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ボディビルと私<その2>
”根性人生”
東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月影四郎

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[ 月刊ボディビルディング 1973年6月号 ]
掲載日:2017.10.25

天理中との思い出の一戦

坂元先生との一件のあとしばらくして私は御所工、いや御所の町で決定的なヒーローになった。それは、日本柔道界に数々の名選手を送り出している天理中(天理高の前身)との試合のことである。

いまも昔も、柔道の優勝といえば「天理」と天下に名をとどろかせており、当時も毎回優勝は天理というのが大方の予想だった。そして、県の対校試合でこの強敵天理と御所工が優勝戦で顔を合わすことになった。天理の伝統と実力からみて、わが御所工がこの一戦に勝って県大会に優勝することは容易なことではない。これがため、御所の町、天理の町を挙げての注目の試合となった。

だいぶ昔のことであるから、中等学校(いまの高校)の花形スポーツは野球と柔道であった。今日のように多様なレジャーもなく、娯楽といえば、映画か、この二つのスポーツが人々の話題や関心事の中心であったことはいうまでもない。

いよいよ試合の当日となった。柔道の試合は組合わせで勝敗が大きく左右されるといわれている。前夜の作戦会議で相手の分析を入念にした結果、私が大将という大方の予想を大きく変え私は副将として出ることになった。天理中の方は、優勝馴れしており、自分の実力を信じているので、さほど作戦は変えてこないだろうとの私たちの思わくどおり、いつものメンバーが発表された。

天理中の大将は、御所工の組合わせを見てニャッと視線を合わせてきた。私はそのとき「してやったり」、作戦はまず成功、これで絶対勝てるという例の根性の虫が体の中でムズムズしてきた。

一番、二番、三番、四番と試合が進み、次は副将の私が軽く一本をとって御所工3勝、天理中2勝という結果になった。あとは大将戦を残すだけであるが、天理の大将は無敵の巨漢で、勝負ははじまる前から決まっていた。御所工の大将は簡単に押え込まれて3対3の延長戦へと進んだ。

こうなると、問題なく天理中が優勝するものと決めていた観衆は、御所工の善戦に騒然となってきた。この最近まれな好試合を実況放送したラジオのアナウンサーも熱が入り、声がうわずってしまったという。近所の私のファンは、延長決定戦は”高ぼう”が出るものときめつけ、みんなで高木の家へ応援に行こう、と私の家のラジオの前に集まって来たと母があとで話してくれた。

主将と監督で相談した結果、「高木!!延長戦に出ろ。天理はあのデブに決まっている。重いだろうが、あの足に負担がある、足を攻めろ。君は走り込んでいる、足の勝負ならもらったも同然だ」とポンと肩をたたかれた。

よし、いまこそ私の根性を見せてやるときだ。あの「汽車との競争」「俵積みのこと」「敷石の練習」「懸垂」そして「坂元先生との一戦」、いろいろなことが走馬燈のように私の頭の中に浮んでは消えていった。そして、気持ちはすっかり整理され、いつになく落ち付いた”無我の境地”とでもいいたいような心境であった。

優勝決定戦は作戦どおり相手の足を攻めてアッという間に終わってしまった。「高ぼうやった」「御所工が優勝した」ボーッとしている私の耳に興奮した応援団の声が聞こえてきた。無敵の天理を破ったのだ。しかし、私はそれほど興奮しなかった。というより強い緊張感から解放された一瞬、全身から力が抜けて、なにがなんだかわからなくなってしまったといったほうが適切かも知れない。

家に帰って母から「今日はよくやってくれたね」といわれて、はじめて嬉しさがこみあげてきた。急にジッとしていられなくなり、ニヤニヤしながら家の中を走り廻ったのを覚えている。

この試合を通じて坂元先生から教えていただいた”無我”という指導理念を体得することができたような気がする。悔いのない練習と節制をしたあとで、はじめて勝敗を度外視した
この無我の境地になれることも知った。そして、後輩たちにもよく、日ごろの努力と、それから生まれる自信がいかに大切かを話してやったものだ。

プロへの”転身”と”挑戦”

桜が散り藤が咲きかけるともう夏に近い。人々の心にすみきった青空と若葉のもえるような緑がはえる頃になったが、私の心はそんなうきうきしたものではなかった。頭の中にあるのはいつも柔道のことだけだった。見るもの聞くもの、そして夢までがすべて柔道にむすびついていた。やがて私はとりつかれたように講道館へと通いはじめるようになった。

こうして柔道に明け暮れる生活が、ようやく板についてきた。と同時に、いつとはなしに学生時代には考えられなかった強さと技が築かれていた。そして、将来柔道家として進もうという気持が自然に涌いてきた。

ちようどその頃日本柔道界も全盛期を迎えようとしていた。敗戦によって打ちのめされた人々の心にもようやく明るい陽ざしがみえてきた。飢餓寸前だった食糧事情もいくらか好転し、日本人の体力も回復しはじめてきた。そして、戦争に勝つために注がれていた若者たちの精力がスポーツへと転換していった。

このような世相の中で、私はまったく無我夢中で柔道に取り組んだ。少しでも強くなりたい、少しでも技を磨きたいと、純真な気持で練習に励んだ。いまでもあの頃の汗くさい男の体臭がしみこんだうすぎたない柔道着がなつかしく思い出される。こうして私はいつしか5段となり、なおも上級への意欲に満ち、それを糧としてさらに激しい練習に打ちこんだ。

プロ柔道連盟へ参加

一方、その頃アメリカの影響もあって、次第にプロ野球の人気が高くなりつつあった。それと同時に柔道界においても、いままでの柔道から一段と飛躍した「プロ柔道」をつくろうという気運が高まり始めた。

プロ・スポーツは、片方では観客を意識したショーとしての性格を有してはいるが、もう一方では、一般アマ・スポーツにない高度な技術ときびしさが要求される世界といえる。とくにプロ柔道の場合は、より高い水準を求めて精進し、そしてそれが極限に達したとき「極意」「さとり」といった過程をたどり、やがてそれが完成したときはじめてプロとしての存在がある。これが当時考えられたプロ柔道だった。

その頃、私の名前も柔道界においていくらか知られるようになっていた。そして、現在拓大師範をしておられる木村政彦七段の師匠であった牛島辰熊八段からプロ柔道連盟発足の話がありぜひ参加して欲しいということで、私は喜んで参加することにした。

牛島八段のことは後述するが、当時私はさらに高度な技を研究し、心技体の一体となった柔道を目指していたので、この話に魅力を感じ二つ返事で承諾したのだった。

こうしてプロ柔道連盟が発足したのが昭和25年4月のことである。そしてこれが現在茶の間で人気絶頂の「プロレスリング」の前身となって発展していくのであるが、このプロ柔道とプロレスの関係については案外知られていないようだ。

プロ柔道連盟の第1回興業は、発足して早くも10日後の昭和25年4月16日に東京・芝のスポーツ・センターで行われた。始めての興業にもかかわらず4000人余の観客を集めた。

このときのプロ柔道連盟の陣客を紹介すると、まず役員連には飯塚国三郎十段を筆頭にして、前述の「鬼の牛島」と呼ばれた牛島辰熊八段、寺山幸一八段等、柔道を心ざした者なら誰でも知っている壮々たる当時の師範格の人たちである。

選手陣としては、当時柔道界でよく「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」といわれ、日本柔道界において不世出の強豪といわれた木村政彦七段を筆頭に、テレビでもよくご存知の元日本プロレスラー協会師範、山口利夫六段、坂部康行六段、さらに東京オリンピックで金メダルを獲得した猪熊六段の師匠である渡辺利一郎六段等がプロ六段陣として登場した。

さらに五段陣には若輩ながら私、当時本名高木清晴(現在月影四郎)、今村寿五段、近藤舞五段、川口良男五段、宮島富男五段、その他、三・四段陣を加えて総勢22名という豪華な陣客であった。(文中にでてくる段位はすべてその当時の段位)
故・力道山となんば体育館で。右前は滝川泰彦コーチ

故・力道山となんば体育館で。右前は滝川泰彦コーチ

きびしいプロ柔道の試合形式

このプロ柔道の試合形式は、引分けや優勢勝ちは一切なく、勝つまでやるというもので、もちろん場外投げも認められていた。さらに、講道館では危険な技として禁手になっていた「かにばさみ」「抱きあげてからの投げ」なども、すべて認められるという大胆なルールだった。これは従来伝統を誇る講道館が求めてきた体育のための柔道の概念を大きく突き破ったきびしいものであった。

そして金看板の木村七段は、プロ柔道に参加するために講道館柔道の最高峰のまま講道館を去ったのだったが、講道館当時あまりの強さに六段をとび越えて五段から一躍七段をゆるされたという人で、このプロ柔道においてもシード選手として別格におき、残りの選手が8組にわかれてトーナメントを行い、その優勝者が木村七段と決勝を争うというもので、そのうえに木村七段にも条件を揃えるため、前もって7人掛け(7人がつぎつぎかかっていく方法)をとっていた。

当時私の名も、プロレスでおなじみの遠藤幸吉六段や角野六段、渡迈六段、近藤五段らとともに、その7人掛の中に名を連らねていた。

さて、第1回の興業でプロ柔道の魅力が認められ、いよいよ東北から北海道へと巡業することになった。

選手たちはプロの名を恥ずかしめないために連日はげしい練習をつんだ。お互いに敵であると同時によきライバルでもあり、みんな悲願、打倒木村を合言葉としてがんばった。この打倒木村の精神は、プロ柔道と根性を育てるためのよき目標であった。

最初の試合は旭川警察との対抗試合だった。旭川警察からは助教格の五段六段といった高段者が出場し、プロ柔道側からはそれより下の段位の者が対戦するという方法だった。警察官の中には、プロ柔道が柔道の専門家でも。われわれ警察官もプロ同様の練習をつんでいると、大変なハリキリようだったが、結果は予想どおりプロ柔道チームの全勝であった。

それ以後、相手は地元有志と警察,あるいはその選抜軍と、その組合わせや作戦にあれこれと工夫をこらして挑戦してきたが、登別大会、函館大会と続いた試合もすべて連勝連破という結果だった。

津軽の岩壁で恋の決闘

プロ柔道連盟の最初の遠征も、こうして勝ち進んでくると、いつしか精神的なゆるみが生まれてくる。私はチームの一番若輩であったが、みんながだんだんと英雄気どりになり、練習もいくらかおろそかになって初心を忘れかけようとしているのが気になってしかたがなかった。

函館の試合を終わって市内のホテルで地元有志との夕食会のときのことだった。

宴会まで少し時間があったので、私は1人で部屋で片付けものをしていた。そのとき可愛らしい娘さんがあいさつに来た。その純真そのものの態度と容姿に、一目で私はあこがれのようなものを感じてしまった。

いままでワンパクと柔道一筋に生きてきた私は、女性とはほとんど話さえしたこともなく、まして恋愛などということには無関心だったが、このとき初めてなにかピンとくるものがあった。
この可愛らしい娘さんの名は芳子さんといった。

やがて宴会が始まり、酒豪ぞろいが飲むほどに酔うほどに、だんだん無礼講になってきた。こうなってくれば商売柄とはいえケンカ、力くらべがつきもの。そんな雰囲気に私は「これでよいのだろうか」と心のすみで1人で反問をくりかえしていた。

こんな状態がしばらく続いたとき,さっきの娘さんが仲居さんに混って酌をしているのに気がついた。そのとき突然、われわれの仲間である大里文平(仮名)というやつが、その娘さんの手を引き寄せ乱暴をしようとしているではないか。私はムラムラと頭に血がのぼり、「やめろ!やめんとぶんなぐるぞ!!」と、すし皿をふりあげて彼の前に立ちはだかった。

かくして、娘さんをめぐっての大乱闘が始まり、私もすし皿でひたいに切りきずを負ったが、それにもめげず彼の顔が変形するほどたたきのめしてやった。

このさわぎを聞いて牛島八段がやってきた。一部始終を聞いた牛島八段は「よしわかった。明日、もっと広い場所で娘さんのために決闘したらどうか」と仲裁案を出した。

この西部劇もどきの仲裁条件にホテルの娘さんも「私のためにこんなことになってしまって」と困っていたが、内心は、自分のために大男2人が決闘するというのでうれしそうであった。
この娘さんの態度をよみとった私はなんとしてでもこの決闘に勝って、この娘さんを恋人にしようと、若い血潮をかきたてずにはいられなかった。

そして翌日、汐の香のただよう津軽の岩壁で決闘することになった。若い私はやる気充分。相手はどうも気分が乗らなかったらしいが、牛島八段の仲裁条件でもあり断わることもできずやむなく応じたという態度である。もうこうなれば勝負ははっきりしている。

私は組打ちをするやいなや、必殺の”偶返し技”でほうり投げた。彼はひとたまりもなく宙に浮いて、ほう物線をえがいて津軽の荒波にもんどりうって投げ出された。

もちろん、この恋心をかけた決闘は私の勝ちで、牛島八段の仲裁のおかげで私は芳子さんの心をつかみ、彼女とあたたかい握手を何度となく交わし,うしろ髪を引かれる思いでこの初恋の函館をたっていった。(つづく)
東大阪ボディビル・センター

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(筆者は東大阪市足代新町1~22 東大阪ボディビル・センター会長)
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