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ボディビルと私<その1>〝根性人生〟

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[ 月刊ボディビルディング 1973年5月号 ]
掲載日:2017.10.20
柔道からプロレスリング,きびしさそのもののプロの世界を経験し,ここに肉体と精神をー体とする新しいボディビル技術を完成

東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月影四郎
記事画像1

スポーツへのあこがれ

 私が柔道からレスリング,そしてボディビルの道に入るまでには,普通ではとても考えられないような数々の得がたい経験をした。
 終戦後間もない食糧難の頃,世の中は混乱し,人々の心はすさび,街角には食に飢えた子供が無数にたむろしていた。
 読者の中にも当時の苦しさを経験された方もあると思うが,食糧を始めとするあらゆる物資の不足の他に,目的を失った国民全体の精神的な空白があった。「日本は戦いに破れ,いったいこれからどうなるのだろう」「何かをやらなければいけない」といった,あせりと不安が暗礁の中で渦巻いていた。当時,私は生まれ故郷の奈良で少年時代を過ごしていた。そして,子供心にも感じていた「何かを」が,私をしてスポーツへの道へとひきずり込んでいった。したがって,現在のボディビルへの意欲の渕源は,すでにこのころから自然と芽生えていたといってもいい。
 そこで,私のこれまでのいくつかの体験と,それから得た信念などを紹介し,読者の皆さんに多少なりとも練習の糧としていただければ幸いと思い,柔道入門時代,キビシサそのもののプロレスの世界,そして,青少年の体躯育成善導を基本にしたボディビル技術の開眼を,思い出すままに綴ってみた

〝根性を養え!!〟と自分に云いきかした柔道ワンパク時代

 私はさきにも述べたように,「何かをやらなければならない」という動機から柔道の道へと進んだ。柔道を選んだ理由は,比較的体力に恵まれていたことと,私の身近にたまたま柔道というスポーツが存在したからである。
 まったく手におえないほどのワンパク坊主だった私も,こと柔道となると誰にも負けない模範的な練習生になったものだ。とにかく私の少年時代は,柔道一筋で,何もかも私をとりまくすべてのことが,柔道のトレーニングに結びついていたといってもいい。どんなにつらいことでも,それが柔道といくらかでも関係があれば,私は喜んでその苦しさに耐えたものだ。
 その頃の思い出を2,3ご紹介してみよう。
 冬の寒い日のことだった。通学列車に乗り遅れた私は,学校まで約10kmの距離を走ったことがある。このとき,私は2つのことに挑戦してみようと考えた。1つは,その列車に対する挑戦である。乗り遅れた列車に追いついてやろうと考えたのだ。もう1つは,始業時間に間に合うことだった。
 といっても,学校に間に合うことが第一で,本気で列車と競争するつもりはなかった。ところが,夢中で走っているうちに,いつの間にか列車と競争するハメになってしまった。
 単線のため,列車は比較的スピードを落とさなければならない区間だったため,この競争に私の心はかきたてられてしまった。お陰で,始業時間には充分間に合ったが,列車との競争にはほんの少し負けてしまった。
 そして次の日,こんどは偶然ではなく,本気で列車と競争してやろうと考え,わざと列車に乗らずに挑戦することにした。幸いこの日は列車の方で信号待ちがあって,かろうじて勝つことができた。学校にいってからも嬉しくてたまらず,授業の際中も1人でニヤニヤしていた。
 それからは,柔道のためにも,足腰を鍛えるには列車と競争するのが一番だと自分にいいきかせて,毎日走りに走った。ときには列車に負けたこともあったが,あしたは必ず勝ってやろうと自分にむち打って走り続けた。
 このことが乗客の間でも評判になりいつの間にか私が走っている方の窓側に乗客が群がり,みんなで声援してくれるようになった。
 また,ある秋のタぐれ,学友と帰宅の途中のことである。
 稲刈りを終えたお百姓さんが,4斗俵を車に積んでいた。見ればいくらか腰もまがり,すでに60才を過ぎている老人だった。日焼したシワだらけのその顔は,何十年も百姓にかけた年輪がきざみこまれていた。なんとなく気の毒なこの様子を見て,どちらからともなく,「手伝おう!!」とカバンを放り出し,学友と一緒に手伝いを申出た。
 最初,お百姓さんは「ありがとう,しかし学生さんには無理だよ」と一笑し,アテにしていない様子だった。
 友だちは,すばやく4斗俵に近ずき「うん」と力を入れたが,案のじょう動かない。たとえ,腰が折れまがりそうでも,長い年月鍛え抜かれたその力にはかなわない。
 よーし,こんどは僕がやってみようと,俵に手をかけてみたら,簡単にもちあがってしまった。あまり力くらべをしたことはなかったが,連日の柔道でいつの間にか力がついていたのだ。婿しさのあまり,4斗俵をかついだまま,田んぼの中を走り廻った。そして数十俵もあった俵をまたたく間に車に積んでしまった。
 お百姓さんは目を丸くしてアッケにとられていたが,積み終わると「こんな力のある学生は見たことがない」となんどもお礼をいってくれた。私は毎日コツコツと練習することの大切さを知ると同時に,このときから力に対する自信がわき,私のワンパク時代の幕あきとなった。
 次第に足腰や体力が強化され,体格もガッチリしてきた私は,なんとかみんなに体力を誇示しようと考えた。
 あるとき,校舎の敷石をはずして,校庭にもち出し,1枚,2枚,3枚,4枚と次第に増やしながら,それをもちあげて運動場を歩きまわった。同級生たちも面白がって声援してくれた。とたんに「だれだ!学校をつぶすヤツは!!」と校長先生から大目玉をくらってしまった。
 その後も私のワンパクぶりはますますエスカレートしていった。これに手をやいた体育の先生は「つまらんことにエネルギーを使わないでキチンとした器具を使って運動しなさい」といって鉄棒をすすめてくれた。
 それからは毎日,ランニングと鉄棒が私の日課になった。そして,運動会のアトラクションとして,小柄な級友を腰にぶら下げて数十回の懸垂をやってみせた。さすがの校長先生もびっくりして,それからは公認のワンパクとしていくらか大目に見てくれるようになった。
 このようにして,いろいろなワンパクもしたが,これらはすべて柔道に強くなりたいための鍛練のつもりでやったのである。お陰で上達も早く,メキメキ力がつき,もはや学校の柔道部では私にかなうものはなくなってしまった。
そして,奈良県の学校対抗柔道大会に出場するまでになったのであるが,この柔道大会が一つの転機となり,天理道場から東京講道館へと,柔道家を目指して一歩駒を進めることになってしまった。
〔プロレス・ファンにはおなじみのグレート・アントニオと一緒に〕

〔プロレス・ファンにはおなじみのグレート・アントニオと一緒に〕

無頼漢といわれた恩師の思い出

 さて,こうした少年時代にどうしても忘れられないのが,恩師,阪元忠良先生のことである。
 先生は確か柔道6段で,ニック・ネームを〝無頼漢〟といい,その名は奈良御所の町,いや近隣の大阪にまでひびき渡っていた。私に輪をかけたようなワンパクものだったが,その心は美しく,潔癖で実直,正義に満ちあふれていた。その無頼漢ぶりは,いつも弱きを助け強きをクジくときに限られていた。奄美大島で育った先生の心は南海の美しい海のように青く澄みきっていたにちがいない。
 当時の新聞に「無頼漢,正義の剣を振りおろす」と大きく報道された事件があった。無頼漢とは,もちろん阪元先生のことである。
 この事件のあらましは,終戦直後の大阪はあべの橋で起きた。焼野原になったこの一帯には,やみ市が店をつらねていた。そして,当然のように町のダニどもが寄生し,暴力団の巣となって,食べ物に飢えて集まってくる市民に悪の限りをはたらいていた。
 たまたま通りかかった先生の正義の虫が爆発し,20数人のチンピラを相手に大立廻りを演じたすえ,残らずこの暴力団を一掃してしまったのである。
 この立派な先生を,私が一生師とあおぐようになったのも,まことに奇異の出来事が縁だった。
 その頃の私は,二つも三つも年うえの人を相手にけんかをしても負けないほどの実力があり,学校では次第にそのワンパクぶりが注目されはじめた。同級生たちは〝さわらぬ神にたたりなし〟とばかりに,なんでも私のいいなりで,どんな無理をいっても絶対服従という状態だった。私もそれをよいことにして,天狗づらをしてノシ歩いていた。
 ある日,7~8人の子分(といっても同級生の悪友たちだが)をしたがえ阪元先生に挑戦をするハメになった。すでに学校内では私より強い人は見当らず,あとはこの先生を破って,みんなに私の実力をみせる以外に方法はないと考えたのだった。
 もちろん,挑戦するといっても,けんかをするわけではなく,柔道で勝負をつけようというのである。学校の道場ではすでにこの手合わせの準備は整った。
 実はこのときはまだ先に述べたような先生の武勇伝を私は知らなかったのである。体格もすでに先生と同じくらいに発達しており,なにしろ私には若さがあるのだから,当然いい試合になり最後には私が勝つという予想を1人でたてていた。
 いよいよ試合は始開された。そして一瞬にして私の予想はくつがえされてしまった。私の柔道着に先生の手がさわったと思ったとたん,私の体は宙に浮きアッという間に投げとばされたかと思うと,のどのあたりにグイグイくい込むように太い腕の輪で締めつけてきた。苦しさのあまり,しばらくバタバタともがいていたが,そのうちに目の前がボーとかすんできた。血が昇ったかのように,一瞬,顔があたたかくなり,そして全身の力が抜けていってついに意識がなくなってしまった。
 体格は大きくて強そうに見えても,先生から見ればまだまだ子供で,まともに勝負しようとした私があさはかだった。
 私はこの〝首じめ〟で人事不省になり,子分どもは顔色を失って医者や家族に知らせにいったらしい。そのとき先生は,救急病院に向う車の中で人口呼吸をほどこしてくれたりして「少し手きびし過ぎた」とひとりごとをもらしていたと聞いた。
 病院についても,医者は不安そうに頭をかしげて,それはそれは大変な騒ぎになった。(これは元気になったあとで母が話してくれた)
 幸いにも,元来丈夫だった私は一命をとりとめることができたが,母からはこっびどく叱られた。日ごろ奔放無比に育ってきた私は,このときほど反省させられたことはなかった。また,先生も,これにこりてもうワンパクはしないだろう。そして二度と挑戦してこないだうと,たかをくくっていたらしい。

師から学んだ〝鬼の首じめ〟

 この試合は,いまになって考えれば身ぶるいするような結末になったが,これは日頃手におえない私のワンパクをいましめるための制裁の意味が多分にあったらしい。
 つまり,組むやいなや一本背負いをかけられ,投げとばされた私は,先生の最も恐れられている〝首じめ〟をかけられた。もちろん,一本背負いですでに勝負ははっきりついていたのだがさらに〝首じめ〟の追打ちをかけ,私の根性をたたきなおそうとしたのだった。以後,私の無軌道なワンパクも影をひそめ柔道一本にうちこもうと考えた。
 私はこの事件のあくる日,もう一度自分の実力を試してみようと,まだ足元がふらついているにもかかわらず,またもや先生に勝負を挑んだ。そのときはもう立っているのがやっとという状態で,先生は「元気になったらいくらでも挑戦を受けてやるが,いまはやめておけ」と忠告してくれたが,私はそんなことには耳をかさず,足をひきずり,倒れればはいずりながら先生に向っていった。
 もちろん,このときも勝負にはならなかったが,倒れてもまだ向っていく私を見て,「この男〝なかなかやりおる!!〟基本からみっちり教えてやろう」と,柔道の教授を買って出てくれた。こうして私は,よい指導者のもとで徹底的に柔道の技と精神をたたき込まれることになった。このとき教えていただいた〝首じめ〟が,後日,〝鬼の首じめ〟とみんなから恐れられた私の特技の一つである。
 こうして柔道にうちこむと同時に私の行状は一変,半年後には「高ぼう」(本名,高木清晴の高をとった愛称)とみんなから親しまれるまでに変身した。学校内での私の悪名はいつしか消え〝正義の男〟と変わっていった。
(つづく)
トピックス

●ケン・ウォーラー訪日か?
 最近メキメキ実力をつけ,マイク・カッツ,エド・コーニーの2強豪をくだして'72IFBBインター・ナショナルの王座についたケン・ウォーラーが旅行の途中日本に立寄るという。彼と親しいアメリカの写真家が知らせてくれたのだが,いつごろになるのか詳しい日程はまだわからない。

●シュワルツェネガー大ケガ
 数カ月前,南アフリカを旅行中のシュワルツェネガーが大ケガをした。
 彼はあるコンテストのゲスト・ポージングの最中,ポージング台がこわれて倒れ,病院に入院するほどの大ケガをしたのだが,処置がよかったのと,鍛えあげた体は回復も早く,現在ではピンピンして体調もよく,これからのコンテストにはまったく影響ないとのこと。

●ビル・パール,ジムを拡張
 ご存知ビル・パールは,ことしからコンテストに出るのをやめて,ジム経営に本腰を入れることになったが,最近,いままでのジムのうしろ側に大きなルームをつけ足した。
 40才を過ぎた彼は,いまでもトレーニングに励んでおり,年をとるとともにますますよくなっていくように思われる。コンテストには出ないが,エキジビションには出るようにしたいといっている。

●ボイヤー・コー,南アフリカへ
 WBBGミスター・ギャラクシー・コンテストでセルジオ・オリバに敗れたのち,かつてないほどの激しいトレーニングに打ち込み,その後のミスター・ワールドで優勝をとげたボイヤー・コーは,近いうち南アフリカへの旅行を計画している。最近南アフリカへはシュワルツェネガーやコロンボをはじめ,たくさんの有名ビルダーが旅行しているが,多分,かの有名なレジ・パークを訪ねる目的もあるのだろう。
[ 月刊ボディビルディング 1973年5月号 ]

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