ボディビルとナルシシズム
[ 月刊ボディビルディング 1973年7月号 ]
掲載日:2017.10.25
昭和30年頃の世相をひとつの壁として,その時代に生きる4人の考え方の違う青年が,それぞれその壁に反応する仕方を描いたのが三島由紀夫氏の小説「鏡子の家」だ。
1人はボクサーで,「俺はその壁をぶち割ってやるんだ」と考え,1人はナルシストの俳優で,「僕はその壁を鏡に変えてしまうんだ」とボディビルに熱中し,1人は日本画家で,「僕はとにかくその壁に描くんだ」と思い立つ。さらに1人は,「俺が壁になるんだ。俺が壁自体に化けてしまうんだ」という有能な商社マンである。
そして4人がそれぞれの生き方をして,それぞれに失敗し,挫折する。
さて,私はなにも「鏡子の家」の解説をしようと思っているのではない。三島氏が小説の中で典型的なナルシストとして描いたボディビルダーについて考えてみたいのである。
その前にナルシシズムについて,ちょっと説明をしておきたい。
ギリシャ神話にナルシスという美少年が出てくる。見惚れるような美少年で,人々の賛美は限りない。自分でもその美しさを意識していて,いつも池のほとりで自分の姿を水に映し,その美しさに慌惚と酔うことを無上の喜びとしていた。
くる日もくる日もそうしていたが,ある日,自分の姿をよく見ようとして池に落ちて死んでしまった。神々がその美しさを惜しみ,池のほとりに花を咲かせたが,その花がナルシス(水仙)なのだ。という物語りをまず頭の中に入れておこう。
つまり,自己愛のことをナルシシズムという。
われわれの周囲を眺めて,ボディビルダーには多少ともナルシシズムの傾向があるのは偽らざる事実だろう。私は,ナルシシズムがすべていけないとは思わない。どんな人間にも多かれ少なかれうぬぼれはある。問題は,無意識で没理性的なナルシストになれば美少年ナルシスが池に落ちて死んだと同じような弊害が必ず現実に生じるであろうということを強調したい。
極端なナルシストは,自分自身の美しさに酔ってしまい,池も人々も社会もみんな自分を映す鏡でしかないわけだ。したがって,自分以外の価値は理解できず,他を愛することも,外の世界に何かを創ることもできない。自己満足の果てしないくり返しである。
前回,「ギリシャ展とボディビル」の中で,ボディビルダーの美意識についてふれてみたが,要するに,ボディビルダーは自分の肉体を美そのものに仕立てあげようとする人体芸術家の一面があるだけに,求める美が自分の外でなく,自分自身にあるのだから,主体と客体の区別がつかなくなりやすいともいえよう。
ここらあたりにボディビルダーがナルシストになりやすい原因があるのではないだろうか。つまり,自分が求めてきた美しさを,自分の肉体に見出したとき,それは限りない喜びにちがいない。それを鏡に映して満足し,さらに人々に賞賛されて満足する。
三島氏が,いみじくも小説のボディビルダーを俳優という職業にしたのも俳優という職業にも多分にそのような要素があることを読みとっていたからに違いない。
普通,このような心理を女性的と呼ぶことが多い。女性が化粧に浮身をやつし,容姿の美しさを誇る心理こそナルシシズムそのものといってよいだろう。そして女性の場合は,それが意識的にも無意識的にも女性として生きることの本質とも直結し,生きる手段にも連なっているといってもいいのではないだろうか。
最近のウーマンリブの女性たちがどう主張しようと,世の中の大多数の男性は,理屈っぽい男性顔負けの女性より,美人でスタイルのいい可愛い女性に弱いのが実状である。男は有史以来何千年,女性の色香に迷ってきたし,今後も迷っていくにちがいない。
であるから,女性のナルシシズムはむしろ自分を磨く本能として,当然のことといってよいだろう。また,磨きあげるほど多くの男性の心をつかむこともできるだろう。まさに女性にとってはナルシシズム万歳である。
だが,われわれ男性にとっては,ナルシシズム万歳は一部の女性的な生き方をする怪しげな男性を除いては唱えかねる。
男性の場合は,自分の肉体の美しさに自ら陶酔し,それを人々に誇ってみても,果してそこから男性としての創造的な生き方が生まれるだろうか。
いかに二枚目の俳優であっても,芸という能力を磨かなければ,あっさりと仇花のごとくいつかはしぼんでしまう。つまり,男性の場合は,ナルシシズムの心理は,それにのみ浸っている限り創造性は断じて生じないといっても過言ではあるまい。
すなわち,女性の場合は,自分の肉体を美しい作品として他にも通用させることができるが,男性の場合は,その美しい作品に男性としてのいろいろな能力が伴わない限り,世の中では価値が生じないことを知るべきだろう。
ではここで,男性と女性の肉体の機能と構造の違いを考えてみようではないか。
なぜ男性の方が女性より生来大きく筋力も強いのか。さらに,精神的にも男性は理性的で客観性のある働きが強く,女性は感情的で主観的な働きが強いのか。ということは,本来,男性は女性より行動的であるように機能づけられているからではないだろうか。
文明の発達した現代では,生活の手段として必ずしも男性的能力を必要としなくてもよい分野が拡がってきつつある。しかし,自然の摂理からみればやはり女性は子供を産むという宿命上男性よりは外で活動するという点で適していない。男性は山野を走り回って獲物を求め,あるいは,外敵と闘うといったような行動に適するように,その肉体の構造機能ができあがっているのである。
そのような行動性のある機能をそなえた男性の肉体が,外に向って行動せず,ナルシシズムにのみ浸っているのは自然の在り方ではないだろう。
女性に待つ美しさがあるとすれば,男性には挑む美しさがある。ナルシシズムには挑戦的な男の美しさは感じられない。
ただし,ナルシシズムを自己満足の具にしないで,自らを規制する美意識として自らの誇りにまで高め,それを他に挑む行動のバネとして活用していくならば,あながち弊害とばかりはいえないだろう。
人間誰しも自分は可愛い。どうせ可愛いなら,底の浅い可愛がり方をせずより深く,より本質的に自己を生かすような可愛がり方をすべきではないだろうか。他との関連,社会とのふれ合いによって自己を鍛え,そして自己に沈潜するときは,より深く沈潜して自己を養ってこそ,ひとりよがりではない価値のある男の生き方といえるだろう。 (玉利 斉)
1人はボクサーで,「俺はその壁をぶち割ってやるんだ」と考え,1人はナルシストの俳優で,「僕はその壁を鏡に変えてしまうんだ」とボディビルに熱中し,1人は日本画家で,「僕はとにかくその壁に描くんだ」と思い立つ。さらに1人は,「俺が壁になるんだ。俺が壁自体に化けてしまうんだ」という有能な商社マンである。
そして4人がそれぞれの生き方をして,それぞれに失敗し,挫折する。
さて,私はなにも「鏡子の家」の解説をしようと思っているのではない。三島氏が小説の中で典型的なナルシストとして描いたボディビルダーについて考えてみたいのである。
その前にナルシシズムについて,ちょっと説明をしておきたい。
ギリシャ神話にナルシスという美少年が出てくる。見惚れるような美少年で,人々の賛美は限りない。自分でもその美しさを意識していて,いつも池のほとりで自分の姿を水に映し,その美しさに慌惚と酔うことを無上の喜びとしていた。
くる日もくる日もそうしていたが,ある日,自分の姿をよく見ようとして池に落ちて死んでしまった。神々がその美しさを惜しみ,池のほとりに花を咲かせたが,その花がナルシス(水仙)なのだ。という物語りをまず頭の中に入れておこう。
つまり,自己愛のことをナルシシズムという。
われわれの周囲を眺めて,ボディビルダーには多少ともナルシシズムの傾向があるのは偽らざる事実だろう。私は,ナルシシズムがすべていけないとは思わない。どんな人間にも多かれ少なかれうぬぼれはある。問題は,無意識で没理性的なナルシストになれば美少年ナルシスが池に落ちて死んだと同じような弊害が必ず現実に生じるであろうということを強調したい。
極端なナルシストは,自分自身の美しさに酔ってしまい,池も人々も社会もみんな自分を映す鏡でしかないわけだ。したがって,自分以外の価値は理解できず,他を愛することも,外の世界に何かを創ることもできない。自己満足の果てしないくり返しである。
前回,「ギリシャ展とボディビル」の中で,ボディビルダーの美意識についてふれてみたが,要するに,ボディビルダーは自分の肉体を美そのものに仕立てあげようとする人体芸術家の一面があるだけに,求める美が自分の外でなく,自分自身にあるのだから,主体と客体の区別がつかなくなりやすいともいえよう。
ここらあたりにボディビルダーがナルシストになりやすい原因があるのではないだろうか。つまり,自分が求めてきた美しさを,自分の肉体に見出したとき,それは限りない喜びにちがいない。それを鏡に映して満足し,さらに人々に賞賛されて満足する。
三島氏が,いみじくも小説のボディビルダーを俳優という職業にしたのも俳優という職業にも多分にそのような要素があることを読みとっていたからに違いない。
普通,このような心理を女性的と呼ぶことが多い。女性が化粧に浮身をやつし,容姿の美しさを誇る心理こそナルシシズムそのものといってよいだろう。そして女性の場合は,それが意識的にも無意識的にも女性として生きることの本質とも直結し,生きる手段にも連なっているといってもいいのではないだろうか。
最近のウーマンリブの女性たちがどう主張しようと,世の中の大多数の男性は,理屈っぽい男性顔負けの女性より,美人でスタイルのいい可愛い女性に弱いのが実状である。男は有史以来何千年,女性の色香に迷ってきたし,今後も迷っていくにちがいない。
であるから,女性のナルシシズムはむしろ自分を磨く本能として,当然のことといってよいだろう。また,磨きあげるほど多くの男性の心をつかむこともできるだろう。まさに女性にとってはナルシシズム万歳である。
だが,われわれ男性にとっては,ナルシシズム万歳は一部の女性的な生き方をする怪しげな男性を除いては唱えかねる。
男性の場合は,自分の肉体の美しさに自ら陶酔し,それを人々に誇ってみても,果してそこから男性としての創造的な生き方が生まれるだろうか。
いかに二枚目の俳優であっても,芸という能力を磨かなければ,あっさりと仇花のごとくいつかはしぼんでしまう。つまり,男性の場合は,ナルシシズムの心理は,それにのみ浸っている限り創造性は断じて生じないといっても過言ではあるまい。
すなわち,女性の場合は,自分の肉体を美しい作品として他にも通用させることができるが,男性の場合は,その美しい作品に男性としてのいろいろな能力が伴わない限り,世の中では価値が生じないことを知るべきだろう。
ではここで,男性と女性の肉体の機能と構造の違いを考えてみようではないか。
なぜ男性の方が女性より生来大きく筋力も強いのか。さらに,精神的にも男性は理性的で客観性のある働きが強く,女性は感情的で主観的な働きが強いのか。ということは,本来,男性は女性より行動的であるように機能づけられているからではないだろうか。
文明の発達した現代では,生活の手段として必ずしも男性的能力を必要としなくてもよい分野が拡がってきつつある。しかし,自然の摂理からみればやはり女性は子供を産むという宿命上男性よりは外で活動するという点で適していない。男性は山野を走り回って獲物を求め,あるいは,外敵と闘うといったような行動に適するように,その肉体の構造機能ができあがっているのである。
そのような行動性のある機能をそなえた男性の肉体が,外に向って行動せず,ナルシシズムにのみ浸っているのは自然の在り方ではないだろう。
女性に待つ美しさがあるとすれば,男性には挑む美しさがある。ナルシシズムには挑戦的な男の美しさは感じられない。
ただし,ナルシシズムを自己満足の具にしないで,自らを規制する美意識として自らの誇りにまで高め,それを他に挑む行動のバネとして活用していくならば,あながち弊害とばかりはいえないだろう。
人間誰しも自分は可愛い。どうせ可愛いなら,底の浅い可愛がり方をせずより深く,より本質的に自己を生かすような可愛がり方をすべきではないだろうか。他との関連,社会とのふれ合いによって自己を鍛え,そして自己に沈潜するときは,より深く沈潜して自己を養ってこそ,ひとりよがりではない価値のある男の生き方といえるだろう。 (玉利 斉)
今月のカバー・ビルダー
'72ミスター日本4位
須藤孝三
昨年秋から上半身にバルクをつけることに専念していたが,やっとその効果が現われ始め,以前ほど上半身と下半身のアンバランスが目立たなくなった。
今年のミスター日本コンテストでは,昨年2位の石神選手と一騎打ちになる公算が強いが,現在のバルクを維持しつつ,カットをつければ,石神選手を破ることも不可能ではないだろう。
撮影は5月6日,全日本実業団パワーリフティング選手権大会が行われた四日市市立体育館のとなりにある市営プールで行われた。真黒に日焼けした肌がプールの水の青さに映えて美しい。
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昨年秋から上半身にバルクをつけることに専念していたが,やっとその効果が現われ始め,以前ほど上半身と下半身のアンバランスが目立たなくなった。
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