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JBBAボディビル・テキスト① 指導者のためのからだづくりの科学

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[ 月刊ボディビルディング 1973年8月号 ]
掲載日:2017.10.30
日本ボディビル協会指導員審査会委員長
佐野誠之
第一章 総論

<1>序論

 ボディビルとは,ボディビルディングを略した和製の名称で,ウェイト・トレーニングを主として行う,体力づくり,体格づくりの運動である。このボディビルが,わが国で一般に行われるようになったのは,いまから約20年前である。
 当初は,この聞きなれない言葉に,「それはどんな建物なんだ」などという笑い話のようなこともあり,今日のように一般に知られるようになるまでには,ずいぶん見当違いの意見や無理解の人たちとの論争もあった。ふりかえってみるとまさに昔日の感にたえない。
 第一期ブームといわれた昭和30年ごろは,在来から広く知られている他のスポーツでは,さして問題視されずにみすごされていたことがら,たとえば怒責作用とか柔軟性等についても,ボディビルに関しては,その実体を認識せず,事実誤認の観念のもとに,種々の批判を受けた。
 それらの批判に対して,当時のボディビル関係者はこぞって反論を展開しボディビルの正しい普及発展に努力した。その結果,現在では日本ボディビル協会の登録会員は,全国におけるジム100軒余,実業団加盟クラブ100事業所に近く,都道府県協会も30有余をかぞえるにいたり,それぞれ活発な実践活動を行なっている。これは,ボディビル界が,一部の批判をのり越えて各界の暖い理解と協力に支えられた,苦難の歴史の結実である。
 しかし,残念ながらいまだに他のスポーツ関係者の中にはボディビルに対して批判的,否定的な人たちがいる。これらの人たちも,基礎体力養成に,また,補助補強手段として,ボディビルと同じウェイト・トレーニングを採用していながら,ボディビルに批判的なのはなぜだろうか。
 体力づくり,体格づくりといった基礎体力養成に,ウェイト・トレーニングの卓越性をいち早く先取りして,これの発展に努力してきたボディビル界を,なにゆえに事実誤認するのだろうか。東京オリンピック前後より,ウェイト・トレーニングの効果を認め,その吸収活用に努めながら批判的なのはどういう理由なのか。お互いに反省してみる必要がある。
 体育やスポーツの指導者に,独善的排他的な考えの人が多いのだろうか。
 ボディビルの指導者と自ら認じている人たちの中にも,たんなる自分の経験主義に自己満足し,筋肉面の強調に陥り,独善的な傾向があるのではないだろうか。いまこそ,謙虚な気持で現状を分析し,今後の方針を見定める必要がある。
 ボディビルとは,ウェイト・トレーニングを主たる運動種目とした,体力づくり,体格づくり,健康づくり以外のなにものでもない。
 日本ボディビル協会は,その目的として「生活に直結する,健康な体づくり」と言明している。すなわち,ボディビルが社会体育の一翼をになっているのである。したがって,ボディビルの指導にあたる者は,「ボディビルは体育である」との自覚こそ,第一の要件と言わねばならない。
 これまで,初心者向きの「ボディビル解説書」すなわち,ウェイト・トレーニングの運動種目の解説書は数多く発表されているが,ボディビルを体育としてとらえた指導者のための「まとまった参考書」を見かけない。
 そして指導者も,指導にあたって,ルーの三原則による筋の運動性発達を金科玉条として,ボディビルの一面のみの強調をしているに過ぎない感じがしないでもない。
 指導者全員が,そのようであると言うのではないが,たんなる経験主義による,独善的な指導者を見聞することがある。このようなことが,ボディビル界が誤解をまねくー因となっているのではなかろうか。
 指導者たるものは,広く体育全般について基礎的知識をマスターし,体育におけるボディビルの位置,他のスポーツとの関連性,体力といわれるものの具備すべき諸要素等を認識することが必要である。
 すなわち,指導者とは〝たんなる肉体運動の動作のコーチ〟であってはならない。ただそれだけのものであるなら,市販の初心者向けの入門書により2~3年の経験をつめばできる。しかしそれだけでは不充分である。指導者として必要なことは,基礎的な知識と経験とを合わせ持った体育指導者でなければならない。
 現在,基礎的な知識を得ることはさして困難なことではない。その意欲と努力があれば達成し得る。なぜならば,生理学者,医学者,栄養学者,教育学者,体育研究者等,多くの先覚者によって,多方面より研究,発表された文献が多数にある。それらの中から必要なものを学べばよい。一応無駄と思われることも,また,難解と思われることも,何回も続み返せば自然と分ってくる。「読書百遍,意自ずから通ず」と諺にも言われているとおりである。
 なにが必要で,どれが必要でないかも,労を惜しまず勉強することによって理解できるようになる。こうすることによって,知的考察も練磨され,人間的成長も促進されて,自己の体験と相まって,広く一般社会からも信頼され尊敬される体育指導者としての形成がなされるのである。
 そうは言っても,「何を続み」「何を学ぶか」ということになると,迷われる人も多いことと思う。そこで,指導者,または指導者を目指す人たちのために,選択眼を養う意味も含めて必要と思われる基礎的事項をできるだけ平易に解説し,各自の勉強の労を手助けしたい。
 お互いに指導者としての自覚をもって,正しいボディビルの普及発展に努力していこうではないか。日本ボディビル協会の公認指導員認定の趣旨もここにある。
 以下,論を進めるにあたり,執筆の動機と目的を記した。

<2>指導者としての基本的な考え方

 運動能力至上という,一部の礼讃者の誤った体力観や,また,その裏返しの「頭を使うものには体力など不用」というような,体力無用論者のことはさておき,一般には,現在または将来の生活を快適に,または意欲的に生き抜くために必要な体力を否定する人はあるまい。
 「体力とは何か」に関しては,別項にて後述するが,体力づくりとは,たんに運動選手のためのものでもなく,人として生まれてきた以上0才から百才にいたるまで,発育から老化への過程を通じて共通して必要なことであり決して限られた年代層のものでもなくまた,特殊な生活活動でもない。男も女も,生きるために必要な糧としての「体力づくり」あるいは「健康管理」が大切なのではなかろうか。このことが体力づくりの普遍的な意味だと言ってもいいだろう。
 ボディビル指導者(以下指導者という)は,体育指導者としてこの理念を認識し,その原理をわきまえ,形態や諸機能が必ずしも同一歩調でない人々に,各年令,性別,発育段階に応じた「からだづくり」を推進していかなければならない。
 身体運動が「各年令層の人体に,いろいろの影響を与えている」ということは,すでに立証されている。しかし身体運動が正しく利用されなければなんの利益にもつながらない。
 幸い,今日ではこの問題に対して,沢山の実証や,豊富な資料が蓄積されている。これら数多くの研究発表により,諸原理,諸法則等,いろいろの知識を学ぶことができる。また,それらの応用を研究することも可能である。こうすることが,指導者の能力を高め正しいボディビルを見出す道にもつながるのである。
 「理論なき実践は盲目であり,実践なき理論は死物である」と言われている意味をよく噛みしめたい。
 人間は,わずらわしいことや,漸進的な努力を避けようとする本能的な傾向がある。最初に教えられることや,一番大切な基礎的な事項は,なんでも簡単すぎるように考え,一足跳びに行えるように思ったり,効果の速さを望みすぎたりする傾向がある。言い換えれば,自分に与えられた基礎的な事項や概念を,努力に値しないものとして軽視しがちである。思考錯誤もはなはだしい。
 基礎的要素に関する明確な知識の必要性を認識し,漸進的に努力する心の準備なくして,所期の目的,効果を収めることは至難である。基礎的要素を欠くことは,砂上に楼閣を築くに似たむなしいことで,体育的にも好ましくない結果を招来するきらいがある。この点指導者たるべき者の心すべきことである。
 体育でもスポーツでも,合理的な身体運動を行なってこそ,所期の効果をあげ得るものであるから,これの指導にあたる者は,豊富な経験に加えて,人体の構造,機能,運動の構成,栄養等の基礎的事項を身につけ,最少限必要な知識をもって指導にあたらなければならないことを強調したい。
 「健全な精神は,健全な身体に宿る」という諺は,良く知られ,用いられているが,通俗的に,健全な身体をつくれば,自然と健全な精神が養われるように解釈されているが,私はこれには異論がある。すなわち,いかに頑健な身体の人であり,運動能力にすぐれていたとしても,それだけで健全な精神が宿るだろうか。
 走る速さをいかに誇っても,鹿や犬や馬には及ぶまい。いかに力の強さを誇っても,とうていゴリラにはかなうまい。原始時代ならいざしらず,現代では人の人たる所以はそれだけではないはずだ。
 健全な精神(知的活動も含めて)を持っている人ほど,より健全な身体が必要だと解釈したい。心理的な条件が身体を左右する方が,身体的な条件が心理的条件を左右するよりも強く大切だと考えるからである。ただし,通俗的に言われる根性論とは内容的に異なることを理解していただきたい。
 身体的条件が必ずしも良好でない人々が,立派な仕事をなし遂げていることや,仕事の半ばで挫折しているのを見聞するにつけ,ますますいま述べた私流の解釈の必要性を痛感する。身体的条件の不備の人ほど,真に健康の尊さや必要性を,切実に身をもって感じ知っているのではあるまいか。
 体育は教育の一環であり,知育,徳育とともに,教育の三本柱の一つと言われている。意味も,その言葉の中に単的に表現されていると考える。
 では,この体育(体育概論として別章で述べる)について,簡単に考えてみよう。
 漢和字典を引くと,体育とは「身体を成長発達させる教育。戦前は体操といわれた」とある。また,体操という項をひらくと「規則正しく身体や手足を動かす運動で,体育の旧称」と記されており,運動とは「健康上,身体を動かすこと」とある。
 これらの語源は「ギムナステイク」(gymnastic)という語を訳して「運動」としており,その意味は「身体の精神的(知的)訓練」という意味である。また「フィジカル・エデュケーション」(physical education)なる語を訳して「体育」としており,これも直訳すると「肉体の教育」という意味である
 体育と言い,また体操と言うも,いずれも明治以後,欧米文化の吸収によりとり入れられたもので,その語源の「フィジカル・エデュケーション」,あるいは「ギムナステイク」の意味を理解すれば,その言葉の意味がよく分かるであろう。

 「ギムナジウム」(gymnasium)なる語は,①ギリシャの古代演武場の名称であり,②ドイツ語では,9カ年大学の1年限の大学予備教育機関の名称,③一般には,体操場,体育館として用いられている。この語の略語(gym)が日本流に「ジム」と発音されて使用されている。
 また,「ギムノソフィー」(gymnosophy)は,印度のはだかの修業者という意味であり,体育家とか体操教師のことを「ギムネスト」(gymnest)という。われわれが簡単に練習場という意味で使用している「ジム」なる名称も語源をたどれば,その変化等なかなか意味深いものがある。
 スポーツ(運動競技)は,現在体育の一環として,一般に親しまれ良く知られているが,その発生において,体育という観念とは異なり,自然発生的に,あるいは興味本位的に生まれたもので,体育とは根本的に違っている。つまり体育は,人体のためには,このようにあらねばならぬという,理論や理解のもとに,つくられたり体系づけられたものであるが,スポーツはそうではないのである。
 私はスポーツの効用を否定するものではないが,しかし,いま述べたようにスポーツと体育との発生における本質的な相違をよく認識し,自覚する必要がある。
 古代においては,頑健な身体や体力の強さは,生きていくために絶対的必要条件であった。好むと好まざるとにかかわらず,自然の脅威や,外敵(対人関係だけでなく,他の動物を含め)から身を守り,食糧を得,生きていくための基本的条件だったのである。そして,古代にさかのぼるほど弱肉強食の時代であり,体力の強弱がその生活を左右した。このような時代に,生存競争の必要上,格斗技などが必然的に生まれ,工夫されてきたのである。
 いろいろのスポーツの発生源を調べてみると,はじめ生活の必要上発生したものが,年とともにその体力を誇示する競技に変わり,さらに興味あるものにするためにいろいろ工夫がなされ現在にいたっている。
 近代にいたり,体育なる観念が明確に体形づけられ,理論先行のもとに実践普及された体操に,体育の源泉を見る。ここに体育とスポーツの根本的な発生の違いがある。また,実施上においても本質的に異なっている。
 近代文明の恩恵に浴するまでは,日常生活そのものの中に,身体運動が充分に加味されていた。たとえば,第二次大戦前後までは,日常生活において薪を割ったり,水を汲んだり,重いものを持ったり,肩にかついで運んだり,そして,どこに行くにも自分の足で歩くことが多かった。これら日常生活に必要な活動の中に,生きていくために必要な運動量があり,体力がつくられ維持されてきた。
 しかし,現代の高度な科学の発達は機械化時代を招来し,あらゆる事を人間にかわって機械がする時代となってきた。交通機関の発達は人間の歩くことを少なくした。しかし,いかに交通機関が発達したからといって,脚不用を唱える人はなかろう。また,コンピューターがいかに発達改良されたからといって,人間の大脳不用を説く人はいないだろう。
 人間の幸福の追求のために研究され発達した科学が,逆に人間を毒する結果を招来してしまった。環境の破壊,公害問題等,数えあげるにいとまがない状況である。本来,人間の幸福のためにあるべき科学の発達が,人類を自滅の方向に作用しているともいえる。
 今日まで行われてきた行為や変革が人間のために進歩であり善である,というような,思いあがった考え方からは,真の進歩や変革は生まれてこないだろう。すべて自然の法則に支配されていることを忘れてはならない。
 その自然の法則を発見,確認したつもりでも,われわれの思考観察のいたらないものがいまだにあるはずである故に自然界から拒否の回答を得るのである。自然浄化の作用は,自然界が当然なすべきだとの,誤った観念における有害物質のたれ流しや,汚物の放棄が,公害問題の続出につながっているのである。
 人間の体についても同様であろう。このような現状においてこそ,現代を生き抜くために必要な体力が,切実に要求されるのではなかろうか。現代生活における運動不足は,これより生ずる体力の低下等,考えねばならない多くの問題をかかえている。
 人間に備わっている,環境適応能力の存在も,人間を増長させた一つの原因ではなかろうか。
 現在の歪の中で,人間の発育進歩のためという教育の原点に立ち戻って,もう一度じっくりと真の体力づくりについて考えてみようではないか。運動の一効果面のみを強調するのではなく広く体育という観点に立って考えていこう。
 「ボディビル」となんら変わらないことをやりながら,これは「ボディビル」ではなく「フィジカル・フィットネス」(直訳すれば「人間の適応」という意味)だ,と勝手な言をろうし,批判的言葉にて時流に乗ろうとしたり人間の心理をたくみに利用して,ボディビルの一効果面だけを強調した「腹いっばい食べて美しくやせよう」とか夫婦和合のための「何々体操」とかいうようなキャッチフレーズで,世にアピールを考えるのも一つの方法かも知れないが,それではあまりにも本質をはなれた商業主義にすぎるように思われる。
 運動の効果面や,その実施の方法により,何々体操とか,何流健康法とか名乗るものがあったとしても,決して不思議でもなく当然のことかも知れない。私はそれを否定するものではない。
しかし,その底流を形成する指導者の考え方なり,姿勢なりが問題なのである。
 ボディビルとは「ミスター何々」を目指す人たちの運動でもなく,また,これを養成するための運動でもない。巷間,ボディコンテストの優勝者や出場選手の体をみて,「ボディビルでつくった体は……」と云々する人がいるが,「群盲,象を見て表する」に似てその錯誤もはなはだしい。
 ボディビルによって基礎体力を養成し,体力づくりに励んだのち,他のスポーツに向って努力し,優秀な成績を目指すものがあると同様に,さらにウェイト・トレーニングに励み,自己の筋肉の限界に挑戦するものがあったとしても,なんら不思議ではない。そして,それらの人たちの試練の場として筋肉美を競う,競技としてのボディコンテストが実施されても,これまた当然のことである。この認識なくして,「ボディビル云々」をされることは非常に迷惑至極である。
 身休運動能力(巧緻性,敏捷性,,柔軟性等の総合機能)の限界に対して行われる体操競技,力の限界に対して挑戦する重量挙げ競技等があるのと同様に,筋肉美を競うコンテストがあるのは,なんら異質のものではなく,各人の好みにより,それぞれの目的に向って努力する選手があるのは当然のことである。コンテストやパワーリフティング競技は,ボディビルのスポーツ面としての一現象であって,すべてではない。たんにその一面だけをみて,とやかく評価されることは間違いもはなはだしい。指導者自身も,この点を改めて再認識してほしい。コンテスト至上主義や,逆にこれを否定するといった片寄った考えでなく,筋肉美を競い,また,パワーに挑戦するのも,ボディビルより発生した一つのスポーツとして,それなりに評価すべきである。
 真の健康や体力づくりは,われわれが行なっている日常生活を科学的に分析し,正しく認識し,改善していく以外の方法によって達成されるものではなかろう。
 いかに医学が進歩し,公衆衛生施設が完備され,平均寿命がいくらか伸びたからといっても人間が改良されたことを意味しない。ここに,体育の必要性も意義もあるのではないか。
 指導者たるもの,初心に戻り,練習する人々の立場に立って,経験と知識を動員して,愛情をもって指導することが根本理念であろう。こうすることによって,自ずと道が示されるのではなかろうか。
(次号は<3>基礎的事項について,概念的に記してみたい)
[ 月刊ボディビルディング 1973年8月号 ]

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