいでしょ。

編集長 また、同じようなイベントが見たいね。

中島 そこでの裏話ですが、舞台裏で編集長と2人で取材していたとき、きれいな外国人ビルダーがいたので写真を撮りたいと思ったのですけど、英語でなんて言ったらよいか分からず、編集長に相談したところ「Please take picture」じゃないかと。その言葉を信じて外国人ビルダーにそう言ったら、係員が血相変えて飛んできて怒られました。

川島 それは、私の写真を撮ってという意味だから。(一同、大爆笑!)
中島 そうなんです。係員から「Can I take pictures?」と言ってくださいと教えていただきました。その時、とんでもない英語を教えてくれた人が、その後20年以上もオリンピアの取材に行かれているなんて信じられません(笑)。
 その他にはリー・ラブラダやビンス・テイラーらの密着レポートを書かせていただいた事は今でも良い思い出です。今でも覚えているのが、ビンス・テイラーとモスバーガーへ行ったのですが、その時、彼がハンバーガーを両手ではさんでつぶして食べるのですね。それがかっこよくて、私、いまでも真似しています。

吉賀 なんでつぶすんやろ。

中島 単に食べやすいからかな? 理由はわかりませんが。しかし、退職後20数年のときを経て、また月ボに携わるようになるとは思いもよりませんでした。
通巻第100号(75年7月号)は、記念号として作られていない

通巻第100号(75年7月号)は、記念号として作られていない

ピンクパンサー人形で筋肉学 
群を抜く須藤、杉田の背中

渡辺 月ボは自分のトレーニングを発展させるための情報を得るものでした。なかでも81年9月号ボイヤー・コウの「バイセップス鍛練法」の中の「ただ腕を曲げるだけでなく、手を回外させる働きが二頭筋にはある」という意味の文章が解剖学を勉強するきっかけになりました。親父がドクターだったから、家にあった医学書を引っ張り出して読んだけどよく分からない。美術解剖書を買い、ピンクパンサーの人形やミクロマンにプラスチック粘土で筋肉を付けたり、割り箸に輪ゴムを付けて筋肉の動きを研究しました。

中島 昔から研究熱心で凝り性だったのですね。

渡辺 だから体の動きとかに興味がすごくあって、昔はいまほど規制が厳しくなかったからコンテストの際、係員に頼んで舞台裏に入れてもらい袖の横から写真を撮りまくりましたよ。

川島 横から見るとよく分かるから。

渡辺 はじめて見たコンテストは、ミスター日本で石井直方さんが初優勝したときです。その時に見た杉田さんと須藤さんのデュアルポーズも強烈な印象でした。当時その二人が抜きん出ており、とくに背中を見て日本人でも世界トップの背中を作れると思いました。このミスター日本の増刊号(82年1月号)が出るのが待ち遠しかったもの。しかし背中の写真が出ていなかったのは残念でした。ところがこの間、YouTube にそのときの映像がアップされていたのを見て、感動を新たにしました。いまの日本人ビルダーでもかなわない。
リー・ヘイニーが影響を受けた二人の日本人プロビルダー杉田茂(右)と須藤孝三

リー・ヘイニーが影響を受けた二人の日本人プロビルダー杉田茂(右)と須藤孝三

編集長 よく残っていましたね。

渡辺 そのコンテストで同時に注目したのが小山裕史さん。翌年ミスター日本になりましたが、小山さんの記事を読んだとき食事法やローイングのことが丁寧に書いてあり、指導を受けたくて手紙を書きました。快諾の返事をいただき、鳥取まで行きました。

吉賀 須藤さんの写真では、両手を広げている、あのポーズが好き。小山さんは背中のトレーニングで150セット、幻覚を見るまでやるという記事が強烈でした。

渡辺 小山さんが月ボで83年4月号から6回にわたって連載したトレーニング法や82年12月号の回想記も夢中で読んだね。私と3歳ぐらいしか違わないのにトレーニング法は天と地の差があった。一緒にやっていて殺されるかと思ったことも。オーバーワークなんてないという感じでした。

吉賀 杉田さん、須藤さんも同じ。須藤さんは、あるセミナーで徐々に量を増やしていった結果、いまこうなったからオーバーワークではないと。

渡辺 ちゃんとやって量が増えていくのはいいけれど、効かないからただ増やしていくという考えは間違っていると思う。また、重量にこだわってフォームは多少崩れてもいいと、都合のいいように解釈してしまう人もいたようです。

川島 文章の表現は難しい。

(一同 大きくうなずく)
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81年12月号に掲載された膝をつかずに行なうワンハンドローイング。コロンボの背中のトレーニング記事が渡辺氏の母体になっているとも言う
渡辺 小山さんの文章を批判する人もいたけれど、それは違うと思っています。

吉賀 一度小山さんのいきなりの進化にびっくりしたことがあります。私がはじめて見に行ったミスター大阪で3位になったとき。前年新人3位のときは、写真でしたが印象が薄かったのに……。

川島 あの進化はすごかった。

吉賀 一日の食事で納豆15袋、サバ缶15缶、パセリは1回の食事でどんぶり山盛り。パセリですよ、パセリ。

渡辺 それは知らなかった。話は変わるけど、フランク・コロンボの81年12月号の背中のトレーニングの記事のフォームを研究して、いまの私のトレーニングの母体になっているのがいくつもあります。あるとき、ドリアン・ローより浅いローイングをやっているものがあり、それについて仲間の一人と電話で論争になり、いまからおれがバーベル持って行くから、おまえは台を持って来いとなり、多摩川の川べりで夜中の1時から朝7時までやりあった。そのときは台に乗るのは古いと思っていたけど、最近は台に乗るのもいいかなと思うようになりました。
 あとTバーローイングのときのフォームの写真を見て、ハムストリングに乗せる重要性やワンハンドローイングは膝をつかず、中臀筋と肩で固定してやるという体の使い方などを発見しました。感覚的に膝をついてやるのは、よくないということは写真を見て割り出しました。白黒写真のほうが陰影が分かり易くていいですね。

川島 そのあたりを読みとる感覚がすごい。さすがです。

中島 オタクですね。

渡辺 小山さんの話に戻りますが、彼が提唱した初動負荷理論は、怪力法の著者若木竹丸さんも言及しています。初動負荷で効果を得るには、そのベースとなる強靭な筋力がないといけないと思います。
通巻第200号は、81年ミスター日本増刊号だったことは、あまり知られていない

通巻第200号は、81年ミスター日本増刊号だったことは、あまり知られていない

あのリー・ヘイニーに影響を与えた二人の日本人ビルダー

編集長 三つ目のテーマは、あなたがはじめて載った月ボについてお話しください。川島さんどうですか。

川島 88年10月にリー・ヘイニーが来日したときのレポート。89年1月号です。これは偶然書くことになりました。私が通訳のアシスタントといった役割で会場にいたとき、少しの時間彼と二人だけで話す機会が持てました。その後、編集部から依頼されてそのひとときを書いたわけですが、彼のやさしい人柄や思いやりが感じられてビルダーは体も心も大きくなければならないと感動しました。この記事をきっかけにしていろんなことをお手伝いさせていただくようになり、多くのビルダーと出会い、最新のトレーニング情報などを教えてもらい、仕事の糧にもなりました。
川島氏本誌初登場の89年1月号。現在と比べて幾らかふっくらしている。Ben 編集長が入社して初めて担当したのが川島氏だった

川島氏本誌初登場の89年1月号。現在と比べて幾らかふっくらしている。Ben 編集長が入社して初めて担当したのが川島氏だった

通巻第300号(89年6月号)。初めて記念号らしい企画を特集した。第1回アーノルドクラシックも掲載されていた

通巻第300号(89年6月号)。初めて記念号らしい企画を特集した。第1回アーノルドクラシックも掲載されていた

吉賀 ヘイニーは大阪にも来ましたが、おっしゃるように人間的にもすばらしかった。そのとき彼は、杉田さん、須藤さんに影響を受けてボディビルを始めたと言ったのを記憶しています。オリンピアで8連覇した、あのヘイニーに影響を与えたのが日本人だと聞いて驚きましたね。

川島 へーっ、そうなんですか。アメリカで彼のジムを訪ねたときも大歓迎してくれた。青少年育成にも努め、ビルダーの価値を高めたと思います。

吉賀 オリンピアンの中で好きなビルダーの一人がヘイニーです。セルジオ・オリバは別な意味で好きですが。

川島 私もオリバが好き。なにかカリスマ性があるところでしょうか。

編集長 川島さんは選手として本誌に登場したことはありますか。川島 ないです。でも選手として大会には出たことはあります。

(一同、驚く)

川島 みなさん知らないと思いますが、ミスター京都、関西学生大会などにも出て、青年の家という大会では表彰台にものぼりました。当時は学生で、西京極にあったトレーニング・センターでトレーナーのアルバイトをしていて、中尾尚志先輩にも大変お世話になりました。家ではダイナミックバーベルで鍛えていましたよ。

(一同、なにそれ)

川島 通販で買ったバーベルのメーカーの名前ですよ。当時通販で買うと「ボディビル35日間」とかいったタイトルの小冊子やコンテストの写真などが付録に付いていて、貴重な情報の一つでした。そんな頃に月ボが創刊されました。

編集長 そうすると、この中でコンテストに出てないのは私だけ。

中島 コンテストを少しもかじっていないんですか!

(一同、一斉に編集長を注目)

川島 やはり、コンテストにパンツ一丁で出る気持ちを知っておいてもらわないと。

(一同、大きくうなずく)

中島 これから挑戦しますか。600号記念に、どうですか。

吉賀 編集長が出たら、それはすごい話題になりますよ。

川島 今度マスターズに出てよ。

編集長 グランドマスターズあたりにね(大笑い)。さて、吉賀さんはどうですか。

吉賀 80年12月号が月ボデビューではないかと思います。ミスター大阪ジュニアの部に出たときです。うれしかった。それからはいつミスター大阪が載るんだろうと、大会後は毎月25日が待ち遠しく本屋さんへ行き、載っていないとがっかりして帰りましたよ。

編集長 その当時は1ページでしたが、いまは4、5ページ載せてもまだ足りないと。

吉賀 言われたことがあると思いますが、東京クラス別優勝者インタビューは載るのに、なぜ大阪は載らないのと。

編集長 ありました。いろいろ諸事情がありまして……。

吉賀 あとは石村勝己さんのアメリカ便りの「日本から来ているサムライたち」でも載りましたが、なぜか吉賀ではなく古賀になっていました(笑)。ミスター岡山、ミスター大阪、ミスター関西でも載り、96年5月号の「トレーニングと食事法」では、4ページも割いていただきました。

中島 吉賀さんだけですね、個人でそれだけページを割いてもらったのは。
吉賀氏、本誌初登場の80年12月号。ミスター大阪ジュニアの部優勝時の写真

吉賀氏、本誌初登場の80年12月号。ミスター大阪ジュニアの部優勝時の写真

ブルマ姿のかわいい人とは
なんと、表紙に登場した人が

編集長 渡辺さんは。

渡辺 たぶん全日本ジュニアパワーで優勝したときだと思う。

編集長 その記事が載っていたんですか。

渡辺 ちょっとだけだけど写真も小さく。

川島 本当、見たいなあ。

(がさがさと渡辺氏がバックナンバーを探すこと数分)

渡辺 あったー、ありました、82年7月号でした。これですよ。

編集長 ロン毛じゃないですか。

中島 女の子みたい。

川島 初々しいね。

吉賀 ほんまや。

渡辺 この写真は、ナロースタンスでデッドで210㎏を引いているの。通っていたジムでデッドをやっていたらパワーの人がいて、おまえそれはジュニア記録だ。パワーに出ろといわれ、いきなり特訓を受けて埼玉に出され、さらに全日本も行けーと。練習では215を引いたこともありました。

編集長・中島 ブルマ姿、これは絶対に載せないわけにはいきません。

渡辺 いやだなー。
渡辺氏、本誌初登場の 82年7月号。全日本ジュニ アパワー大会。75㎏以上級で優勝している

渡辺氏、本誌初登場の 82年7月号。全日本ジュニ アパワー大会。75㎏以上級で優勝している

川島 こんなカワイイときもありましたって、またファンが増えますよ。呼び方をみのるさんからみのるちゃんに変えなきゃ(笑)。あっ、思い出しました、私、表紙に登場したことがあるんですよ。

編集長 いつですか。見たことありませんよ。本当に?

川島 バーティル・フォックスの特集号。

編集長 バックが黄色の。

川島 そうそう。フォックスが真ん中に立っていて、舞台の袖に私がいるの。

吉賀 それ持っていますから、家に帰ったら見てみます。

編集長 ここにもありますよ。探してみましょう。

川島 ほんと。フォックスがゲストで日本に来たときで、須藤さんと二人でゲストポーズをやりました。須藤さんがウォーミングアップしているとき、フォックスが独り言のように「あいつにはヨーロッパでやられたんだ、あいつには」と言ったのを覚えています。

編集長 これですけど、バック全面黄色でどこに写っているんですか。

川島 あれ、おかしいなあ。

編集長 特集号ではないんじゃないんですか。

川島 そうかも知れない。月刊誌かも。

(編集長がバックナンバーを探しに席を離れる。数分後、戻ってきた)

編集長 あった、ありました。80年2月号のミスター日本の増刊号でしたよ。

川島 うそつきにならなくて良かったー。あれ、もう少し大きく写っていると思ったけど、小さいなあ。

吉賀 いた、いた。でもこの中で表紙を飾っているのは川島さんだけ。でも言われなければ誰も川島さんだとは、気づきませんね。

川島 表紙は私一人、それはうれしい。よく見ると奇遇というか、今日と同じ柄のネクタイをしている。

吉賀 物持ちがいいんですね(笑)。
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編集長 元編集部員の中島さんはどうですか。

中島 300号記念号の『編集部の独壇場・第1弾』です。当時の先輩編集部員、浦田(浩行)さんから「好きなビルダーは日本人だと何かと問題になるから外国人にしてね」と言われ、フィル・ヒルにしました。これです。

編集長 顔はいまとあまり変わりない感じ。で、次のテーマは……

中島 あれっ、私はもう終わり?
中島氏の本誌初登場は300号だ!当時の新人編集部員の紹介ということで、読者のページに登場している

中島氏の本誌初登場は300号だ!当時の新人編集部員の紹介ということで、読者のページに登場している

ハイレベルな発明 NE万能ベンチの復活はあるか?

編集長 次のテーマは、月ボの広告で印象に残ったもの。

渡辺 NE(現㈱日本ボディビル)のバーベルじゃないですか。

川島 そうそう。

編集長 私は同じNEさんのモハメッド・アリのイラストが使われていた「NEアリ・ボッドマシン」。あの世界のアリのイラストをどうして使えるの、肖像権を得たの? と、疑問に思いました。

渡辺・川島 そう、本当なのと。

編集長 あとは同じNEの万能ベンチで、モデルで重村尚さんが載っていたことにも驚きました。

吉賀 あのベンチはいいですよね。私が自宅で使用していたのを多摩ジムへ持っていき、みんなに使ってもらっています。

編集長 ほんといいですよね。機能性が高く頑丈で。しかも当時の値段で2万円、お買い得。

吉賀 多摩ジムでも3年使っているけど、レザーも破れていないし傷んでいません。荒く使っても大丈夫。

中島 私も使ったことあるけどよかった。

川島 いまでも売っているの?

編集長 もうないんじゃない?

川島 もういっぺん売ってくれないかな。

渡辺 ほしいなあ。日本の器具の中でもハイレベルな発明品だと思います。逆向きでプリチャーもできるし、インクラインカール、プレス、スパイダーカールも。多機能性を備えています。

吉賀 渡辺さんにそう言わせる代物なら、ぜひ復活させてほしいものです。

(一同、作りたいねー)

渡辺 作りたいけど、まだ権利はNEにあると思いますから許可さえいただければ作りますよ。

(後日、渡辺氏がNEと交渉することになった)
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かなり長い間、月ボに広告を掲載していた日本ボディビル指導協会(NE)。その中でも参加者の記憶に残っていたのがモハメッド・アリのイラストを使用した『アリ・ボッドマシン』と重村氏をモデルにした『万能ベンチ』の広告。万能ベンチは非常に優れた代物で、当時のジムには必ず置かれていた

いまこそボディビル力 
世の中を明るく健康にしたい

編集長 まだまだ広告に関してはあると思いますが、残り時間も少なくなってきましたので、最後のテーマに入りたいと思います。今後のトレーニング界やボディビル界の方向性などについてお聞かせいただければと思います。川島さんお願いします。

川島 いまの世の中はわりとイージーに暮らしていきたいという雰囲気がありますが、人間は少しでもいいから前向きに努力していかなければならないと思います。そのために心も体も健康でなければなりませんが、それをサポートする一つとしてボディビルは最適だと考えます。筋肉の美しさ、力強さから夢と希望を持って、日々生きていく力になれたらいいなあと思っています。世の中を明るくし前進させる力がボディビルにはあると思いますから、微力ながら私もそのお手伝いをこれからもしていきたいです。

編集長 次に吉賀さん。

吉賀 閉鎖的なイメージがあって、コンテストにしても関係者だけの発表会的な雰囲気があると感じています。今春日本ボディビル連盟は公益社団法人となったのを機に「日本ボディビル・フィットネス連盟」と名称が変わりました。そしてベストボディ・ジャパン協会との交流も始まったと聞いており、ボディビルを広く一般の人に知ってもらえる機会の到来ではないかと思います。トレーニングというものは苦しいものではなく、習慣化することで苦しくなくなり、そして結果が出てくれば楽しくなる。その喜びを一人でも多くの人に知ってもらえるよう、生活に密着した方向づけが大切ではないでしょうか。そのためには、その方向に向かって連盟もJPC、NBBFといったボディビル団体が一体化した組織運営をやっていただきたいと思います。

編集長 では、渡辺さんお願いします。

渡辺 トレーニング法は人間の体が変わっていないので、とくに変える必要はありません。ただいまのトレーニングを見ていると、昔からあるフリーウェイトをやらず、マシントレーニング中心で本当の意味での体を使っていないため、コアトレーニングという悪い連鎖に陥っていると感じますね。もっともっとフリーウェイトを用いて体を使うようにしていったらいいと思います。

(一同、うなずく)

渡辺 ボディビルは、筋肉を日常生活で使う以上に鍛えていることが一般の人たちに色もので見られるか否かは、関係者の言動や文章が重要になってくると思うので、それに関わる一人として心していかなければと思っています。それと、これは前から改善を呼びかけていることですが、審査員席の位置について申しあげたい。現在は最前列か2列目、それだと視野が狭くなって適正な審査ができないと考えるからです。4、5列目にしてほしいと提言しているけれどいまだに応えてくれていません。グローバルでクレバーな審査をやれる場の雰囲気をつくっていかないとボディビルの普及発展の妨げにもなると思います。
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96年5月号に掲載された吉賀氏の特集記事。前年にミスター大阪と関西のダブルタイトルを獲得している。ただのボディビルオヤジではなかった
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東京ジュニアで優勝した時の渡辺氏(85年10月号)。現在のジュニアの部と比較して、かなりレベルが高い。しかも格好良い!

重要なベストボディとの交流ボディビルの活性化にもなる

編集長 中島さんはベストボディ・ジャパンの関係者と懇意にしているので、そのあたりをお聞きしたいですね。

中島 吉賀さんもおっしゃられていたように、ベストボディ・ジャパン協会との交流が始まり、今後その交流がとても重要になると思います。12月の日本大会ではドーピングチェックもやるらしい。その背景にはJBBFとの関係があり、健全な形で進んでいくでしょう。私が考えるには、ベストボディという別のカテゴリーができたからボディビルが衰退していくというのではなく、その逆。心身を鍛える面では同じであり、両団体が交流を図ることで相乗効果が生まれ、その最終形であるボディビルの存在感は必然的に高まるのです。

渡辺 ベストボディが時代の流れにあるならばボディビル界も積極的に参画すべきでしょう。

中島 秋山(千香子)さんはどうですか。

渡辺 とくにボディビルは現在、女子が低調なだけにフィットネスを含めて盛り上げていかないと。大澤(直子)さん、神田(知子)さん、そして秋山さんらがフィギュアのフィジークでベストボディに出るのはいいと思いますね。私のブログにも書いたことがありますが、メルセデス・グスマンのセクシーストロングをアピールしていけば若い人にも受けるのではないでしょうか。

川島 ボディビルにおける健康面の良さをどんどんアピールしていくことが大事。いまはどちらかというとムキムキの筋肉だけという印象が強いため、一般の、とくに若い女性が少し引いているように感じます。

中島 その入口としての役割をベストボディは持っていると思う。いきなりボディビルのコンテストに出るのは無理があるけど、ベストボディなら行けるかなと。その中からボディビルへ進もうという人も出てくると思います。

渡辺 自衛官、レスキュー隊員、レスリング、ウエイトリフティング、パワーリフティング、格闘家などの人たちにもかっこいい体の人が多くいる。そういう人たちにフィギュアやベストボディに出てもらえるような広報活動が必要ではないかと思います。

吉賀 若い人たちの目を惹かせる魅力あるものをどんどん発信していかないと、入りやすいようにハードルを下げないと高齢化が進んでいくだけです。

川島 門戸を広げないと。ボディビルの専門家だけでなく、トレーニングに関連する他の業種やメディアや芸能関係の人たちに参加してもらえる場を設けたり、一般の人たちにボディビルというものを身近に感じてもらえるような楽しい催し物を開くことも必要ではないかと思います。

編集長 お話は尽きませんが、そろそろお時間がまいりました。この辺りで終わりにしたいと思います。長時間にわたりまして、貴重な思い出や有益なお話しをありがとうございました。

(構成/本誌編集部)
通巻400号(97年1月号)。全日本優勝者だけに贈られるウィダー像の後ろで、バックスプレッドをとっているのは誰だ?

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通巻500号(05年5月号)。BIG★ヒデのプロデビューを特集した号でもある。表紙の写真はベニスビーチにて撮影したものだが、実は撮影の数分だけ雨が止んで撮影できたという秘話がある
[ 月刊ボディビルディング 2013年9月号 ]

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