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ボディビルと私 ビルダー放浪記 1971年10月号

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月刊ボディビルディング1971年10月号
掲載日:2018.03.27
秋田昌ニ

平和祈念像がキッカケ

 私がボディビルを初めてから早いものでもう8年になる。直接のきっかけは高校3年の2学期の初めごろだったと思う。修学旅行の目的地の1つであった長崎の平和祈念像を見たときに始まる。
 平和像の素晴らしい体、見事にバランスのとれた逆三角形の逞しさに魅せられた私は、修学旅行から帰ると早速ジム捜しを始めた。そして、友人の紹介で蒲田ボディビル・クラブに入会した。
 そこには、まさに私が長崎で見た祈念像のような体をした。谷川主任コーチをはじめ、宮田コーチ、手塚コーチらが大ぜいの練習生と一緒に汗を流していた。
 始めてジムの門をくぐった者が、まず思うことは一一自分もトレーニングでこんな素晴らしい体になれるのだろうか?一一という危惧である。私もそんなことを考えながら、谷川主任コーチの親切な指導のもとに早速トレーニングを開始した。入会第1日目は確か40kgぐらいのベンチ・プレスからだったと思う。しかし、その40kgのバーベルは、私が予想していたよりもはるかに重く感じられた。続いて基本的な種目を少しやって第1日目のトレーニングが終った。
 さて、その翌日がたいへんだった。朝目が覚めてみたら、筋肉といわず関節といわず体中が痛いのには閉口した。「しばらくトレーニングを休もうか」と思うほどの苦痛だった。しかし1週間もするうちに痛みもとれ、それからはジムに行くのが楽しみになってきた。ほとんど毎日ジムに通ったかいがあって、半年後にはベンチ・プレスも70kgぐらいできるようになり、体つきもいくらかビルダーらしくなってきた。
 翌年高校卒業と同時に就職したが会社の仕事がいそがしく、ジムに行く回数が目に見えて減ってしまった。そして半年後にはまったく足が遠のいてしまった。ちょうどその頃、会社の同僚と、鉄板を切断して手製のバーベルをつくり昼休みにトレーニングをするようになった。しかし、その会社を3カ月後にやめることになり、再びトレーニングから遠ざかることになってしまった。

ミスター神奈川に入賞

その後、いろいろの事情があって、3年半あまりの長いブランクをつくってしまった。しかし、その間も私の頭の中にはボディビルへのあこがれが消えることはなかった。こうして、昭和44年、川崎市の「みゆきボディビル・ジム」に入会し、再びトレーニングを開始した。トレーニングは週5日のかなりきびしいものだった。再開後1年後には体重73kg、胸囲117cmと自分でも驚くほどの発達ぶりだった。
 ちょうどその頃、第5回ミスター神奈川コンテストがあり、会長さんや友人にすすめられて始めて檜舞台に立つことになった。もちろん、ポージングの練習などはほとんどしていなかったので、入賞する自信はまったくなかった。
 やがて入賞者発表!私は一瞬聞きまちがいではないかと思った。私は10位に入賞したのである。会長さんを始めジムの人たちも非常によろこんでくれた。自分なりに努力した1年間の成果が、10位入賞という形であらわれたのだと思う。
 昨年につづいて、今年もミスター神奈川コンテストに出場したが、残念ながら13位という、昨年より悪い成績だった。いま思えば、初出場で10位に入賞したことで安易な気持になり、トレーニングに対する意欲も足りなかったと思う。来年は、みゆきジムからも若い練習生が4人ほど出場する予定なので、私も今度こそは上位入賞を目指して悔のないトレーニングをするつもりでいる。
 ついでながら、みゆきジムを少し紹介しよう。このジムは今年で4年目を迎えたばかりだが、常時30〜40人の練習生がトレーニングに励んでいる。設備も他のジムに比較すると良いとはいえないが、練習場にみなぎる気迫だけはどこにも負けないと思う。その反面家庭的な和気アイアイとしたふんいきがあって、練習をしない日でもジムに顔を出し、その日の出来事や、世間話に花を咲かせるという若い人たちの憩の場所にもなっている。
今年のミスター神奈川コンテストにて

今年のミスター神奈川コンテストにて

メキシコまで遠征?

 さて、昨年度のコンテストが終ったあと、長年の希望がかなって、メキシコに行くことになった。そして、メキシコでもボディビルにはげむことになる。
 私の行っていたジムは、メキシコ市内のアルバロ・オブレゴン通りにあるバイキングという名のジムだった。そのジムは、私が家族や友人に手紙を出そうと思い郵便局を捜しているときに偶然、郵便局の隣にあるのを見つけたものだ。
 日本への数通の手紙をポストに入れたあと、しばらくジムの前に立ってトレーニングを見ていると、コーチらしい青年が、「ジムの中に入って見てもけっこうですよ」といって案内してくれた。
 ジムの中はかなり広く、レスリングをするためのマットや、ボディビルの器具がよく整頓されており、とても清潔なジムだった。見ているうちに、私も急にトレーニングへの意欲がおこり、早速、入会したいと申し込んだ。会費は1カ月80ペソ(2400円)で、その日からトレーニングを始めることにした。
 トレーニング・シャツに着替えて、ジムの中に入るやいなや、メキシコに着いたときと同じように質問攻めにあう。メキシコ人はほんとうに話し好きである。「何のためにメキシコに来たのか」「乗り物は何か」「日本の若い人が一番関心をもっていることは何か」……こんな調子で、その日はとてもトレーニングというわけにはいかなかった。
 しかし、私が日本人だとわかると、その中の1人が、私をマットのところにつれていき「柔道を教えろ」といってきかないのには閉ロした。というのは、私は高校時代にほんのちょっと柔道をしたことはあるが、その後はまったくやっていなかった。それでも何とか身振りや手振りと、知っている限りのスペイン語の単語をならべて教えてやった。
 メキシコ人から見れば、日本人は全部、柔道や空手の達人に見えるのかもしれない。そういえば、外国映画に出てくる日本人の役は、たいていの場合柔道や空手を使って大あばれするという強い役どころが多い。そんな映画を見ている彼等が、一般の日本人でも、みんな柔道や空手の心得があると考えるのも無理ないのかもしれない。
バイキング・ジムの前にて、左から2人目が私

バイキング・ジムの前にて、左から2人目が私

アカプルコの海岸で陽気なメキシコ人と遊ぶ

アカプルコの海岸で陽気なメキシコ人と遊ぶ

変ったトレーニング法 腹のまわりにポリ袋

 日本ではまったく見られないが、メキシコのビルダーたちは、腹のまわりにポリ袋を巻いてトレーニングしている。まるで腹だけサウナ風呂に入ったような感じだ。メキシコは1年中平均して温度が低いので、腹のゼイ肉をとるのにみんな苦労しているようだった。
 トレーニングのあと、私が裸でいると、ポリ袋を腹に巻いた人がやってきて「どうすれば腹筋がでるのか?」とか「日本には何か腹筋用のいい器具があるのか」とか、いろいろ質問されたこんなときは、馴れない言葉で説明するより実際にやって見せるほうが効果的である。私は早速、日本で日ごろ行なっていた方法を見せてなっとくしてもらった。
 こちらの気候は、私にとってたいへんトレーニングがやりやすい気候であったが、なんといっても海抜2200メートルという高地であるため、慣れるまではトレーニング中に息切れすることがなんどもあった。しかし、それもそのうちに気にならなくなり、快適なトレーニングをすることができた。
 どこの国に行ってもジムのふんいきはたいして変らない。ボディビルという共通の目的に向って、トレーニングをしているうちにすぐ友だちができた。とくに、最初の日に私をジムに案内してくれたフランシスコ君とは、10年来の親友のようなつきあいだった。一般にメキシコの人たちは、ほがらかで親切な人が多い。

いつまでもボディビルを

 ボディビルを始めてから早いものでもう8年の年月が過ぎた。当時17才、高校生だった私も、いまは25才であるトレーニングのお陰で、体もずいぶん逞しくなったが、それ以上に精神的な面で大きな収獲があったと思う。
 どちらかというとあきっぽかった性格も、いまではすっかりなおってしまった。これからは若いときのように、トレーニングに明け暮れすることはできないが、できる限り長く続けたいと思っている。そして、若い練習生のために、トレーニングばかりでなく、社会生活の面においても、よき相談相手になりたいと願っている。
 最後に、私が始めてバーベルを手にしてから今日まで、適切なご指導をしてくださった谷川コーチ、宮田コーチ手塚コーチ、友人の斉藤君、そのほかの諸先輩の方々に誌上を借りて厚くお礼を申し上げます。
月刊ボディビルディング1971年10月号

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