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バーベル放談⑧
人生は精進なり

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月刊ボディビルディング1969年3月号
掲載日:2017.12.08
アサヒ太郎
 武勇伝、精進物語と、これまでいろいろな人のエピソードをお伝えしてきた。そこから生まれる人間の根性、心身のたくましさといったものを少しでも汲み取っていただければ――との気持からだった。しかし若い読者のみなさんのなかには、毎日はげしい仕事に追いまくられボディビルを唯一のいこいとされながらも本来の生活の向上、立身出世といったものを大目標にしておられる方も多かろうと思う。

 そうした人たちに、こんなたあいのないお話をして多少の刺激でも与えることができたのだろうかとの疑問もわく。そこで今回は趣向をがらりと変え〝人生は精進なり〟を地でいき後年功成り名遂げたあるお金持の実話をご披露することにした。

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 その人はIさんとおっしゃり、もう70才をいくつも越えたご老体であるが自分の年の半分にも満たない奥さんをもらわれて、かくしゃくたる元気を誇っている。Iさんは小学卒である。それ以上の学校はどこも行っていない。あえて挙げれば飛行機のパイロット養成所だ。一介のパイロットから巨億の富を作り上げた人なのである。

 Iさんは小さいころから飛行機が大好きだった。1度は自分であの大空を舞い飛んでみたいとユメ見ていた。そこで小学校を終えてしばらく経ったころ、千葉県下にある飛行機学校へ入り働きながら操縦技術を習った。大正はじめのころである。飛行機学校といっても、昔の複葉飛行機が1~2機あるといった小さな訓練所である。そのころ日本人は飛行機すなわち空中サーカスといった程度の知識で、関心を寄せる者もほとんどなかった。そのためIさんら草分け時代のパイロットは空中大サーカス・見物料5銭、10銭といった見世物まがいの実演をして小遣いをかせいだ。そのころからIさんの胸には「いつかオレは自分で飛行機会社を――」との野望が燃えはじめていた。

 そうしたある日、Iさんは飛行場の片スミに雨ざらしになっている古いポンコツ自動車に目を止めた。「そうだあの車をなんとか手入れして走らせタクシー商売ができんものか」

 機械の整備はお手のもの。ぼろぼろになった車体をみがきあげ、古いパーツを取り換えてなんとか走る状態にした。車は飛行場に出入りする業者が使っていたものだがポンコツになったので、そのまま置去りにしていたものだった。しかし大正のはじめとなると、車の台数は日本国中でも数台。まことに貴重な乗り物だった。Iさんはそこに目をつけたのだ。いよいよタクシー開業である。飛行機に一時縁を切りIさんはカネもうけに奔走した。

 やがて第1次世界大戦が起った。日本はこのため好景気でいわゆる〝成金族〟が続出した。Iさんは郷里の大阪に舞い戻り、色町であるミナミ京右衛門町のある料亭のまん前にガレージを構えた。といっても、もともとは古倉庫、それをタダ同様で借り受けて急造の駐車場にしたものだ。このタクシー商売でIさんはもうけにもうけた。なにしろ金を湯水のように使いまくる成金どもが夜ごとに放歌高吟する花街。「どうもごくろうさん」と仲居が3円のチップを無雑作に渡したという。今の3円とちがって、当時はかなりの大金。京右衛門町から大阪駅までのタクシー代が3円。それにチップの3円とIさんはせっせとかせぎまくった。

 この間Iさんは、ハンドルをにぎりながら客の素性をたしかめ、大物とみるとつとめて話しかけすっかりなじみになった。他日、事業を始めるときにかならず役立つに違いないと考えたからだ。こうした毎日のタクシー仕事で10万円かせいだ。いまのカネにして何千万円もの金額だったという。Iさんはこれを資金にかねての航空会社設立を計画した。

 大阪府下の衛星都市、堺に目をつけここの港を基地に、四国を結ぶ水上機の定期航空路を考えた。小型ながらフロート付きの水上機を買入れ、いよいよ念願の飛行機商売である。だが客はひとりも来ない。空を飛ぶ飛行機なんて、おそろしくて乗れるかい、というのである。

 Iさんは弱った。どうして飛行機の安全性をPRするか、考えに考えたすえ、当時の逓信局に出かけ、郵便配達の下請けを懇請した。汽車より早く郵便物を四国へ運び、速達便の使命を果
そうというのだ。

 これは大成功。たった1日で四国―近畿の郵便物が配達されるのだ。次いで京右衛門町の料理屋とタイアップし「けさ獲れた瀬戸内海の魚」と大看板を掲げて魚類をつぎつぎ四国から運び込んだ。これも大人気。食い倒れの街大阪、それも芸人やイキ筋の客が多いミナミの料亭だから評判を呼ぶのもむりはない。ウワサを聞いて客が客を呼び、門前市をなす盛況ぶりとなった。郵便物から魚、そして人サマ――とIさんが慎重に考えた事業計画はみごとに図に乗って、着々成功を遂げたのである。

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 ここでえらいのはIさんの人付き合いである。ちょっとでも知り合った人少しでも口をきいた人はかならず名前をおぼえ、結婚、葬式と吉凶に関係のある出来事が起ると欠かさず顔を出した。余り知った顔でもない人から祝い物をもらったり、香典を贈られたりとまどい気味の表情を見せる人もいたが、Iさんは丁重に名刺を出してあいさつをのべた。

 この社交術はIさんの生涯のモノだった。どんな人でも好感を持ち合えば将来きっと役に立つとの信条だった。このおかげでIさんはどれだけピンチを脱し、金をもうけたかしれない。

 事業は軌道に乗り順調に進んだがやがて第2次世界大戦。戦時中の窮乏期に政府の勧告もあって、会社はもとの日本航空会社に吸収合併された。この時もらったカネが10万円。これは3分の1を国債に、3分の1を現金にして手元に持ち、残り3分の1で大阪府下の茨木市内に土地を買った。1万坪、3万3千平方メートル。現在のお宅が建っている場所である。

 この土地が後日大いに役立った。戦争は次第に悪化し、食料難、やがて敗戦。手持ちのカネはインフレで紙キレ同然。国債も意味のないものとなったここでがぜん貴重になったのが、なにげなく買入れた土地である。Iさん一家は百姓となり、麦を植え、米を作りジャガイモを育てた。外地からコジキ同様の姿で帰って来た昔の社員、教え子をつぎつぎここへ収容し、終戦直後の飢えに耐えた。

 しかしこの混乱期といえども航空会社の再建は忘れなかった。「スズメ百までおどり忘れず」との言葉もあるがIさんにとって飛行機は切り離すことのできないものだったようだ。しかしここでも資金難。人心は荒れ、物資も不充分、敗戦直後のあのすさまじい世相をおぼえておられる方もあろうかと思うが、とてもまともな仕事ができる状態ではなかった。

 Iさんのタクシー業が再び始まった。陸運局で大阪第1号の認可をうけぼつぼつ車を集めた。昔の部下だったパイロットは全員運転手と化した。台数ついに60数台。タクシー業を続けていたらおそらく関西有数の大会社にのしあがっていただろう。だが昭和27年進駐軍から日本人の手に大空が還ると、さっそく航空会社設立をめざした。伊藤忠その他大手の商社の後援のもとに〝極東航空会社〟が誕生した。

 関東では日本へリコプター会社、それに今日の日本航空がそれぞれ特別法で再出発した。極東航空はその後日本へリコプターに吸収合併され〝全日本空輸〟の前身となったが、Iさんはしばらく顧問格でとどまり、やがて引退した。その後もタクシー会社はいぜん経営し、かなりの成績をあげている。

 私が知り合ったのはこの頃。大阪市内阿倍野区にある自宅へお邪魔したとき、Iさんは広大な洋風応接間の一角に坐って被顔一笑した。「この部屋のうしろに大きな部屋がもう1つあるん
ですが、年の暮になるとみなさんからのお歳暮でいっぱいになるんですよ」

 生涯をかけて知り合った人たちからの季節ごとの贈り物がこの大きな部屋を埋めるのか、と印象深く耳にしたのをいまも記憶している。徒手空拳、まずしい名もない青年が、巨億のカネを作りあげるまでにはこれほどの機智と社交術、精進がそのカゲにあったのである。Iさんはそれからまもなく茨木の所有地にりっぱな隠居所を建て、飛行神社を庭内に設けて亡き部下のパイロットの霊をとむらっている。

 小学卒の少年が、ユメに託した飛行士生活を実現しタクシー運転手、飛行機会社の社長――とつぎつぎ事業を育てあげて、いまは若い奥さんと子供さんに囲まれた福徳円満のご隠居さん。冬は別府の別荘に、一家あげての保養生活。なんともうらやましい限りの生活だが、人間精進と機智があれば、こんな一生を送ることができる証拠の1つといえましょうか。

 ボディビルへの精進も、いうなればこうした生活力養成の場。単に力くらべに終らず、この体と力。そして頭脳を生かして世の荒波を乗り切れば、第2、第3のIさんは数限りなく生まれてくるはず。
 仕事で、商売で、人の付き合いでいろいろさまざまな苦労もあろうが、みなさん、人生のチャンスは何度もある。バーベルをにぎったその手にすばらしい人生をにぎられんことを祈ってやまない。
月刊ボディビルディング1969年3月号

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