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世界の力豪 ―6―
ユーゼン・サンドウ

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月刊ボディビルディング1968年12月号
掲載日:2018.02.06
田鶴浜 弘
 サンドウ若き日,ヨーロッパ大都市は,どこでもプロレスが盛かんで,大劇場のほのあおいガス燈の下に,各国で名うての力豪どもを集めて,しばしば有名な大トーナメントが賑わい,それほどでない小規模な試合は,力技興行などと一緒に,酒場やナイト・クラブでも行なわれた。
 サンドウが20歳の頃は,もうすでに,ヨーロッパのプロレス社会では一かどの存在で,パリはもちろんのこと,海を渡って,遠くロンドンにも足をのばすのである。
 当時のプロレス仲間で,その後ヨーロッパ・チャンピオンとなり有名な〝ロシアのライオン〟ジョージ・ハッケンシュミットのトレーナーだったヤコブス・コッホもいたし,アメリカ・チャンピオンのアーネスト・ローバー,それに,後にアメリカに渡り,力技興行とサーカスのプロモーターから大劇場主として大成功するジーグフリードも当時はヨーロッパでのマット仲間,そして,こと怪力という点では彼の力倆は抜群であった。
 コッホ評によると,プロレスラー切っての怪力を誇った〝ロシアのライオン〟ハッケンシュミットでさえもサンドウの怪力には及ばない――といっている。
 それなのに何故サンドウがプロレスラーとして終始しなかったのか,――後半アメリカに渡って全人生の大半を,近代プロレス全盛時代のアメリカにありながら飽までも〝ボディビルの父〟ではあるが,ボディビルと切っても切れない関係のプロレス界に,無縁なのが不思議である。
 だが,今にして思うと,彼が力豪となった発端が,そもそも,ギリシャの神々に魅せられて,完全な男性肉体の追究に情熱を打ち込み,格闘も力豪はその副産物にすぎなかった。
 つまり目的は,飽までも理想の肉体改造の真理をきわめる事であって,力だとかレスリングは二の次である――ということなのだろう。
 ボディビルの始祖といわれるゆえんである。
 1893年の渡米自体がそれをはっきり証明しているというのは,その年がコロンブスのアメリカ大陸発見400年で,これを記念してシカゴに世界大博覧会が開かれ,世界中の関心がアメリカに集る――と知ると,世界の注視を浴びる大博覧会で〝肉体改造〟という革命的な自分の主張を世界にアッピールしたいと思った。
 そして彼はその一念をつらぬくのである。
 プロレス仲間ローバーの紹介で,アメリカのプロモーターのアッべー・シェファルとの契約がまとまると,ヨーロッパ・プロレス界に背を向けて勇躍渡米するのだ。
 もちろん,アメリカのプロモーターとしては,サンドウの高名な力技が売れるという計算の上に,この契約は成立したのだし,力豪伝という本文の標題に私もまた忠実であるべき意味から以下力豪サンドウの代表的なその場面を拾うことにしょう。
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 力豪サンドウの名を全ヨーロッパに高めたのは,ヨーロッパ切っての怪力者と定評高かったロンドンの力豪サムソンに勝って以来のことである。(1891年後半彼が22歳のとき)
 サムソンは身長190㌢,130㌔の巨体で,全ヨーロッパ無敵の怪力を誇り,挑戦者は相手を問わず1000㍀の懸賞金を賭けると豪語していたので,サンドウの挑戦試合はロンドンの劇場に大観衆を集めて行なわれた。
 180㌢,95㌔引締ってゼイ肉のないサンドウが,水色のタキシードをまとってあらわれ,サムソンは容貌怪異に加わえて巨体を虎の皮のパンツとコンビネーションになった片はだ半身の上衣をけさがけにまとってあらわれると怖ろしく強そうであるが,これに引きかえサンドウは細身で美貌――ひどくやさ男めいて見える。
 だがレフリーの指示で水色のタキシードをかなぐりすてたサンドウの桜色のハダはまるでへラクレスのような筋肉美――満場の観衆は絶讃の拍手を送る。
 第1回目の試技は,サムソンが30㌔の重錘を右,左,それぞれの手につかみ,両腕を,まっすぐに延ばしたまま前方と,次いで左右に腕が水平になるまで持ちあげて見せた。
 一見,容易なようであるが実は,これは大変な怪力で,サンドウも微笑を含みながら同じことをやった。
 第2回目の試技は120㌔のバーベルをあらゆるやり方で差しあげて勝負を決める――という趣向である。
 サムソンが先づ,これを両腕で連続3回頭上に差しあげて見せた。
 次いでサンドウがどんな趣向を見せるかと満場注視の中に,彼は半身にかまえて,片腕でバーベルをにぎると,満面に朱をそそぐ――と見る間に,何と片腕で美事3度頭上に差しあげる。
 満場の拍手しばし鳴りもやまず〝サムソンも片手差しを受けて見ろ!〟いという怒号が,あちこちからあがったが,彼は観衆の注文にこたえられず,スゴスゴと楽屋に引きあげ,早くもアッサリ勝負が決まった。
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 渡米してからのサンドウが,はじめにやって大いにうけた怪力ショーは,身長190㌢,体重はサンドウの倍もある180㌔という巨大漢の怪物が相棒である。
 最初に舞台の幕があくと,そこは西部の山小屋の設定で,紳士風のサンドウが悪漢の親玉である巨大漢に襲撃されて格闘になる。
 紳士のサンドウが,まづ暴々しい大男を手玉に取るのだ――この大男は,悲鳴をあげてかたわらの山小屋に逃げ込み,青銅製の大きな大砲をかかえて,素手ではかなわぬサンドウを撃とうと身構える。
 するとサンドウは,矢庭に,身を伏せるや,今度は,大男が巨大な大砲を持ってたてこもる小屋ごと満身の力をこめてかかえあげて,進退きわまった悪漢も降参する――という怪力ドラマだった。
 舞台でサンドウが持ちあげた小屋ぐるみの重量は,180㌔の巨大漢,それに青銅鋳物の大砲は少くとも100㌔以上,小屋の重量も70㌔を越えるから,最低その総重量は350㌔乃至400㌔近いものだろう。
 この怪力ドラマで全米各地を巡業して大当り興行を続けるのだ。
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 全米の各地を巡業してサンフランシスコにやってくると,当時有名だったコロネルボーンという興行師のサーカスがかかっていた。
 コロネルボーンという男は,意表をつく企画が売りもので,熊とライオンを闘かわせる興行を計画して,これが大変な前人気を呼ぶのだが,この大呼物が行なわれる直前に,動物愛護協会が警察を動かして中止命令――その大騒ぎの最中だった。
 コロネルボーンの苦境を聞くと,サンドウは,彼を助けてやろうと思って,〝熊対ライオン〟の呼び物の代りに,彼自身がライオンとの闘かいを買って出る。
 ライオン対人間はもっと奇想天外――古代ローマの皇帝ネロ以来ではないか。
 関係者は皆,サンドウの無鉄砲さにあきれて,とめたが彼は如何しても思いとどまらない。
 結局,240㌔もある雄のライオンの四肢に皮製の丈夫なグローブをはめ,口網をかけてこの奇想天外の興行が行わなれることになる。
 たとえグローブをつけて鋭い爪をカバーし,口網をかけたとしても,ライオンの一撃は牛の背骨をタタキ折るといわれるほどの危険きわまる破壊力があるのだから,これはまた大変な前人気であった。
 サンドウは,トレーニング・シャツにタイツ姿という素手,直径50㌳の丈夫な金網の中でライオンと対決するのである。
 緒戦は痛いほどの緊張が観衆の息をのませるニラミ合い――闘かいはライオンから仕掛け,パッとサンドウめがけて跳びかかった。
 サンドウは一瞬早く,タイミングを外しダックしながら大胆にもライオンの前肢の下を潜って内懐に身を伏せながら間髪をいれずライオンの首を両腕でかかえた。
 万一,サンドウが後退していたらおそらくライオンの跳躍力は,二撃,三撃の追いうちを喰わされて倒されたに違いないが,彼の自信と勇気,それにライオンの習性を充分に研究していたから彼は策をあやまらなかったのである。
 ライオンの首をかかえるやいなや渾身の力を両腕に集中して,レスリングのべア・ハッグの姿勢で締めあげておいて,強烈な首投げで,地面にメリ込むほどたたきつける。
 激怒したライオンは怖るべきその前肢でサンドウの頭を粉砕しようと第二の攻撃――又もやサンドウはダックして前方に飛び込むと,もう一度猛獣の胴体に組みつきべア・ハッグで締めあげると苦闘のライオンは狂い吠える凄絶な死闘をサンドウは必死にこらえ切った末,金剛力をふりしぼって抱えあげておいて,もう一度地面にたたきつけた。
 このときサンドウの全身の皮膚は切れ,鮮血にまみれていたが,ライオンもまた首を垂れ,あえいでいた。
 次の瞬間,一体如何したことだろう――いきなりサンドウが,クルリッとライオンに背を向けたその一瞬,電光石火手負いの猛獣が身を躍らせておそいかかる。
 満場は手に汗にぎるのだが,大胆不敵のサンドウは,ライオンの逆襲を待ちかまえて誘ったのだとすぐに判る――背中に殺到したライオンの前肢を両手でハッシと捕らえるや,鮮やかな一本背負い――ライオンはモンドリ打って,ブン投げられた猫みたいに地面にたたきつけられ,その衝撃はこたえたらしい――素速く飛び退ってしまった。
 この時,興行主のコロネルボーンと猛獣使いがサンドウを外に連れ出し満場のすさまじいほどの拍手と歓呼の中にライオン対人間の決闘は終わった。
 この一生一代の大冒険は,サンドウが全盛時代1898年,彼は29歳であった。
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 一代の力豪サンドウの最後もまた力豪にふさわしいエピソードを残す。
 1925年功成り名遂げた彼がすでに引退して余生を悠々自適のある晩,酒宴の帰途郊外を歩いていると路傍で自動車がぬかるみの溝に車輪を落とし,大勢が寄ってたかって丸太を車輪にあて挺子にし引きあげようと努力しているが,地表がぬかっているためうまくゆかない。
 一ぱい気嫌のサンドウは,つい茶目っ気をおこして,〝こんな自動車1台大勢よってたかって手に負えないとはなさけない――俺が持ち上げてやろう〟とばかり,昔とったキネヅカ――満身の力をこめて引きあげると200㌔を越す自動車は持ちあがってしまった。
 あっけに取られたヤジ馬を尻目に悠々立ち去ろうとしたとき,彼は急に目眩いにおそわれ,その場に膝をついたまま立てず,心臓マヒで急死してしまった。
 時に58歳――流石のサンドウも,飲酒のあとで,しかも急激に怪力をふりしぼったのが58歳の心臓にはオーバー・ロード過ぎたといわれ,その死もまた後世にいましめを残す貴重なものだった。
月刊ボディビルディング1968年12月号

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