フィジーク・オンライン

ボディビルと私 やればやれる!

この記事をシェアする

0
[ 月刊ボディビルディング 1968年6月号 ]
掲載日:2017.10.30
記事画像1
リバー・ボディビル・センター
河 啓一
 日本ボディビル協会理事長の玉利斉氏から,「ボディビルと私」というテーマの原稿を依頼されて,正直のところ,何を書けばよいかと困ってしまった。
 というのは,ボディビルというものが,まだ完成されたスポーツではなく,これからよい伝統をわれわれの手でつくり,近い将来,ビルダーの黄金時代をぜひとも築き上げたい,と夢み
ていたからである。そこで,テーマからいくぶん脱線したかもしれないが,ボディビルに対する雑感めいたものを書くことになるので,この点まえもってお詫び申し上げておく。

――出会い――

 私がボディビルを始めたのは,ちょうど高校2年生のときであった。当時の私は,受験勉強にはげむかたわら,柔道の練習にも精を出していた。元来私はスポーツ好きだったが,高校2年生といえば,もうそろそろクラブ活動をやめて,受験勉強に専念しなければならない年ごろでもあった。
 しかし,私は,どうも頭だけが大きくて,からだがひよわいのはいただけない,という考えが本能的に強かった。欧米人の体格のすばらしさを映画や雑誌で見るにつけ,日本が戦争に負けた理由の一つも,そのへんにあったのではないかという疑問が,たえず私の脳裏を去来していた。
 20世紀の後半は,ただ頭脳だけでなく,体格もそれを裏づける優秀なものでなければならない,という漠然とした直感が,受験勉強に明け暮れている私の胸中にあった。ただよい学校にはいり,卒業するだけでは,かたわな人間ができてしまうのではないか?
 柔道は高校1年生で初段をとったが,当時身長1メートル70センチ,胸囲98センチ,体重68キロという,中肉中背の私が,この世界で頭角をあらわすには,やや貧弱である。時の全日本柔道選手権保持者であった醍醐選手を見るにつけて,つくづくそう思うようになった。
 ボディビルというものを,テレビや雑誌で知ったのは,ちょうどそんなときである。私は,これは自分の体格にマッチしたスポーツだ,と直感し,これに大いに興味をもった。そして,受験勉強とボディビルの両方を両立させてみようと,さっそくボディビル運動をはじめた。
 適当な練習場がなかったので,参考書を買いこみ,バーベルを手に入れて,自宅の裏で既成のベンチを使って,練習にはげんだ。やってみると,期待にそむかず,ムクムクと筋肉が発達してきたのである。自信をつけた私は,やがてこの運動に専念するようになった。
河氏の経営する〝リバー・ポディビル・センター〟

河氏の経営する〝リバー・ポディビル・センター〟

――現役時代――

 受験勉強と,ボディビルに対する一般の無知,つまり社会,家庭の無理解によって,当初の練習はまったくの暗中模索で,その苦心はなみたいていのことではなかった。栄養と練習時間をたっぷりとりながら,運動をつづけることは,困難をきわめた。しかし,私は,逆に抵抗があればあるほど,それは私への試練であり,私の能力の限界をためすチャンスである,という確信を強めていった。
 朝1時間半,夜2時間から2時間半の練習を,2日つづけて1日休む。これがそのころの私の練習方法だった。食事は水分をできるだけ避け,たんばく質をより多く摂取するように心がけた。なにしろ学生の身である。あまりぜいたくな要求もできないので,魚にしても骨まで食べられるようなものを選び,たんばく質,カルシウム,燐,鉄の含まれているものを積極的にとるようにつとめた。
 また,受験勉強と両立させる考えだったので,ディープ1セット中に英語の単語を何回も暗読した。これは,単調な反復運動をカバーするのにたいへん役立ち,おまけに単語も暗記できて一石二鳥の効果があった。
 コンテストに出場したのは,日比谷音楽堂での第2回ミスター日本コンテストであった。入賞はできなかった。しかし,ミスター浜寺コンテストでは,日本ビルダー界の優等生金沢君についで,準ミスター浜寺となった。その翌年,ミスター全日本コンテストで,またもや金沢選手と対決することになり,ふたたび敗れて,準ミスター日本に甘んじなければならなかった。
 敗軍の将何をか語らん――であるが,やはり選手の身になれば,栄光の座をめざして,1年365日の血のにじむような努力をコンテストにかけて出場するのだから,審査にあたっては,そうとう説得力のある審査方法の採用が必要だと痛感した。
 スポーツ一般についてもいえることだが,苦しい練習と競技の栄光の交錯するなかから,一つのことを成しとげたという自信が,現役時代を通して,その後の社会生活に対するファイトとなって,自分の身についたと,私は思っている。
河啓一氏の現役時代

河啓一氏の現役時代

――ビルダーの将来――

 20世紀にはいって,私たちは2度まで世界大戦を体験した。そして,その反動として,生命の尊厳や生への要求が叫ばれ,それがやがて人間性の解放へと進んだ。ボディビルが戦後急速に発達した理由の一端もそこに見いだされるのではなかろうか。人々はギリシャ彫刻ばりのすばらしい肉体と健康を望んでいたのだろう。そしてそれが,ボディビルというものにつながっていったのだと思う。
 現在私は,南海線難波駅から急行で25分,大阪でも南よりの岸和田駅前に〝リバー・ボディビル・センター〟を開いており,会員も400名を越えるが,仕事のかたわら,若い会員にまじって,練習に汗を流すことを最大の楽しみにしている。
 からだの調子が悪いときは,部下が報告してくる問題も積極的に解決できない小心者だが,練習をやったあとは,何事にも前向きの姿勢でのぞめる。これもボディビルをやったおかげであろう。
 私はよく若い会員に――これはだめだとはじめから決めてしまっては,うまくやれることもやれない。やれると確信し,努力してこそ成功への道が開かれるのだ――と教えている。何事
も,やればやれるんだ,おれはやるのだ,という若いファイトをもって,社会生活に前向きの姿勢で進んでいってほしいものだ。
 将来は,女子部も併設し,大いにボディビルを発展させたいと思う。
 私たちは,苦しいときや,いきづまったときに,他のスポーツとちがって相談できる先輩が少なかったが,そのかわり,新しい問題や仕事をみずから求め,開拓していく創造力がつちかわれた,と私は信じている。
 ボディビルダーに限らず,スポーツマンは,初対面であっても,語らずして10年の知己のようにむつまじくつきあえるのも愉快なことで,九州に行っても,北海道に行っても,全国津々浦浦にビルダーがいる。社会生活においても,私たち同好の友が一丸となって助け合える日がくれば,どんなに楽しいことだろう。私はいつもそう思っている。
[ 月刊ボディビルディング 1968年6月号 ]

Recommend