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ボディビルと私 ~ ボディビルこそ生きるよろこび ~

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月刊ボディビルディング1969年5月号
掲載日:2018.02.28
佐賀県ボディビル協会会長 福 井 統
「君はスポーツをする体をしていない」これは中学2年の時相撲が大好きだった私が運動部を希望した時担任の先生から言われた言葉である。

 私の体はクラスでも中以下であった。キカンジュウとあだなされていた。子供心にそのショックは強く、小さくては駄目か、大きく成りたい、強くなろう、というあこがれはつのるばかり。高校へ入学してからもその言葉が頭に残り部に入る気になれず、市内の柔道道場へ通ったが、けがの為中止した。

 その頃ふと書店で手に入れたのが月刊誌「ボディビル」この本が私の運命を大きく動かそうとは夢にも思わなかった。日頃体に悩んでいた私はビルダーの凄い体を見てたまらず、早速手製のダンベルで自己流の練習を始めた。その時身長156cm、体重47kg、胸囲80cm、腕囲25cm、大腿囲45cm、腹囲60cmの体であった。

 数カ月後、バーベルを取り寄せ、それから2年バーベルとの戦いが始まった。高校を出る頃は自分でもわかる程体が変化し毎日が楽しくなった。「ずい分良い体をしている」と来客にほめられた時のうれしさは忘れられない。
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 私は再び柔道道場へ行った。当時そこには大きな鉄アレイ55kgがあり、2年前は全く動かせなかったのがその時クリーン・アンド・プレス10回ができた。3、4段の人が2、3回しか上がらぬので、先生もびっくり仰天、「どうしてそんなに強くなったか」と尋ねられた。

 私は胸を張って「ボディビル」と答えたが、その時ボディビルを知った人が1人もなかった事は、実に残念に思った。私はその時自分にもやれる力があるのだと尊い体験を得て、このボディビルを一生続けて行こうと決心をした。その後2カ月位で初段をとり黒帯の喜びをかみしめた。

 それから間もなく早大助教授窪田登先生著の「ボディビル入門」を購入文通で質問を重ね、それ以来現在迄十年間御指導を受けている。

 当時佐賀にはジムがなかったので本格的勉強の為、東京の日本最初のボディビルジム「日本ボディビル・センター」へ入会した。指導者は前日本協会理事長、現技術顧問平松俊男先生で、ここで専門的な指導のもとに猛練習をした。

 ボディビルの洋書を手に入れて外国のビルダー界をも知ることができた。又当時このジムには芸能人、スポーツ選手等の有名人の会員が多く実に楽しい思い出となった。

 昼はアルバイト、タ方ボディビル、夜下宿へ帰るのは10時すぎ、郷里へ残した母の事も思い出せぬほど多忙な日もあった。そんなある日突然「ハハヤマイカへレ」の知らせで急ぎ帰佐した。平素の心臓病が悪化したので案じられたが幸い間もなく回復したので、今度は福岡のジムへ通うことにした。

 ジムまで往復5時間、練習を終えて帰宅すれば日はくれている。雪の日、雨の日等は佐賀にジムのない不便さをしみじみ感じた。週3回は福岡で残りは自宅で練習に励んだ。

 37年遂に自宅を改造して、県民の体位の向上、全スポーツマンの基礎体力作り、青少年の不良化防止という大眼目を立て、「佐賀ボディビル・センター」を開設した。

 その頃はボディビルへの周囲の人の認識は殆んどなかったが、やはり人間誰も健康を望まぬ人はなく一般人、大学高校生、また時には父親に同伴されて入会する小・中学生もあり、次々に会員も増加したので、ジムも2年おきに2回の増築をし現在までの会員のべ1,000人を突破した。

 スポーツマンの体力作り、病弱な人の体の改造は勿論、コンテストをねらう人達や若返りの一役にと頑張る老人等々、バーベルを通じての鍛錬が各人の体力なりに元気に続けられている。
福井 統 氏

 佐賀県出身、中学2年の時に小さく細い体に反発しボディビルを開始。現在は80数kgの堂々たる肉体を誇っている。昭和37年佐賀ボディビル・センターを創設。そして同センターの会長としてまた佐賀県ボディビル協会会長として、県民の体力づくりに情熱を燃やし、精力的な活動を続けている。父君は5.15事件の時、海軍の青年将校として参加した福井みゆき中尉である。
 ジムを開いて7年の歩みは決してやさしいものではなかったが、しかしこの苦難をこえて得た尊い体験によって、私は真の生甲斐を覚えた。多くの人のよろこびを述べれば限りないが次に1、2の実例をあげると。

 年令30才の会社員の坂本さんは、元来胃腸が弱く一時は入院された事もあり、毎日の病院通いの時ジムの前を通りかかり、約2時間ボディビルの話をしたところ是非入会したいとの事。私も自信をもって引受けました。

 当時身長170cm、体重43kg、胸囲78cm、腕囲24cm、大腿囲40cm、と気の毒な位やせた体だったが、約3年間よく頑張られた。初めは会社の者にも内緒で練習しておられたが、あまり見違えるようになられたので皆の話題になり、あとでボディビルのことを話され、他の社員も入会さした。

 病院とも縁が切れたと大喜び。身長5cm、体重21kg、胸囲25cm、腕囲12cm、大腿囲16cmの増加をして立派な体になられ人望も高まり、市の病院の事務長にばってきされた。現在もボディビルを誇りに、健康になった喜びをかみしめ、ずっと続けていられる。

 次は小学生の時筋肉菱縮症にかかり、次々に病院を変り治療をうけたが九大病院で「18才位で歩けなくなり一生なおらぬ」とまで宣告をうけた深町君が、ふとジムを知り訪れた。

 学友はもちろん家族ですら筋肉萎縮症ということで特別扱いされ本人は、暗い無口な性格になり非常に悩んでいた。私はこの病気を必ずボディビルによって全快させねばと思い、解剖学、生理学の本もよみ、特別コースを作り練習を始めた。

 あまりの冒険ではないかと一時家人も案じた程血気もなかった彼が、1回又1回の練習に見る見る体の調子が良くなり、2年後には、体育の時間に今まで走ることもできなかったのが、走れるようになったと涙をうかべて、話してくれた。

 現在医学界でも問題となっているこの難病は、体全体の筋肉が萎縮して、心臓に来たら死ぬといわれているおそろしい病気である。実際本人が初めてジムへ来た時は骨と皮の青白な少年だった。この難病がこんなに早く2年後に殆んど全快しようとは、全く私もボディビルのありがたさに驚いた。

 一生を床の中で死を待てといわれた彼は、東京の建設会社へ就職した。初め知人、友人からボディビルを止めるよう忠告をうけたが、周囲の反対を打ち切って、健康になろうという一念が遂にこの結果となった。現在千葉に転勤、その関係でジムへ行けないので自宅で楽しみながら練習をつづけている。

 以上は自分の体の虚弱に悩む2つの例であるが、陸上、野球、柔道、空手、レスリング、水泳などでも補助運動としてより強くなるために各専門コースにより頑張り、野球(西部自衛隊)で全国優勝、柔道では、福工大生の学生が個人1位、佐賀少年刑務所の九州1位、陸上100mで県1位、水泳女子100mの県1位等現在会員の体位向上は著しいものがある。

 私もボディビルによって、現在では身長167cm、体重83kg、胸囲127cm、腕囲43cm、腹囲79cm、大腿囲64cmになることができました。

 3月末亡くなられたアメリカのアイゼンハワー元大統領は、かつて国民の体位向上に多大の感心をよせられ、体位向上特別会議を開きボディビル(ウェイト・トレーニング)を奨励され、米国では現在も国をあげて行なわれている。またニューヨークのバークレイ・へルス・クラブという巨大なジムを経営しているジョニー・テルラソ氏は、ボディビルは最も近代的な健康増進法であり体力をつけ適当な体重を増減し軟弱さをなくする。換言すれば心身共に健康を作る早道である、ともいった。
 今や我国も米・ソ両国のように、国をあげて体力作りに力を入れる時代となった。この時に生をうけた私は、このボディビルを老若男女誰にでも親しめるスポーツとして正しく広めるために一生をかけて生き抜きたいと思う。
月刊ボディビルディング1969年5月号

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