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ボディビルと私
悔なき青春 バーベルこそわが恋人

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月刊ボディビルディング1971年7月号
掲載日:2018.06.27
大分ボディビル・クラブ主任コーチ 小野 幸利
43年8月、このときの私の体位は、身長162cm、体重67.5kg、胸囲120cm、腕囲40cm、腿囲61cm

43年8月、このときの私の体位は、身長162cm、体重67.5kg、胸囲120cm、腕囲40cm、腿囲61cm

体力のなさが動機

 私がボディビルをはじめた動機は、多くのビルダーが病弱とか、体力のないのを克服するためにボディビルを始めたように、柔道が強くなりたい一心で何とか体力をつけたいと始めたのがそもそもの始めだった。
 小さい時から病気こそしなかったが、背が低く、いつも劣等感が頭からはなれなかった。ただ走ることだけは早く、運動会ではいつもトップで、このときばかりは背の高い連中に少しばかり優越感を味うことができた。
 中学時代も何か運動部に入りたかったが、〝体が小さい〟ただそれだけの理由で、いつも自分から逃げていた。
 私の生まれた町は、九州では柔道の強いことでかなり知られており、また父が角力の選手だったせいもあって、スポーツの中でも、とくに格技が好きだった。こういう恵まれた環境に育ちながら、体力が無かっただけの理由で中学を卒業するまでは、スポーツをやりたい気持はあったが、いざ実行するとなるとどうしてもためらってしまうのだった。
 父は、自分がスポーツマンで立派な体格をしていたので、私にも何か運動をさせたかったらしい。昭和36年、別府緑ヶ丘高校に進学、このとき始めて勇気をふるって柔道部に入部した。このときの私の体位は、身長155cm、体重50kg、胸囲80cmだった。
 ところが運悪く、柔道部が1年で廃部になり、私は放課後1人で町道場に通うことになってしまった。
 体の方もいくらか大きくなり、技の方もかなり上達はしたものの、体力がないのが柔道の上達に大きなハンデとなっていることを痛感しはじめたのはこの頃だった。東京オリンピックでヘーシンクが優勝したのをみてもわかるように、体力に技がプラスしてこそ、真の強さが発揮されるものと思う。

半信半疑でボディビル

 なんとかして体を大きくし、体力をつけようと、腕立伏せ、うさぎ飛び、腹筋運動等で基礎体力をつけようと思っていた矢先、校庭でバーベル運動をしている人に逢った。自衛隊の長久さんという人で、重量挙の練習のために勤務後毎日夕方ここに来てやってるのだと話してくれた。
 そのとき私は、長久さんの逞しく発達した体を見て、思わずハッとした。そして、私も男性的な肉体と、もっと体力をつけたいと打ち明けると、長久さんもバーベルを握るまでは、体も小さく、力もなかったことを親切に教えてくれた。そして、私にもバーベルによる体力づくりを是非やってみないかとすすめ、よかったら明日からでも一緒にやろうというのだった。
 私は重量挙もボディビルもよく知らなかったし、まして、どんな効果があるのか全く見当もつかなかった。しかし、少し、オーバーに聞えるかもしれないが、この日が私の運命を大きく方向づけたのだった。
 翌日から私はバーベルを握ることにした。長久さんのいうとおり、半信半疑な気持で週5日のトレーニングを続けた。
 最初は柔道の補助的なつもりで始めたのだったが、3ヵ月目ぐらいから徐々に私の体に変化が起り始めた。薄かった胸は厚くなり、腕も丸味をおびてきた。いいえ、それだけではなく、気持まで変ってきた。それまで遊び好きだった私が、いくら友達に誘われても練習をしてからでないと付き合わなくなった。バーベルを握るのが面白くて、日曜日でも校庭で1人でトレーニングをしたものだった。
 この頃やっていた運動種目は、ベンチ・プレス、バック・プレス、スクワット、フレンチ・プレス、カール、ベント・ローイング、デッド・リフト、シット・アップの8種目だった。

柔道から重量挙に転向

 高校3年になったとき、まだ柔道に未練はあったが、それ以上にバーベルの魅力が大きく、ついに重量挙に転向することになった。家族や友達はもちろんのこと、私自身でさえ、あんなに力の弱かった自分が、よりによって重量挙げをしようとは夢にも思わなかった。
 この頃は、身長158cm、体重56kg、胸囲98cm、腕囲31cm、腿囲54cmになっていた。
 3年生の夏、重量挙を始めてまだ4ヵ月目だったが、大分県体育大会に出場、バンタム級で優勝してしまった。記録こそ200kgそこそこだったが、思いもよらぬ初優勝に、まるで天下をとったような気持だった。そして、私以上に喜んでくれたのが、私に重量挙の手ほどきをしてくれた長久さんだった。
 卒業も間近くなった年の暮、長久さんの先輩で明大重量挙部の竜さんの学生服に包まれた逞しい体におどろき、お願いして腕を見せてもらった。そして、浅黒く光った上腕のあまりの太さに見とれるだけだった。
 竜さんとの出合いは、私の人生をまた狂わすことになった。卒業するとすぐ就職することになっていたが、竜さんのすすめもあって、急に進学することになった。そして、明大法学部に入学し、ここで始めて本格的な重量挙の練習に打ち込むことになった。
 大学での練習はきびしかった。それにも増して苦しかったのが合宿での修行だった。1年生のときは、練習と合宿の仕事で疲れ果て、よる眠い目をこすりながら本を読むときなど、一般の学生を羨ましく思った。そのかわり誰も味うことのできない貴重な体験と、多くのすばらしい先輩や友人を得ることができた。
昭和44年長崎国体に出場したときの筆者 フェザー級、ジャーク132.5kgにトライ

昭和44年長崎国体に出場したときの筆者 フェザー級、ジャーク132.5kgにトライ

父の死で大分ボディビルクラブのコーチに

 大学2年になったとき、急に父がなくなり、1人残った母が病弱なため、やむなく大学を中退し、大分に帰らなければならなくなった。
 たまたま、ボディビルに非常に理解のある人がいて、大分駅近くの倉庫を借りて「大分ボディビル・クラブ」をつくり、私はそこのコーチを引き受けることになった。こういう施設は大分には始めてであり、なかには何をするのだろうと興味だけで覗きに来る人もいた。また、私にとっても人をコーチするのは始めてであり、最初はコーチというより会員と一緒に練習するのが精一杯という状態だった。
 このとき、協会の玉利理事長をはじめ平松先生、福岡ボディビル・センターの太田先生のご支援は、何よりも私を勇気づけてくれた。
 翌年、国立競技場で催された、一級トレーナー養成合宿に参加し、幸いに免許もとることができた。それからは他のジムを見学したり、専門書を読んだりして、少しでも良い指導者になろうと自分なりに努力をしている。その後、ジムは家主との契約がきれ、現在は大分川河畔に移転することになった。
 大分に帰って半年ぐらいたった頃、市役所の採用試験があり、運よく合格したので、コーチは夜だけとなったが休日は必ず昼から出て、できるだけ多くの人にコーチするようにしている。
 こうして、私の青春時代はバーベルという恋人だけに終りそうだが、でも2度とこないこの青春を、こんな素晴らしい伴侶にめぐり合い、私は後悔するどころか、かえって幸せ者だと思っている。
大分日吉原海水浴場にて一日ボディビル教室(42・8)

大分日吉原海水浴場にて一日ボディビル教室(42・8)

九州重量挙選手権大会の最優秀選手に選ばれる

 ボディビルのコーチをしながらも重量挙の練習も続けてやっていて、県大会には7年連続優勝、国体にも5回連続出場、また、九州重量挙選手権大会では43年から3年連続ライト級優勝、そして昨年は、同大会ライト級の新記録を樹立し、最優秀選手に選ばれるという幸運にめぐまれた。
 昭和44年よりジム会員の中の重量挙選手で編成した大分市チームは、それまで毎年最下位に甘んじていた県体成績を、2年連続準優勝という輝かしい成績に引き上げ、市の体育保険課からも、ボディビルの著しい成果を賞賛された。
 昭和43年、私は始めて全九州フィジーク・コンテストに参加、ラッキーにして優勝、そのときの写真をボディビルディング誌の誌上コンテストに応募したところ、平松先生より1位の評をいただいた。
 このときの体位は、昔の面影はなく身長162cm、体重67.5kg、胸囲120cm、腕囲40cm、腿囲60cmであった。また、パワーにおいてもベンチ・プレス130kg、スクワット180kg、ハイクリーン130kgと、昔の私からは想像もできないような記録が出せるようになった。
 あの弱々しかった私が、これだけの記録がつくれたのは、職場をはじめ多くの友人や、良き指導者に恵まれたからであり、そして、病弱でいまも通院しながら、栄養その他にいろいろ気を配ってくれた温かい母の陰の力があったればこそできたことであり、感謝の気持をいつも忘れてはいない。

ボディビルを広い分野に

 現在ジムのコーチと同時に、市の重量挙部の監督も引き受けているが、これは、ボディビルの成果を大いにいろんな分野に発揮してもらい、ボディビルが単にゴツイ筋肉づくりのみではないことを認識してもらいたいと思うからです。
 体力のない人や、病弱の人が、バーベルを握り、知らず知らずのうちに逞しく健康になって喜んでくれた時に、ほんとうにコーチをしていてよかったとしみじみ感じます。
 現在延べ会員も400名を突破!もっともっと頑張って、1人でも多くの人にボディビルのよさを理解してもらい健康と体力づくりのお役に立ちたいと思う。 
月刊ボディビルディング1971年7月号

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