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経済繁栄とボディビル

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月刊ボディビルディング1971年8月号
掲載日:2018.02.22
JBBA理事長 玉利 斉

今月の主張

 参議院議員の選挙たけなわのころ、候補者はもちろん、各政党は自党の勢力拡張に大変な力の入れようであった。たまたまテレビのスイッチを入れたところ、各党々首の政見発表の場面であった。

 私はここで各党の主張を代弁するつもりはないが、自民・社会・公明・民社・共産の五党が、共通して強調していたことは、“経済繁栄一辺倒の政治から人間尊重の政治へ”ということであった。

 沖縄返還問題や中国問題もいろいろ論じられていたが、これらの問題については各党の意見は全く異っていた。しかし、先に挙げた人間尊重の政治の確立という点においては、各政党とも殆んど同じで、ただ異なる点は、それに至るまでの方法であって、自党によらなければそれは確立することはできないと主張している点であった。

 私は今回の選挙にあらわれた“人間尊重”という言葉が、たんなる政治的スローガンであるにせよ、各政党がいくらかでもこれに目覚めた結果であり全面的に賛意を表する次第だ。

 かえり見れば、敗戦の傷手にたたきのめされた日本は、まず個人としても国としても、餓死線上をさまよいながら、何んとしても生き抜いていかなければならないという現実に立たされていた。そして、生きるための必要かつ最低の条件は、ぎりぎりの衣食住の確保であった。

 戦後の難局を担当した内閣は、すべて全力をあげて衣食住を確保するための経済力の向上を第一義の政治目的としてとり組んできた。その点においては、戦後二十数年で、ここまで復活させ戦前をはるかに抜く経済水準まで到達した事実は、戦後ほとんど政権を担当してきた自民党の政策の成功と、日本国民のたゆまざる勤勉努力によるものといっても異存はないであろう。

 しかしながら、“衣食足りて礼節を知る”という諺のごとく、衣食足らざる者に理想や道徳や人間の生甲斐等を説いても、耳を傾ける余裕はないだろうが、逆に、かくも経済的に安定してきた今日、依然として十年一日のごとく所得倍増であるとか、高度成長を呼びかけたなら、たんに経済生活の拡大だけが、人生の至上目的であるかのごとくなり、国を挙げて物質的繁栄のみを追求する風潮が現出するのは当然のことであろう。

 日本のある首相が、フランスのドゴール大統領から“セールスマンのような男だ”と極めつけられたのもうなずけることである。

 つまり大切なことは、衣食が足りてきた段階においては、いままでと違った新しい価値と目標がなければならないということである。それは個人としても、国家としても同様で、ただ金持ちになることだけが目的ではなく、金持ちになったら、その力を何にどう生かすかという哲学が要求されるのである。

 偉大な人物は、逆境、順境にかかわりなく、精一杯の時代においても自らの哲学によって一貫して生きていくが一般人の場合は、食べるのにやっとのときに哲学のような精神的な要求を持ち続けるのは難しい問題だ。

 しかし、経済的に充実したときに、哲学がないと、それは無制限な富の追求になり、弱肉強食の世界に後もどりしたり、欲望のみによってふり回わされる結果になるであろう。

 このことは世界の現実をみてもわかるように、経済の繁栄のみが、決して人間を幸福にしないことをまざまざと示している。たとえば、最も社会保障の発達した北欧に自殺者が多く、また経済生活ナンバー・ワンを誇るアメリカに犯罪が多発し、非行少年も多いという事実を直視しなければならない。

 そこで我々が考えなければならないのはボディビル界の現実である。ボディビルで筋肉をつけ、体力を養うということは、体の弱いものや健康に自信のないものにとっては、生存するための基本条件であり、つまり、体をつくることそれ自体が大いなる目的であるわけだ。

 これは餓死線上の人間が、必要最少限の衣食住を確保するのと同じことであり、それは健やかに生きる権利の正当な主張といえるだろう。

 しかし、すでに堂々と筋肉も発達し体力も充実した段階になったら、その筋肉と体力をどう生かすかという“哲学”、いいかえるならば、人生の目的が確立されていなければならないはずだ。その“哲学”がないまま、いたずらに筋肉の大きさと、形と、力の強さを誇り、それに止っているならば、それはあたかも経済繁栄一辺倒の政治と同じことである。

 経済を方向づけるのも、ボディビルを方向づけるのも、やはり古いようだが“哲学”にあるのだ。真の人間尊重は“哲学”を欠いては存在し得ない。
月刊ボディビルディング1971年8月号

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