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◎ ボディビルと私 ◎ ~ 試練と情熱 ~

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月刊ボディビルディング
掲載日:2017.12.08
太 田 実 福岡県ボディビル協会理事長
      福岡ボディビル・センター会長
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新しいジムの前で。前列中央が私
 ボディビルと私ーーこれを語るには、先ず私の生立ちから付記せねばなるまい。

 私がこの世に生をうけたのは昭和9年3月満州は蘇家屯がある。五男坊の私は両親の温い保護のもとに何不自由なくすくすく育てられましたが、6才の時、兄達と水風呂に入って我慢会をやったことから、風邪をこじらせ、助膜炎から濃胸となり、手術の結果一命は取り止めたものの、それ以来すっかり微弱になり、小学校も1年遅れて入学したのですが、それからの十数年間常に痩せていることに対し、劣等感を持ちつづけねばなりませんでした。

 小学校に入学してからは毎日泣かされ、「弱むし」とか「泣き虫ミノル」などの異名を頂戴し、腕白共のいいオモチャにされたものです。3年の頃から父のスパルタ教育が始り、剣道、柔道それに喧嘩の稽古までさせられ、5年生のころには泣き虫からガキ大将に昇進していました。
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ミスター九州当時の私
 その時、終戦、引揚者として日本の地を踏んだ時は、すっかり自信をなくし、渡せて眼玉だけがギョロギョロしているだけのガキになっていました。中学に進んでから陸上、野球、バスケットなどやりましたが、体が続かず駄目。2年の時にラグビーを見たのが病付きとなり、毎日ボールを蹴っては一人で走っていました。高校に入ってラグビー部に真先きに入部しましたが、あまりにも貧弱なのが入部したので、先輩達が唖然としていました。

 練習では一番先きにスクラムを組んでも、コーチから「太田お前はどいとれ。死ぬといかんからな」とはずされ、練習らしい事は殆どすることなく、雑用ばかりで1年を過しました。2年になっても相変らずで、1級下の奴がレギュラーになっても自分は雑用ばかり、3年になってベスト・メンバーに選ばれましたが、1日4時間以上の激しい練習も、私がぶっ倒れる迄続けられ、倒れると他の連中でほっとしたものです。

 20才を過ぎた頃も相変らずの痩せっぽ。何をしても、何を食べても体重は増えず、なかば諦めていたとき、店頭で何気なく見ていた雑誌の中に長いあいだ捜し求めていたものを発見しました。そこにボディビルでミスター・アリゾナ云々と書いてある。すごい体だ。

 それからというもの。只その事だけを考える様になりました。誰れでもボディビルをすればあの様な体になれるのだろうか。今まで色々と運動をやっても逞しい体を得ることが出来ず、立派な体格をしている人をいつも羨望の眼で見ていた私にとっては、何としてでもやりたいものでした。練習法など分らぬままに、煉瓦を両手に持って上下したり、バケツに水を入れて振り回したり、(これは水の加減で重量の調節が出来たので便利でした)。階段をかけ上ったり、腕立て伏せなど、思いつくことは何でもやって見ました。

 約半年で腕が2cm。胸囲が3cm。体重が1.5kgも増えました。これは私にとって驚くべきことでした。その頃から新聞、雑誌等にボディビルのことがよく記事になっていましたし、第1回のミスター日本コンテストも開かれ、中大路氏が初代ミスターとなってマスコミを騒がせていました。自分の肉体を改造するには、これしかないと思い、誰れで何と言おうと続ける決心をしました(当時昼体みに会社の屋上で変なことをしている私を同僚達はキ印あつかいにしていたものです)。

 セメントでバーベルらしき物を造り自己流で3ケ月程やったころ、福岡市の東中洲に福岡ボディビルセンターが開設されました。

早速入会。かなり自信を持っていたのですが、副田会長(現九州ボディビル協会々長)から最初に云われた言葉が「ずいぶ痩せていますネ」。ガッカリしたが、初めて握る本物のバーベル、ダンベルに狂喜して無茶苦茶に練習して2、3日は体を動かすことも出来ずに苦しんだことを憶えている。

 当時のサイズは身長 172、体重 54、胸囲 88(拡張)、平常 86、上腕 28、大腿 50でした。
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レスリングの相手は市丸輝男君
 入会1年後第1回のミスター九州コンテストが開催され、1位に張仁興氏(福岡)、2位に桃山和幸氏(現熊本ボディビル協会々長)、3位に私がなりました。初めて、手にしたトロフィーの感触は今でも忘れません。第2回目には坂本政雄氏(現小倉坂本ジム会長)に次いで2位、3年目に優勝。その年事情があってクラブを閉鎖されることになり、副田会長の希望で、私が後を継ぐことになったのですが。今迄の場所で続けることが出来ず、会員の車庫を借り、30名程の会員と、そこに1年程頑張り、その後住吉(博多駅近辺)の焼跡に4坪の木造バラックを建ててもらい、1年近く過したのですが、冬の辛いことと云ったらありませんでした。

 トタン屋根とすき間だらけの板囲いからは、寒気は遠慮会釈もせず這入りこみ、小屋の中に1日中居るのは並大抵のことではありませんでした。その上水道もトイレもなく、シベリヤ流刑もこのようなものだろうと思うばかりでした。

 それでも日に10人から15人の会員がトレーニングに来ていました。その当時一番感動を受けたことは、福井統氏(現佐賀県ボディビル協会々長)が佐賀市から週に3日練習に通って来ていたことです。それから練塀町の電車通に進出し、10坪の部屋でしたがとても広く感じられました。小笹和俊、市丸輝男なども会員に加わり、月に100人ちかくが練習に来るようになりましたが。ジムの維持費も数倍かかり、夜10時の閉会後、早朝まで魚市場で働きにいき、糊口をつないでいた様な次第です。

 だが、どの様に苦しくとも、ボディビルに対する情熱は初心と変ることなく持つづけていました。4年経過の後、福岡の中心地川端に移り、会員の増加と共に、現在地にジムを新築し、50坪のジムには最新の器具が並び、どこのジムと比較しても恥しくないものとなりました。それも堀立小屋から今日に至るまで終始一貫して、ここまで育てていただいた安武秀久氏(現最高顧問)の御陰であります。

 いずれ我国のボディビルも米国並みの隆盛を迎える時が必ず来ると私は信じている。その時にこそ計り知れない恩を受けた氏に最大の贈物をしようと思う。

 これからのボディビルは誰れでも気軽にトレーニングを楽しめ、広く国民運動となるようにしなければならないと思う。現在協会の働きでそれも実現真近となって来た。福岡の太田厩舎には小笹に続く駿馬が数多く出走の機会を待っている。ボディビルの目的は一人のトップビルダーを育てることではないことは私も知っている。より発展させるためには、これも一つの手段ではないだろうか。

 やがて35才になろうとしている私だが、今でもラグビーの球を追ってグランドを走りまわっている。かつては戦力なきメンバーの一員にすぎなかったのだが、今ではチームのエースとして、重戦車並みの戦力を発揮している。これもボディビルの賜物であると言えよう。後10年、いやこの先き生きている限り、バーベルを握り、ラグビーのボールを追いつづけることと思う。

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