ボディビル風雲録6
月刊ボディビルディング1969年7月号
掲載日:2018.03.08
田 鶴 浜 弘
学生ウェイト・リフティング連盟との軋轢に屈せず、早大バーベル・クラブはウェイト・リフターだけの予備軍じゃない、独自の体育ーー基礎体力作りのパイオニヤであるーーという理念のもとに、一路、ゴーイング・マイ・ウェイで、走りはじめた。
「ボディビルはすべてのスポーツの基礎作りじゃあないか」「いや、スポーツ目的だけではケチ臭い。日本民族の体格を改良し、敗戦で気合いの抜けた若者を立ち直らせる民族復興運動の一石にしなくちゃあいけない」
その意気こそ高かったが、やがて“練習場問題”という思いもよらない伏兵に足元をさらわれることになるのだ。
無理もないーーそのころ早大バーベル・クラブといっても、単なる早大学生の同好会にすぎない。従ってその本拠というと、実は、しがない居候みたいなものだった。
早大野球部グランド前の大通りの坂を登りつめて戸塚本通りに突き当たる手前の露路を左に入ると早大裏門に通じていて、そこには昭和のはじめ田中穂積学長時代に建てた鉄筋コンクリート三階建の旧早大体育館があり、ここが本拠のはずなのだが、その体育館の道場区分にバーベル・クラブ専用のスペース等というものは何処にも有りはしなかった。
一階は、柔道部とレスリング部が二分していたし、二階が剣道部、空手部、フェンシング部、そして三階にはボクシング部、体操部、卓球部、山岳、スキー部などが陣取っている。
一階の柔道部とレスリング部の境の廻りに大きな鏡がたてかけてあって、その前にレスリング部員が使用するバーベルやダンベルが転がっていた。
バーベルといっても、おそろしく旧式で無細工な代もので、シャフトの両端にネジのみぞが切ってあって、そこに鉄塊をグルグル廻しながらネジ込んで取りつけるものだとか、シャフトの両端にブリキでカバーしたコンクリート塊を取りつけたものなどである。
もともとは、レスリング部員や柔道部員が、時々鏡の前でそれ等をまわすという至極のんびりした眺めだったのだが、やがて、その辺りがおそろしく立てこみはじめた。
これが早大バーベルクラブの本拠というわけで、つまりレスリング部の用具と場所を借りて練習をやる一団が、グングンふくれあがり、忽ちの内に100名を突破するという有様ーーこうなると、そもそも、この体育館一階の主であるはずの柔道部、レスリング部両部を合わせた毎日の練習人員よりも、ほんの軒を貸したバーベル・クラブに集る練習人員の方が、ずっと大世帯になってしまったのだから、この珍現象はひどく目立ってくる。
こうなると早大体育館を管理する体育局としては、黙認できなくなってくるのだ。
早大バーベル・クラブは、別に大学当局がその設立を正式に承認して体育館の使用を許可したわけでは無くて、単に、レスリング部と柔道部の、友好的な支援によって両部の道場の一部の使用を認めていたーーというのに過ぎない。
彼等の中には、この体育館の使用を正式に認められた各部の部員や関係者が少なく無かったことにもよる。
先頭に立ってやり出したのが、もともとレスリング先輩の平松だし、同好会ながら一応正式運動部なみの体制で、監督がバスケット・ボールの先輩で体育局職員の人見、主将が柔道部員の玉利、またクラブ員ではないがレスリング部関係者も多く、遠藤、今田、柔道部の石井、結城たち。体操、山岳部からも、後年プロ野球に強打で鳴らした野球部の森徹の姿も見える。各運動部からは一般に支援ムードであった。
「ボディビルはすべてのスポーツの基礎作りじゃあないか」「いや、スポーツ目的だけではケチ臭い。日本民族の体格を改良し、敗戦で気合いの抜けた若者を立ち直らせる民族復興運動の一石にしなくちゃあいけない」
その意気こそ高かったが、やがて“練習場問題”という思いもよらない伏兵に足元をさらわれることになるのだ。
無理もないーーそのころ早大バーベル・クラブといっても、単なる早大学生の同好会にすぎない。従ってその本拠というと、実は、しがない居候みたいなものだった。
早大野球部グランド前の大通りの坂を登りつめて戸塚本通りに突き当たる手前の露路を左に入ると早大裏門に通じていて、そこには昭和のはじめ田中穂積学長時代に建てた鉄筋コンクリート三階建の旧早大体育館があり、ここが本拠のはずなのだが、その体育館の道場区分にバーベル・クラブ専用のスペース等というものは何処にも有りはしなかった。
一階は、柔道部とレスリング部が二分していたし、二階が剣道部、空手部、フェンシング部、そして三階にはボクシング部、体操部、卓球部、山岳、スキー部などが陣取っている。
一階の柔道部とレスリング部の境の廻りに大きな鏡がたてかけてあって、その前にレスリング部員が使用するバーベルやダンベルが転がっていた。
バーベルといっても、おそろしく旧式で無細工な代もので、シャフトの両端にネジのみぞが切ってあって、そこに鉄塊をグルグル廻しながらネジ込んで取りつけるものだとか、シャフトの両端にブリキでカバーしたコンクリート塊を取りつけたものなどである。
もともとは、レスリング部員や柔道部員が、時々鏡の前でそれ等をまわすという至極のんびりした眺めだったのだが、やがて、その辺りがおそろしく立てこみはじめた。
これが早大バーベルクラブの本拠というわけで、つまりレスリング部の用具と場所を借りて練習をやる一団が、グングンふくれあがり、忽ちの内に100名を突破するという有様ーーこうなると、そもそも、この体育館一階の主であるはずの柔道部、レスリング部両部を合わせた毎日の練習人員よりも、ほんの軒を貸したバーベル・クラブに集る練習人員の方が、ずっと大世帯になってしまったのだから、この珍現象はひどく目立ってくる。
こうなると早大体育館を管理する体育局としては、黙認できなくなってくるのだ。
早大バーベル・クラブは、別に大学当局がその設立を正式に承認して体育館の使用を許可したわけでは無くて、単に、レスリング部と柔道部の、友好的な支援によって両部の道場の一部の使用を認めていたーーというのに過ぎない。
彼等の中には、この体育館の使用を正式に認められた各部の部員や関係者が少なく無かったことにもよる。
先頭に立ってやり出したのが、もともとレスリング先輩の平松だし、同好会ながら一応正式運動部なみの体制で、監督がバスケット・ボールの先輩で体育局職員の人見、主将が柔道部員の玉利、またクラブ員ではないがレスリング部関係者も多く、遠藤、今田、柔道部の石井、結城たち。体操、山岳部からも、後年プロ野球に強打で鳴らした野球部の森徹の姿も見える。各運動部からは一般に支援ムードであった。
早稲田大学体育館の前で中列左玉利キャプテン、右村田館長後列人見監督(昭和30年頃)
玉利君に当時を回想してもらうと、こういっていた。
「部長になっていただいた山岳部の先輩関根先生を始め、レスリング部の道明監督、剣道部の小藤先輩だとか、ボクシング先輩でプロ入りし“大学の虎"といわれ、その頃引退しスポーツ・ニッポン記者に転じていた後藤先輩などにはずい分支持して頂いたのを感謝してますよ」
そんな周囲の状勢だったからこそ管理当局の責任者だった村田体育館長も、一般学生が続々とこの練習につめかけるのを黙認してきたかたちだった。
だが或日、同じ体育局職員でバーベル・クラブ監督をやっている人見を通じて、体育館使用をやめさせて呉れんかと、とうとう相談してきた。
「体育館使用規則がある以上村田館長にいわれると、このままレスリング部の好意にすがってあそこで練習を続けるわけにはいかんのだよ引越しをしなくちゃあならん」
人見監督は玉利主将、小林副主将、林マネージャー等3人の幹部を招いて、降って涌いた難局の対策にひたいを集めた。つまり追い立てをくったのだ。
体育館の使用が許されないーーとなると、折角、ここまで発展した矢先、何としてもこれに代わる練習場を即刻見つけなくてはならない。
早大の近辺から戸塚界わいを皆で手分けして探し歩いた。
だが100名を越える部員という大世帯を引きつれて練習できるような場所というものはザラには見つかりっこない。
大きな邸の庭先だとか、倉庫のような建物があると、しらみつぶしに乗り込んで行って見たのだが駄目だった。
第一、部員から徴収する毎月の部費が100円だから、その総額にしても月一万円にしかならぬーー仮に適当な場所が見つかったとしても、たった一万円では貸しては呉れまい。
一日中バーベルをかついで早稲田近辺を歩きまわって万策つきた彼等の心情は悲壮なものだった。
「こうなったら、もう一度何とか学校当局に頼み込んで、便法を講じてもらおうじゃあないかーー」
「そうするしかないなあーー当って砕けろだ!!」
「そうだこれからみんなで村田館長の自宅に出かけて行って頼んで見ようーー必ず途が開けると思う」
すでに戸塚の町は電灯がついて夜だったが、主将の玉利がそういうと誰も異論はないが、果してうまくいくかどうか不安の方が大きかった。
「ーーうまくいくといいがなあ……」
誰かが、せっぱつまった声でつぶやいた。
「死中に活ーー至誠天に通じる、という信念を持って当ろうじゃあないか」
玉利は持ち前の大きい声でいい切った。
今彼がいった“死中に活”というのは剣豪の父の座右の銘だし“至誠天に通ずる”というのは彼の祖父、他でもない前早大学長だった田中穂積がよくいったことばである。
今彼等が練習場を追われようとしているその体育館も、又その管理者である村田館長が楯にとっている体育館使用許可の規則も、まことに奇妙なめぐりあわせだが、その祖父の田中穂積が学長時代にできたのだから、祖父が作った体育館であり、規則ということになる。
その祖父はすでに亡いが、そのときフト玉利は、「地下のおじいさんが何だって僕を苦しめているんだ」と妙にムナしい気持になった。だが、キビしかった一面幼い自分を特別に可愛がってくれた祖父のやさしかったまなざしが胸に浮ぶと、たしか何時か聞いたことがある「斉は男の児だ。男というものは難局に処して挫けちゃあいかんぞ」という声が記憶のどこかに残っていて、一方ではその声に励げまされているような気がした。
すると、別の思念が頭にひらめいたーーきっと洋々たるボディビルの前途に、今祖父がキビシい試練を与えて呉れたんだーーそう思うと新らしい闘志と不思議な自信が若い全身にひろがった。
急にだまりこんだ玉利に、副将の小林とマネージャーの林が心配そうに呼びかけた。
「今から村田館長の家に行くと夜中になるけど、如何する?」小林の言葉に続いて「池袋で東上線に乗りかえて、まだ先の常盤台の奥だよ……」と林がいう。
「寝込みを押しかけても是非今夜会ってもらおうじゃあないかーーきっとうまくいくよ。僕達だけの問題じゃあない。100人の学生を学校が見殺しにするハズがない」
玉利は自信をもってそういった。
「だが規則を楯にとられちゃあどうしようもないじゃあないか」
「だが一国の法律だって運用の仕方がある。規則を破らないで、僕等も生きる方法を考えようじゃあないかーー」
彼は自信満々で何か心中期するものがあるようだが、まだ具体的にその考えをまとめてはいないらしい。
深夜に村田館長を叩き起こすという非礼な結果になってしまったが、彼等はともかく応接間に通された。
「まさか常盤台くんだりまで訪ねて来た諸君を、夜中に街に追い出すわけにもいかんじゃあないか」
村田館長ははじめは不興気だったが、尋常でない真夜中の自宅訪門という緊急めいた彼等の行動に、学生たちのなみなみでない決意が館長にははっきりわかった。
100名の学生部員を見殺しにしないで欲しい――という現状からはじめて、ボディビルの本質、それから吾々の抱負は、単なる目先の身体づくりだけではなくて、敗戦日本の打ちひしがれた日本民族の志気復興運動につながる将来への抱負まで熱心に述べて理解を懇望すると、村田館長も少なからず動かされたようである。
だが、館長には管理者としての立場は崩せないのである。
それがはっきりわかっているから主将の玉利はここまで来る途々頭の中でその対策を考えていたので、こう切り出した。
「失礼ですが僕は先生の立場に立って考えて見ました。体育館使用規則を破らないで、しかも吾々の早大バーベル・クラブ員が路頭にまよわない方法に脳ミソをしぼってみたんですがーー」
「ホウーそんなうまい方法があるかね」
村田館長は、如何にも興味深げに、おそろしく情熱をたぎらせている玉利主将という若者をあらためて見直すーーといわんばかりにそれまで物憂げだった重そうなまぶたを見開いた。
「吾々のバーベル・クラブの部員が、全員体育館の中に道場を持っている柔道部、レスリング部その他のどの部かの部員を兼ねさせて頂くーーそういう方便を認めて頂けないものでしょうか?」
「ウーン、成る程、君は玉利君といったねーー」
そういって、まことに感動深げに玉利主将の顔を見つめながらしばらく考えてから、やがて、ニヤリと口唇に微笑を浮かべながら言葉を続けた。
「ーーうまい事を考えたなーーこれには参ったよ。ヨーシよくわかった。ワシからも各運動部に便宜をはかってやれと伝えておくことにしようーーだがいっておくがメンバー諸君が席をおく各運動部の統制を絶対に乱さないように、この特例の扱いに甘えるようなことが無いようにしてくれ給え」
こうして、早大バーベル・クラブは100名の部員を擁して路頭にさまよわねばならないか――と危ぶまれた難関を辛くも突破することができたのである。
「部長になっていただいた山岳部の先輩関根先生を始め、レスリング部の道明監督、剣道部の小藤先輩だとか、ボクシング先輩でプロ入りし“大学の虎"といわれ、その頃引退しスポーツ・ニッポン記者に転じていた後藤先輩などにはずい分支持して頂いたのを感謝してますよ」
そんな周囲の状勢だったからこそ管理当局の責任者だった村田体育館長も、一般学生が続々とこの練習につめかけるのを黙認してきたかたちだった。
だが或日、同じ体育局職員でバーベル・クラブ監督をやっている人見を通じて、体育館使用をやめさせて呉れんかと、とうとう相談してきた。
「体育館使用規則がある以上村田館長にいわれると、このままレスリング部の好意にすがってあそこで練習を続けるわけにはいかんのだよ引越しをしなくちゃあならん」
人見監督は玉利主将、小林副主将、林マネージャー等3人の幹部を招いて、降って涌いた難局の対策にひたいを集めた。つまり追い立てをくったのだ。
体育館の使用が許されないーーとなると、折角、ここまで発展した矢先、何としてもこれに代わる練習場を即刻見つけなくてはならない。
早大の近辺から戸塚界わいを皆で手分けして探し歩いた。
だが100名を越える部員という大世帯を引きつれて練習できるような場所というものはザラには見つかりっこない。
大きな邸の庭先だとか、倉庫のような建物があると、しらみつぶしに乗り込んで行って見たのだが駄目だった。
第一、部員から徴収する毎月の部費が100円だから、その総額にしても月一万円にしかならぬーー仮に適当な場所が見つかったとしても、たった一万円では貸しては呉れまい。
一日中バーベルをかついで早稲田近辺を歩きまわって万策つきた彼等の心情は悲壮なものだった。
「こうなったら、もう一度何とか学校当局に頼み込んで、便法を講じてもらおうじゃあないかーー」
「そうするしかないなあーー当って砕けろだ!!」
「そうだこれからみんなで村田館長の自宅に出かけて行って頼んで見ようーー必ず途が開けると思う」
すでに戸塚の町は電灯がついて夜だったが、主将の玉利がそういうと誰も異論はないが、果してうまくいくかどうか不安の方が大きかった。
「ーーうまくいくといいがなあ……」
誰かが、せっぱつまった声でつぶやいた。
「死中に活ーー至誠天に通じる、という信念を持って当ろうじゃあないか」
玉利は持ち前の大きい声でいい切った。
今彼がいった“死中に活”というのは剣豪の父の座右の銘だし“至誠天に通ずる”というのは彼の祖父、他でもない前早大学長だった田中穂積がよくいったことばである。
今彼等が練習場を追われようとしているその体育館も、又その管理者である村田館長が楯にとっている体育館使用許可の規則も、まことに奇妙なめぐりあわせだが、その祖父の田中穂積が学長時代にできたのだから、祖父が作った体育館であり、規則ということになる。
その祖父はすでに亡いが、そのときフト玉利は、「地下のおじいさんが何だって僕を苦しめているんだ」と妙にムナしい気持になった。だが、キビしかった一面幼い自分を特別に可愛がってくれた祖父のやさしかったまなざしが胸に浮ぶと、たしか何時か聞いたことがある「斉は男の児だ。男というものは難局に処して挫けちゃあいかんぞ」という声が記憶のどこかに残っていて、一方ではその声に励げまされているような気がした。
すると、別の思念が頭にひらめいたーーきっと洋々たるボディビルの前途に、今祖父がキビシい試練を与えて呉れたんだーーそう思うと新らしい闘志と不思議な自信が若い全身にひろがった。
急にだまりこんだ玉利に、副将の小林とマネージャーの林が心配そうに呼びかけた。
「今から村田館長の家に行くと夜中になるけど、如何する?」小林の言葉に続いて「池袋で東上線に乗りかえて、まだ先の常盤台の奥だよ……」と林がいう。
「寝込みを押しかけても是非今夜会ってもらおうじゃあないかーーきっとうまくいくよ。僕達だけの問題じゃあない。100人の学生を学校が見殺しにするハズがない」
玉利は自信をもってそういった。
「だが規則を楯にとられちゃあどうしようもないじゃあないか」
「だが一国の法律だって運用の仕方がある。規則を破らないで、僕等も生きる方法を考えようじゃあないかーー」
彼は自信満々で何か心中期するものがあるようだが、まだ具体的にその考えをまとめてはいないらしい。
深夜に村田館長を叩き起こすという非礼な結果になってしまったが、彼等はともかく応接間に通された。
「まさか常盤台くんだりまで訪ねて来た諸君を、夜中に街に追い出すわけにもいかんじゃあないか」
村田館長ははじめは不興気だったが、尋常でない真夜中の自宅訪門という緊急めいた彼等の行動に、学生たちのなみなみでない決意が館長にははっきりわかった。
100名の学生部員を見殺しにしないで欲しい――という現状からはじめて、ボディビルの本質、それから吾々の抱負は、単なる目先の身体づくりだけではなくて、敗戦日本の打ちひしがれた日本民族の志気復興運動につながる将来への抱負まで熱心に述べて理解を懇望すると、村田館長も少なからず動かされたようである。
だが、館長には管理者としての立場は崩せないのである。
それがはっきりわかっているから主将の玉利はここまで来る途々頭の中でその対策を考えていたので、こう切り出した。
「失礼ですが僕は先生の立場に立って考えて見ました。体育館使用規則を破らないで、しかも吾々の早大バーベル・クラブ員が路頭にまよわない方法に脳ミソをしぼってみたんですがーー」
「ホウーそんなうまい方法があるかね」
村田館長は、如何にも興味深げに、おそろしく情熱をたぎらせている玉利主将という若者をあらためて見直すーーといわんばかりにそれまで物憂げだった重そうなまぶたを見開いた。
「吾々のバーベル・クラブの部員が、全員体育館の中に道場を持っている柔道部、レスリング部その他のどの部かの部員を兼ねさせて頂くーーそういう方便を認めて頂けないものでしょうか?」
「ウーン、成る程、君は玉利君といったねーー」
そういって、まことに感動深げに玉利主将の顔を見つめながらしばらく考えてから、やがて、ニヤリと口唇に微笑を浮かべながら言葉を続けた。
「ーーうまい事を考えたなーーこれには参ったよ。ヨーシよくわかった。ワシからも各運動部に便宜をはかってやれと伝えておくことにしようーーだがいっておくがメンバー諸君が席をおく各運動部の統制を絶対に乱さないように、この特例の扱いに甘えるようなことが無いようにしてくれ給え」
こうして、早大バーベル・クラブは100名の部員を擁して路頭にさまよわねばならないか――と危ぶまれた難関を辛くも突破することができたのである。
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