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ボディビルと私<その8> 〝根性人生〟

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[ 月刊ボディビルディング 1973年12月号 ]
掲載日:2017.09.28
東大阪ボディビル・センター会長
元プロレスラー 月影四郎

しごきの早朝ランニングと栄養食

 大阪千日前の国際シネマで映画のアトラクションとして幕明けしたレスリング,ボディビル,空手教室は予想外の好評を博したようだった。しかし,技術的にみればまだまだ充分とはいえず,さらにハードなトレーニングが続いていった。
 トレーニングはまず早朝ランニングから始まる。ネオン街の朝は,昨夜の酒と嬌声のうずまく華やかな世界とはがらりと変わって,妙に静かでさびしいものである。大きなドブネズミが足早やに走り抜けるのを横目で見ながら人影も少ない大通りをただモクモクと走りに走った。先頭に立つ私の心には幼い時代に列車と競争したマラソンが浮んでは消えていった。
 また,激しいトレーニングのあとは選手のからだをつくる栄養に気をつけなければならない。当時のみんなの大好物といえば大盛りめしにとんかつである。プロレス時代にも,ただ大めしを食らって満腹感を味わうことがからだをつくる唯一の手段だと考えている人が多かった。中には大食,暴食のあげく有望な素質をもちながら若くしてこの世を去った選手もいる。
 こうした食事に対する基本的な考え方の差が,外国人との体力的な違いとなっていたのではないだろうか。とくに力士などに糖尿病が多かったのも,大食するだけで栄養のバランスをまったく考えていないからだった。幸いなことに,千日前の月影道場の近くには中華料理店が軒を並べており,バラエティに富んだ栄養補給にはこと欠かなかった。
 選手たちにはいつもトレーニングの量と体調に合わせた高カロリー食を摂取するように注意していたし,選手たちの中にもずいぶん研究熱心なものもいた。とくに辻選手と滝川選手は熱心で,よく私のところにきて「先生,やきそばにニンニクは良いでしょうか」「ワンタンの熱い汁のうえにニンニクをすり込んで食べたらどうか」などとプンプン臭いにおいをさせながら聞きにきたものである。玉ねぎの生をスライスにして味噌をつけて食べるのを考えたのもこの2人である。
 しかし,それまでの食事の習慣はおそろしいもので,朝のトレーニングのあとアトラクションの始まる12時ごろまでにマンジュウを5個ぐらいぱくつくのが恒例で,さらに1日の練習が終わると焼そばの大盛りを2皿たいらげないとおさまらなかった。
〔練習中の筆者(左)と滝川コーチ〕

〔練習中の筆者(左)と滝川コーチ〕

変化に富んだ当時の練習法

 さて,今回は先月号と違った角度から,当時の練習法を紹介してみたい。現在ほどトレーニング器具や練習法が研究されていなかった当時としては,最も進んだ練習法だったと思う。
 まず,胸部の強化法としてはへビー・ベンチ・プレスの競争である。130kg~140kgくらいの重量で,あと1回もう1回,さらにもう1回と,かけ声をかけて,胸部の鍛練と同時に,自然に根性も養うようにした。このあと続いてプッシュ・アップ・ウィズ・フィート・エレベイティッド(両足をベンチなどにのせて高くして行うプッシュ・アップ)を行う。それも背中に1人2人と背せて負荷を強くしていくのである。このために腕立て伏せの回数が380回もできる選手もあらわれた。
 次にレスリングで大切なのはブリッジである。まずサンド・バックで頭突きの練習,つづいてレスラー・ブリッジで首の鍛練をし,さらにへッド・ギヤーに80~100kgのベーベルを吊して上げ下げ,横振りの練習をする。それが終わると休むことなく2人がペアーになってライイング・フロント,ライイング・バック,ライイング・サイドなどを行い,首を鍛えるのである。
 そのほか各部分ごとのトレーニングをすませると,こんどは先月号で紹介した2mの畳越えで受身の練習をするこうした練習法と,それを実際に使ったレスリングや空手の技をアトラクションでやってみせるのである。もちろん,観客は息をのみ,演技が終わるといつまでも拍手の嵐はやまなかった。
 ハードなトレーニングも観客の予想外の反響に気をよくし,苦情を申し出る選手は1人もなかった。したがって選手1人1人の体力・技術,あるいはチームづくりといった面でも急速にその成果はあがっていった。
〔国際シネマでレスリング教室の指導をする筆者(右端)〕

〔国際シネマでレスリング教室の指導をする筆者(右端)〕

私の求めていた〝根性〟の芽ばえ

 体力・技術が養われてくると同時に選手1人1人に「よし,もっと練習して,さらに高度な技術を身につけよう!」という気力というか,ファイトがみなぎってくるのがよくわかった。すなわち,自主的な〝根性〟である。これこそ私が求めていたもので,早くもそれが開花し現実のものとなってきたのである。選手たちは私が指示したり号令をかけたりする前に,すべて自主的にスケジュールを進めていく。いや,私が指示した以上に研究した新しい練習方法を考案し報告のために私のところにやってくる。
 では,当時のすばらしいムードにあなたを案内してみよう。
 練習はふつう6人から8人前後。まず準備体操,誰がかけるともなく気合いと号令が出てくる。各選手ともそれぞれのスポーツで一応その頂上を歩んできた人たちであるというお互いの尊敬の念と,その人格から何かを学びたいという自然な礼節が,このすばらしいムードに拍車をかけていたようだ。
 準備体操がすむと続いて強化体操に移る。ようやく動きもスピーディーになってくる。にじみ出した汗がピカッとライトに光ると大胸筋の真中に一筋の汗の道ができる。ようやくエンジンがかかってきて,輪になって練習する選手たちのからだ全体が赤くほてってくる。
 強化体操がすむと,それぞれ自分のプログラムにしたがってベンチを出すもの,マットを出すもの,スクワット台を調整するものと,だいたい2人コンビのセットがいつも自主的にできあがっていく。このコンビはよきパートナーであると同時に,お互いがライバルでもあり,応援者にもなっている。したがって,なまけてなどいようものなら,ときには愛のゲンコツがとんでくることも珍しくない。
 1つの種目が終われば「ありがとう」と,どちらからともなく感謝の言葉が出てくる。たまには「おい,これはいけるぞ!」と,ちょっとしたヒントから新しい技を思いつくとみんなに声をかける。「どれどれ,どんな技だ」と選手が集まってくる。もちろん,その都度私にも報告がくる。そこで,みんなで議論し納得できたものはさっそくその日の練習からスケジュールに組み込まれるのである。
 既成の技だけでは満足せず,あくなき技の研究,さらにその技を完全に自分のものにするきびしい練習,これこそ私がえがいていた根性開眼の指導理念であり,それが着々と実を結んでいったのである。もちろん,外国の文献などもとりよせ,何回となく読みかえしては研究した。
 私にとっては,いままでの長い体験と,こうした研究の中で,まったくボディビルとかその他の体力づくりをしたことのない人たちに対して,絶対に興味をもたせ,やがては自分もこれを実践してみたいという気を起こさせることができるだろうという強い自信をもった。
 当時,私が空手からヒントを得た呼吸法についてちょっとふれてみたい。すなわち,空手の呼吸に採用されている吐く呼吸についての研究である。
 空手の基本ともいえる〝猫足立ち〟のかまえから,四方突き等の技をかける場合,つねにからだの中心(急所)をカバーしながら,吐く呼吸をしているのである。これは,安定したポーズを求めるとともに,息を吐くことにより気合を整え,次に出すべき技への準備,あるいは守りに備えているのである。また,精神的なものへの警戒と合わせて,肉体的にもより多くの酸素を供給するという役割を果す。
 これほど合理的な呼吸法があるだろうか。さっそくこれをトレーニングに取り入れることになり,それからは,
「深呼吸はじめ!!」の号令とともに,いっせいに吐く呼吸をする。吐くことによって肺活量を増やすという理にかなった方法だ。
 私のへたな文章ではなかなかご理解いただけないと思うが,もし,いきなり吸い込む呼吸をしたらどうだろう。物の入った袋に,さらに押し込んでいるようなものだ。それより,まず中味を先に出してから,新しく必要なものを入れる。つまり,まず吐いてから深く吸い込むという単純明解な理屈である。しかもバーベル等の器具を使って肺の中を雑巾でもしぼるようにしながら吐く呼吸をすることにより,その効果はいっそうあがる。
 たいていの人は,「深呼吸はじめ」というと,たいてい手をあげて大きく吸う呼吸をはじめるだろう。もちろんこの方法でも2度めから吐いて吸うことにはなるが,要するに吸うことに重点をおかないで,吐くことに重点を置くのである。
〔レスリング実技披露のために,滝川選手(現東大阪BBCコーチ)に肩車のコーチをする筆者〕

〔レスリング実技披露のために,滝川選手(現東大阪BBCコーチ)に肩車のコーチをする筆者〕

ミスター浜寺コンテストの思い出

 こうして連日,練習にステージにと励んでいたとき,全日本ボディビル協会理事長(故)松山厳氏より第3回ミスター浜寺コンテストに国際月影道場も参加してほしいという要請があった。おそらく大阪で行われる始めての全国規模のコンテストだった。
 当時,全国の各地にいくつかの草分け的なジムが開設され,ようやくボディビルも一般の人に認識され始めていた。私が何年か前に夢にえがいていたことが着々と現実の姿となってきたことに喜びを感ぜずにはいられなかったただ,私の道場は,一般のボディビル・ジムと同じようなバーベルやダンベルを使ったトレーニングはしていたが,その目的は,あくまでもレスリングや空手の技を見せることであり,ポージングや筋肉といった点ではまだまだ充分ではなかったので出場は断念することにした。
 レスリング教室といっても,その基本は体力づくりであり,当然,ボディビル運動に重点がおかれ,アトラクションにもしばしば練習法を見せていたので,近い将来には必ず優秀な選手を育てて,コンテストにも出場させたいと考えていた。そこで,要請されるままに私も審査員の末席をけがすことにした。
 審査員の打合わせ会議で,現在JBBA副会長の谷口勝久氏や,大阪ボディビル協会副会長の荻原稔氏,元大阪ボディビル協会々長・山口寿彦氏等と始めてお会いした。そして,各氏のボディビルに対するなみなみならぬ情熱に接し,私の根性づくりの人生設計に大きなよき指導者を得たことを心強く感じた。
 私の道場からはいま述べたような理由で出場しなかったが,この大会を推進している各氏の情熱にうたれ,なんとかこの大会をより盛りあげたいと考え,国際大弥興業株式会社の能口社長に頼み,当時,時価20万円もする大トロフィーの寄贈を受けた。その後このトロフィーは全日本コンテストに引継がれ,昭和42年まで代々のチャンピオンたちの名前が刻まれている。ボディビル界の東西1本化がなり,全日本コンテストも廃止されたので,現在は国際ボディビル・センターのジム・コンテスト優勝者にこの名誉ある大トロフィーは手渡されている。浜寺コンテスト,全日本コンテストは,なんといっても関西地区,いや西日本地区のボディビルの普及に大きく寄与し,その歴史の1ページを飾ったといえる。

社会的にも成功した当時の入賞者

 それまで本格的なボディビル・コンテストを見たことのなかった人々はこのコンテストを目のあたりに見て,ただア然とするばかりだった。筋肉隆々といえば,せいぜい外国のターザン映画に出てくる主人公くらいしか知らなかったのに,身長はそれほどないがギリシャ彫刻のような逞しい肉体美の日本人が次々とポージングするのを見て,それこそ驚異に感じたことであろう。
 コンテストの結果は,のちにミスター日本になった金沢利翼が優勝し,2位には現JBBA理事の河啓一氏が入った。
 金沢氏は,当時から抜群の筋肉に加えてデフィニションにもすぐれ,しかも,日本人としてはきわめてバランスのとれた体格をしていた。その後多くのすぐれたビルダーが輩出したが,始めて金沢氏を見た私は,日本人でこれほどの筋肉美をもった選手は2度とあらわれないだろうと感心したものである。
 金沢氏は現在,広島市内でトレーニング・センターを開設し,広島県のボディビル界の推進者となっている。男子のみならず女性のトレーニングも研究され,日本人の健康と体力づくりに活躍中である。
 河啓一氏もまた,岸和田市に泉州ボディビル・センターを開設し,後進の育成のかたわら,リバー産業株式会社の社長として実業界においても大いに気をはいている。
 このように,ボディビルをとおして得たものが,たんにコンテストに入賞したという事実だけに止まらず,その人格,礼節,そして根性をもきたえ,社会人として尊敬されるようにならなければならない。そういった意味で当時あの海辺の表彰台で,私が能口社長に代わって国際日活賞を手渡した金沢氏や河氏はともにボディビルダーのかがみといえよう。いまでもそのときの光景をありありと思い出すことができる。
(つづく)
〔第3回ミスター浜寺コンテスト(昭和34年)左から河、金沢、浜の各選手〕

〔第3回ミスター浜寺コンテスト(昭和34年)左から河、金沢、浜の各選手〕

[ 月刊ボディビルディング 1973年12月号 ]

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