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“ミスター日本物語”人間シリーズ(一)
初代ミスター日本 中大路和彦 その二

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月刊ボディビルディング1971年5月号
掲載日:2018.03.25
田鶴浜 弘

“力士あがりの肉屋の主人”とチビッ児のコンビ

 中大路の身体づくりの発端は、蔵前高工の1年生の正月、鉄亜鈴から始まった――と前号に書いた。

 それに加えて、もう1つ手近なところにいい刺戟を与えてくれる人物と知り合った――。というのは、そのころ彼は、学校から帰ると、アルバイトに近所の写真屋の店番をやっていたがヒマがあると例の鉄亜鈴をふりまわしていた。そんな彼を見て、人並はずれた大男の隣の肉屋のおやじさんがニコニコしながら話しかけて来た。
“学生さん、力をつけるにはそいつが一番いい――ワシも若い頃にはずいぶんやったもんだ”

 見上げるような上背が180㌢はあるガッチリした骨太の頑丈な体格は、多分100㌔近くあろうと思えた。

 これが、隣の肉屋の主人、内藤さんとの初出合いで、話を聞いてみると、当時トキメク大横綱、吉葉山の兄弟弟子で、かつては十両まで行った関取あがりという人物であった。

 やがて、大相撲の関取あがり――分別盛りの大男、肉屋の内藤さんと鉄亜鈴好きのチビッ児少年という奇妙なコンビは仲好しになるのだ。

 内藤さんは、チビッ児少年の負けん気に感心しはじめた。

 一緒に鉄亜鈴をやっているうちに、しまいには、惣菜用のコロッケ材料であるジャガ芋の45㌔俵を、何回さし上げるか――という力くらべから、腕相撲の挑戦である。

YMCAで初めて本格的トレーニング

 鉄亜鈴運動の進歩のセイなのか、とに角、メキメキ手ごたえが出てくるではないか――力自慢の内藤さんも肚の中では“おや、おや”と思うほどだった。

 それには実は、鉄亜鈴のほかに次のようなわけがあった。

 蔵前高工に入学すると同時に中大路は、テニス部と相撲部に入ったのだが仲間の堀川という男が、最近目に見えて地力を付けて伸びて行くのである。

 とにかく、そのパワーの進歩が、なみなみでは無いから、きっと何か特殊な秘訣があるに違いないと思った“どうだい――俺の腕は太くなっただろう。胸囲だって5㌢近く大きくなったんだ……”

 そういって堀川が誇らしげに自慢したキッカケを中大路は逃がさなかった“いやぁ、全くお前は凄ごいなあ――こないだから、お前にアヤカリたいと思ってたんだぜ――俺にだけ内緒でその秘密を教えろよ”
 手放しで絶賛されると、お互いにスポーツマンだから堀川もイヤとはいえない。――それに中大路の持って生れた明るくて親しみ深い人柄も好感が持てたにちがいない。

“じゃぁ、これから俺について来いよ、いいところに連れてってやろう”

 堀川が引っばって行ったのは、神田美土代町のYMCA体育館であった。

 そこにはウェイト・トレーニングのあらゆる器具が完備していた。

 バスケットボール・コートもあったし、何でもスポーツが楽しめる――腕も胸も大きくなるに申し分ない設備が整っていると思ったから3カ月1千円という会費を即座に払って入会した。

身長不足で力士をあきらめ

 内藤さんとのつき合いのおかげで、中大路は大相撲の宮城野部屋に出入りするようになった。

 高工2年になった昭和29年春頃には、もう体重も62〜63㌔、めっきり力もついていて、腕相撲は、YMCAでは誰にも負けなかったし、宮城野部屋の稽古では序二段の連中といい勝負――そして肉屋の内藤さんを逆に負かすほどになった。

 二段目あたりの若い者と五分だから彼の出入りは、若い連中にいい刺戟になるのだ。

“素人に負けるな!”

 兄弟子たちにハッパをかけられるまでもなく、みんながそう思った。

 毎日チャンコ鍋にありつける――相撲の弟子入りを彼は本気で考えた。

 そして毎週、土曜日と日曜日には熱心に通い、とくに福の里に稽古をつけてもらううちに自信もついた。それにチャンコ鍋の魅力もあった。当時はいくらか食料事情もよくなってはきたが、米と麦が半々で、切り昆布と油揚げの弁当の味とは較べものにならなかった。

 内心彼は、往年の“小兵大関”大の里を夢見ていたのかも知れない。だが大相撲の入門規定は身長170㌢以上という規定があり、彼の身長は残念ながら167㌢しかないのだからあきらめなくてはならなかった。

 ある日、吉葉山がそれを措んでしんみりと、彼にこういった。
“お前ほどの根性と、熱心さがあれば、いくら体は小さくても、必ず1人前の関取になれるんだがなぁ――しかし、170㌢という規定がある以上どうすることもできない――”

 苦労人で心のやさしい横綱は、中大路の心情を察して、彼を滅入らさないように、温かい思いやりであった。

 そして言葉をついで。
 “――どうだ、お前の友達で、デッカイ身体の奴がいたら連れて来いよ――”

 彼は、ここではすっかりいい顔になっていたから、そんな風にたのまれる

 フッと思い出したのが、水泳仲間で彼が相撲を仕込んでいる後輩の中学生の顔だった。そして、次の土曜日に連れて行ったのが後の宇田川関であった

 宇田川関は、今日の大横綱大鵬と同期で――番付は前頭筆頭までつとめあげたが、入門して半年ぐらいは、宮城野部屋の稽古で中大路にかなわなかったようだ。
(神田・YMCAでトレーニングをしていた頃の中大路和彦選手)

(神田・YMCAでトレーニングをしていた頃の中大路和彦選手)

“少年ケニア”に主演のロが

 もうその頃の中大路の身体は、YMCAの仲間の間でも光っていた。

 YMCAでは昭和29年の秋から、ウェイト・トレーニングとボディビルのグループを分離することにした。

 丁度、その頃であった。――当時人気のあった“少年ケニア”の映画化を手がけていたアメリカの映画会社「メトロ社」から誘いがかかるのである。

 YMCAはアメリカ人の出入りが多いので、体育館で練習していた彼が目をつけられたらしい。

“あの少年のイメージが少年ケニアにピッタリだ”ということになった。


 だが、翌年高工を卒業すると同時に電源開発会社への入社がすでに決っていたのだからその誘いを断わることになる。

 考えてみると、三年前の正月、浅草でワイズ・ミューラーの主演する“ターザン”の素晴らしい肉体美に憧れたのが、そもそものキッカケで、ボディビルをはじめた彼が、今度は世界中の少年のアイドルになるかも知れない“少年ケニア”に主演の口がかかる――というのも面白いめぐりあわせだと思うのである。

“少年ケニア”はあきらめなさい――お前の若い日の思い出に胸にしまっておくだけでいいんですよ。

 さすがに未練のあった彼を、しっかり者の母がそういってなぐさめた。

電源開発のタフガイ

 昭和30年の春、学校を卒業し電源開発に入社すると、もう相撲の宮城野部屋とも当分お別れである。

 当座は何かワビシイ思い――毎朝東京駅まで国電で通勤するのだが、ボディビルだけは会社づとめをしながらも続けられるのがせめてものナグサメ――いや、むしろボディビルに打ち込んだといっていい。

 こんな事もあった――。同じ新入社員に学生時代砲丸投げで鳴らした小糸選手がいて、中大路と小糸の2人がタフガイの双壁だった。そして、一体どっちが力が強いかということが昼休みの話題を賑わせていたのだが、ついに、ある日2人は腕相撲で対決する羽目になる。

 ヤンヤの声援のなかで、ボディビルの中大路が砲丸投の小糸を負かした。

 桜も散って青葉がしげる頃のある日駅の売店で手にした「ファイト」という雑誌を見て思わず唸った。

 ボディビルが載っている――“ミスター日本コンテスト”を開催して、優勝者をアメリカのミスター・ユニバースに日本代表として派遺する計画があると書いてある。

 これが、中大路が“初代ミスター日本”の栄冠を獲得する前年のことである。

 中大路の“人間シリーズ”としての真の姿は“初代ミスター・日本”獲得以後にあるのだが、本稿はここまでにとどめていずれ稿を改めて書くことにしたい。
月刊ボディビルディング1971年5月号

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