ボディビル風雲録 5
月刊ボディビルディング1969年6月号
掲載日:2018.06.24
田鶴浜 弘
玉利斉の人生劇場――最初の風雲のにおいが、学生重量あげ競技連盟設立運動の呼びかけ――と、前号の末尾に僕は書いた。
そこで本稿を書き出すのに、一応、当の玉利君に当時を回想してもらった方がいい――そう思いついたので、まずその発端から玉利君との対談で本稿を進行させてみる。
玉利 あれは昭和29年があけるとすぐでした。
田鶴浜 当時の早大バーベル・クラブの状況を思い出してみて――。
玉利 あの頃、早大バーベル・クラブはメンバーが50人から60人位になった頃で、メンバーたちの目的は、大体三通りに分けられました――貧弱な身体でも健康で立派な身体になれると聞いて、体育会の運動部からは相手にされないような連中がドンドン入ってきてこれが一番多かったですね。それから他のスポーツをやっていて、そのスポーツが強くなるために基礎的な筋肉作りをしよういう目的。僕なども、もとはといえば柔道を強くしたいのがはじまり。柔道部の他に、レスリング部もいたし、他の運動部の連中もいました。重量あげ競技はまだ早大にはまだ部が無かったが、その希望者も、たしか3人程いました。3番目には、外国誌などで、ミスター・コンテストに出場するボディ・ビルダーの隆々たる筋肉美に憧れた、肉体美追求が目的という者もいましたね。だからバーベル・クラブ・メンバーの目的というと間口はとても広かったですね。
田鶴浜 すると早大バーベル・クラブ・キャプテンとして、君自身が、クラブ統率上のポイントをどんな風に考えていたの?
玉利 もうその頃は、僕自身、柔道を強くする目的ではなくなって、それよりも新らしいものと抱負がいっぱい――つまり弱い身体の人を強く逞しくすること。社会に出てからも健康管理のために行なうのがボディビル運動という考え方で、日本には今まで無かった新しい体育分野の開発、いつも日本人の体格改良と健康増進を俺達が、バーベル運動の提唱でやるんだ――単に記録や勝負を争そう競技よりも、さらに建設的な意義がある。この運動の正しい発展に生涯を賭けても悔いない大きな仕事ではないか――若い功名心を燃やしはじめていました。
田鶴浜 丁度その矢先に、学生重量あげ競技連盟結成の呼びかけがあった――というわけだ。
玉利 なにしろ学生重量あげ界にしても、またわれわれの早大バーベル・クラブにしても、両方とも根をおろしてからまだ日が浅くて、共通していることは両方ともバーベルを使用しての鍛練に打ち込んでいるので、一見したところでは全く同じようなものに見えたし、先程いったように、われわれのメンバーの中にも重量あげ競技志望者が3人ほどいたんだから、この呼びかけを受けたのは、一応無理もないことでしたが、いざ会ってみると双方の基本姿勢がまるっきり喰いちがっていんです。
田鶴浜 その会談の模様を
玉利 当時の体協――お茶の水の木造の2階ででしたね。当時はあらゆる競技団体があそこに集っていました。まだ新興スポーツだった日本ウェイト・リフティング協会もその一つだったが、そこで明大主将の神谷君たちが中心で学生重量あげ競技連盟結成の準備を進めていて、来てくれというので僕は、林マネージャー(現NTV運動部次長)と2人で会合に出席しました。
田鶴浜 どんな顔ぶれでした。
玉利 明大の神谷、白鳥(後にオリンピック代表で活躍した)慶大の江木、法政の荒川、YMCAの内藤(現日本協会副理事長野中氏の旧姓)などの諸君が集った。そのとき集った各校の中で、50人以上の部員を持っていた早大は、たしかに大世帯だったと思いますよ。
田鶴浜 どんな話になりました?。
玉利 会合をリードしていたのは明大主将神谷君でした。僕等の考え方は早大バーベル・クラブの中でウェイト・リフティングを目的に練習している3人だけを学連におくるのは賛成だが、50人以上のメンバーの早大バーベル・クラブ全体としては、体づくりとしてのボディビルが目的で、バーベル運動をやっているのだから一応友好団体の関係にとどめて、正式メンバーとして加盟しない方が適当だ。但し今後必ずウェイト・リフティングを目指す部員も段々でてくるだろうから、その時は、ウェイト・リフティング専門の彼等をよろこんで送る――という態度で臨んだのに対して、神谷君はこういった――元来バーベルは、ウェイト・リフターのための用具だから、バーべル運動の究極の目的はオリンピック3種目(プレス、スナッチ、ジャーク)を終極の目標にすべきであって、早大バーベル・クラブの大半がボディビルを目標にしていたとしても、彼等はウェイト・リフター予備軍にすぎない。いやバーベル運動によるボディビルはウェイト・リフティングの枠内でやらせるべきだ――と強引な意見で、早大バーベル・クラブは加盟すべきだと主張する――吾々はボディビルはウェイト・リフティングだけに属さず、すべてのスポーツの基本になる独自の基礎体育だというバーベル運動に対する姿勢が根本から相違しているので、いくら論議しても堂々めぐりで、結局は物わかれに終りました。
田鶴浜 その会合一回きりでさようならだったの?
そこで本稿を書き出すのに、一応、当の玉利君に当時を回想してもらった方がいい――そう思いついたので、まずその発端から玉利君との対談で本稿を進行させてみる。
玉利 あれは昭和29年があけるとすぐでした。
田鶴浜 当時の早大バーベル・クラブの状況を思い出してみて――。
玉利 あの頃、早大バーベル・クラブはメンバーが50人から60人位になった頃で、メンバーたちの目的は、大体三通りに分けられました――貧弱な身体でも健康で立派な身体になれると聞いて、体育会の運動部からは相手にされないような連中がドンドン入ってきてこれが一番多かったですね。それから他のスポーツをやっていて、そのスポーツが強くなるために基礎的な筋肉作りをしよういう目的。僕なども、もとはといえば柔道を強くしたいのがはじまり。柔道部の他に、レスリング部もいたし、他の運動部の連中もいました。重量あげ競技はまだ早大にはまだ部が無かったが、その希望者も、たしか3人程いました。3番目には、外国誌などで、ミスター・コンテストに出場するボディ・ビルダーの隆々たる筋肉美に憧れた、肉体美追求が目的という者もいましたね。だからバーベル・クラブ・メンバーの目的というと間口はとても広かったですね。
田鶴浜 すると早大バーベル・クラブ・キャプテンとして、君自身が、クラブ統率上のポイントをどんな風に考えていたの?
玉利 もうその頃は、僕自身、柔道を強くする目的ではなくなって、それよりも新らしいものと抱負がいっぱい――つまり弱い身体の人を強く逞しくすること。社会に出てからも健康管理のために行なうのがボディビル運動という考え方で、日本には今まで無かった新しい体育分野の開発、いつも日本人の体格改良と健康増進を俺達が、バーベル運動の提唱でやるんだ――単に記録や勝負を争そう競技よりも、さらに建設的な意義がある。この運動の正しい発展に生涯を賭けても悔いない大きな仕事ではないか――若い功名心を燃やしはじめていました。
田鶴浜 丁度その矢先に、学生重量あげ競技連盟結成の呼びかけがあった――というわけだ。
玉利 なにしろ学生重量あげ界にしても、またわれわれの早大バーベル・クラブにしても、両方とも根をおろしてからまだ日が浅くて、共通していることは両方ともバーベルを使用しての鍛練に打ち込んでいるので、一見したところでは全く同じようなものに見えたし、先程いったように、われわれのメンバーの中にも重量あげ競技志望者が3人ほどいたんだから、この呼びかけを受けたのは、一応無理もないことでしたが、いざ会ってみると双方の基本姿勢がまるっきり喰いちがっていんです。
田鶴浜 その会談の模様を
玉利 当時の体協――お茶の水の木造の2階ででしたね。当時はあらゆる競技団体があそこに集っていました。まだ新興スポーツだった日本ウェイト・リフティング協会もその一つだったが、そこで明大主将の神谷君たちが中心で学生重量あげ競技連盟結成の準備を進めていて、来てくれというので僕は、林マネージャー(現NTV運動部次長)と2人で会合に出席しました。
田鶴浜 どんな顔ぶれでした。
玉利 明大の神谷、白鳥(後にオリンピック代表で活躍した)慶大の江木、法政の荒川、YMCAの内藤(現日本協会副理事長野中氏の旧姓)などの諸君が集った。そのとき集った各校の中で、50人以上の部員を持っていた早大は、たしかに大世帯だったと思いますよ。
田鶴浜 どんな話になりました?。
玉利 会合をリードしていたのは明大主将神谷君でした。僕等の考え方は早大バーベル・クラブの中でウェイト・リフティングを目的に練習している3人だけを学連におくるのは賛成だが、50人以上のメンバーの早大バーベル・クラブ全体としては、体づくりとしてのボディビルが目的で、バーベル運動をやっているのだから一応友好団体の関係にとどめて、正式メンバーとして加盟しない方が適当だ。但し今後必ずウェイト・リフティングを目指す部員も段々でてくるだろうから、その時は、ウェイト・リフティング専門の彼等をよろこんで送る――という態度で臨んだのに対して、神谷君はこういった――元来バーベルは、ウェイト・リフターのための用具だから、バーべル運動の究極の目的はオリンピック3種目(プレス、スナッチ、ジャーク)を終極の目標にすべきであって、早大バーベル・クラブの大半がボディビルを目標にしていたとしても、彼等はウェイト・リフター予備軍にすぎない。いやバーベル運動によるボディビルはウェイト・リフティングの枠内でやらせるべきだ――と強引な意見で、早大バーベル・クラブは加盟すべきだと主張する――吾々はボディビルはウェイト・リフティングだけに属さず、すべてのスポーツの基本になる独自の基礎体育だというバーベル運動に対する姿勢が根本から相違しているので、いくら論議しても堂々めぐりで、結局は物わかれに終りました。
田鶴浜 その会合一回きりでさようならだったの?
29年秋慶大ウェイト・リフティング部と合同練習のため日吉に来た早大バーベル・クラブ。前列右端が玉利キャプテンそのとなりが窪田コーチ
玉利 いや、その後も2、3回会談を重ねましたよ。今思い出してつくづく感心しているのは、リーダーの神谷君ですね。彼はいつも僕とお互に同じ論法で渡り合い一歩も譲歩しない。そして、どうしても早大バーベル・クラブの加盟をあきらめないんですね。物別れの会談が三度繰り返されて、しばらく何も呼びかけが無くなった。あきらめたのかと思っていると、5月に議員会館で学連発会式をやるから加盟校として出席して欲しい――といきなりポンと通知が来たんです。この神谷君という人は学連結成に大した情熱をたぎらせていて、しかも実行力の持ち主。強引だけど親分ハダのボルテージの高い人物だったんですよ。その点がかえって後にわざわいしたんだ。日本ウェイト・リフティング協会の中で摩擦を起こして、今では協会には無縁になっちまったのはおしい人だ――弟さんは自衛隊の体育教官で金メダルの三宅の同僚になる人だが、2年前にボディビル協会が50人程で自衛隊体育学校に合宿したとき、その弟さんのお世話になり、15年前やり合ったお兄さんとの事を話し合って本当に僕は感概無量でしたよ。
田鶴浜 その神谷氏は多分ウェイト・リフティング界の織田信長――そんなイメージ・アップはオーバーかしらところでその発会式の首尾は?
玉利 とにかく行きましたよ。早大バーベル・クラブの主だった仲間を連れて出かけて行くと、神谷君は、とても喜んでくれて、僕の顔を見るなり二コニコしながらガッチリと握手をし、玉利君これから仲良くやろう、会長は君の学校の大先輩なんだといって紹介されたのが、早大柔道部の先輩田原春次衆議院議員でした。そのとき僕は神谷君も成程当時早大バーベル・クラブの意向(ボディビルは独自の基礎体育であって必ずしもウェイト・リフティングだけに属するものではない)を理解してくれたものと解釈したんです。だから発会式のときは僕の方から何もいわなかった――ところが、あとで僕の考えが甘かったのがすぐわかる。彼のボディビルに対する基本姿勢は一歩も崩しちゃあいなかった――僕が発会式に早大バーベル・クラブの主だったところを全部連れて参加したのを、先方はこれでボディビルをウェイト・リフティング傘下においた――と感違いした。だからニコニコして御気嫌だったわけですよ。そしてボディビルをウェイト・リフティングの予備軍だという考え方を強要してくることになる。回想するとむしろ彼の自信と終始一貫ぶりは立派だったと妙に感心したりもする。
田鶴浜 さすがの玉利君も全面降服だったんだね。
玉利 違いますよ、神谷君の姿勢がはっきり解ったから、このままズルズルになってはたまらんと思い、ウェイト・リフティングの学連とは、はっきり一線を画することにしたんです。その後も呼びかけがあったがはっきりと袂をわかって、新しい体育としてのボディビルの普及活動とその推進に専心するわけで、それから間もなくですよ田鶴浜さんとお会いしたときファイト社で、日本ボディビル協会組織を作らにゃあいかん――といわれたが、あのときわれわれの気持も肚の中は同じだった。
田鶴浜 早大バーベル・クラブのコーチだった窪田登君の当時の立場は微妙だったと思うけど――
玉利 たしか昭和25年度のウェイト・リフティング協会のミスター・二ッポン・コンテストでミスター・ニッポンにえらばれると同時に、ウェイト・リフティングのライト級で優勝、アジア大会の代表になった。それに日本ウェイト・リフティング協会の中心人物だった井口幸雄理事長と同郷(岡山)で直接の後輩という人間関係もあったから、われわれがウェイト・リフティングの学連と手を切るとなると、窪田さんは何やかや苦しい立場に立ったと思いますね。だから一時は井口先輩から早大バーベル・クラブが学連にとどまるように努力してくれという意味の呼びかけもあったらしい――そんなわけで、窪田氏が仲介役になって僕と井口先輩との3人会談を昭和29年の秋にやりました。井口さんにお会いした印象は、さすがにウェイト・リフティング一筋に打ち込み、スポーツ界で陽当りの悪いにもかかわらず、辛棒強く長年引っぱってこられた人柄に尊敬の念を持ちましたね。それと僕等の主張に対してある程度人間的な理解は持ってもらえたと思うが、やはり立場上の相違は学連の場合と同じだったのだが、お会いした結論は、同じバーベルを握る以上は友好関係だけは保とうじゃぁないか――ということになり、早速早大バーベル・クラブの30名を引きつれて、日吉の慶応大学ウェイト・リフティング部に出向き、なごやかなバーベル合同練習をやったのが非常によかったと思い出されます。
田鶴浜 日吉の山のなごやかな合同練習は確にドラマの一場面でしたね。
玉利 だが、その後のゴーイング・マイ・ウエイが脚光を浴び、急激な発展ぶりがブームの様相をおびて、はなやかな舞台におどり出すと、ボディビル・ブームに反動的な批判が浴びせられましたね。――医者から、体育専門家から、知識人から、スポーツ界から。
田鶴浜 それらの中で最も激しい批判の声を浴びせてきたのはウェイト・リフティング関係者からではなかったかしら?
玉利 批判――いやいろいろな非難が多かったですよ。①内臓の発達しない恰好だけの肉体を追ってはいないか②ボディ・ビルダーは筋力もスピードも劣りはしないか?③スポーツマン・シップだとかスピリットに欠けていないか?④単に肉体を見せびらかしたがるファッション・モデルみたいな奴が多くはないか?⑤プロ的なボディビル屋が横行しているではないか?――まだいろいろな非難の矢が次々と放たれましたが、今になってみるとボディビル発展へのこやしになったものもありました。
ボディビル・ブームは明暗をあやなし、やがてそれ自身が風雲を呼ぶのである。
田鶴浜 その神谷氏は多分ウェイト・リフティング界の織田信長――そんなイメージ・アップはオーバーかしらところでその発会式の首尾は?
玉利 とにかく行きましたよ。早大バーベル・クラブの主だった仲間を連れて出かけて行くと、神谷君は、とても喜んでくれて、僕の顔を見るなり二コニコしながらガッチリと握手をし、玉利君これから仲良くやろう、会長は君の学校の大先輩なんだといって紹介されたのが、早大柔道部の先輩田原春次衆議院議員でした。そのとき僕は神谷君も成程当時早大バーベル・クラブの意向(ボディビルは独自の基礎体育であって必ずしもウェイト・リフティングだけに属するものではない)を理解してくれたものと解釈したんです。だから発会式のときは僕の方から何もいわなかった――ところが、あとで僕の考えが甘かったのがすぐわかる。彼のボディビルに対する基本姿勢は一歩も崩しちゃあいなかった――僕が発会式に早大バーベル・クラブの主だったところを全部連れて参加したのを、先方はこれでボディビルをウェイト・リフティング傘下においた――と感違いした。だからニコニコして御気嫌だったわけですよ。そしてボディビルをウェイト・リフティングの予備軍だという考え方を強要してくることになる。回想するとむしろ彼の自信と終始一貫ぶりは立派だったと妙に感心したりもする。
田鶴浜 さすがの玉利君も全面降服だったんだね。
玉利 違いますよ、神谷君の姿勢がはっきり解ったから、このままズルズルになってはたまらんと思い、ウェイト・リフティングの学連とは、はっきり一線を画することにしたんです。その後も呼びかけがあったがはっきりと袂をわかって、新しい体育としてのボディビルの普及活動とその推進に専心するわけで、それから間もなくですよ田鶴浜さんとお会いしたときファイト社で、日本ボディビル協会組織を作らにゃあいかん――といわれたが、あのときわれわれの気持も肚の中は同じだった。
田鶴浜 早大バーベル・クラブのコーチだった窪田登君の当時の立場は微妙だったと思うけど――
玉利 たしか昭和25年度のウェイト・リフティング協会のミスター・二ッポン・コンテストでミスター・ニッポンにえらばれると同時に、ウェイト・リフティングのライト級で優勝、アジア大会の代表になった。それに日本ウェイト・リフティング協会の中心人物だった井口幸雄理事長と同郷(岡山)で直接の後輩という人間関係もあったから、われわれがウェイト・リフティングの学連と手を切るとなると、窪田さんは何やかや苦しい立場に立ったと思いますね。だから一時は井口先輩から早大バーベル・クラブが学連にとどまるように努力してくれという意味の呼びかけもあったらしい――そんなわけで、窪田氏が仲介役になって僕と井口先輩との3人会談を昭和29年の秋にやりました。井口さんにお会いした印象は、さすがにウェイト・リフティング一筋に打ち込み、スポーツ界で陽当りの悪いにもかかわらず、辛棒強く長年引っぱってこられた人柄に尊敬の念を持ちましたね。それと僕等の主張に対してある程度人間的な理解は持ってもらえたと思うが、やはり立場上の相違は学連の場合と同じだったのだが、お会いした結論は、同じバーベルを握る以上は友好関係だけは保とうじゃぁないか――ということになり、早速早大バーベル・クラブの30名を引きつれて、日吉の慶応大学ウェイト・リフティング部に出向き、なごやかなバーベル合同練習をやったのが非常によかったと思い出されます。
田鶴浜 日吉の山のなごやかな合同練習は確にドラマの一場面でしたね。
玉利 だが、その後のゴーイング・マイ・ウエイが脚光を浴び、急激な発展ぶりがブームの様相をおびて、はなやかな舞台におどり出すと、ボディビル・ブームに反動的な批判が浴びせられましたね。――医者から、体育専門家から、知識人から、スポーツ界から。
田鶴浜 それらの中で最も激しい批判の声を浴びせてきたのはウェイト・リフティング関係者からではなかったかしら?
玉利 批判――いやいろいろな非難が多かったですよ。①内臓の発達しない恰好だけの肉体を追ってはいないか②ボディ・ビルダーは筋力もスピードも劣りはしないか?③スポーツマン・シップだとかスピリットに欠けていないか?④単に肉体を見せびらかしたがるファッション・モデルみたいな奴が多くはないか?⑤プロ的なボディビル屋が横行しているではないか?――まだいろいろな非難の矢が次々と放たれましたが、今になってみるとボディビル発展へのこやしになったものもありました。
ボディビル・ブームは明暗をあやなし、やがてそれ自身が風雲を呼ぶのである。
月刊ボディビルディング1969年6月号
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