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ボディビルへの招待
社会的地位の向上と体力低下

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月刊ボディビルディング1979年11月号
掲載日:2018.06.26
 世の中、なかなかうまくいかないものだ。

 ヒマがあるときゃ金がない。金があるときゃヒマがない。その両者が兼ね備わるときには、墓場がオイデオイデをする。

 社会的地位と体力の関係も、金とヒマのように、本来望ましい方向から逆比例しているのが現状だ。

 社会的地位が高いということは、言葉をかえれば、社会的重要度、存在価値が高いということにほかならない。ものには例外もあって、そうではない場合もあるが、ここでは議論の対象としない。

 学校を卒業して社会に飛び込んだ頃は、体力が満ち溢れていて、2日や3日の徹夜ぐらいではビクともしない。

 ところがその年代では、社会の構造も仕事の内容もよく把握できずに、単なる労働市場の頭数を間に合わせているに過ぎない者が多い。

 それが、30代、40代、50代と年をとるに比例して、社会的にも家庭的にも産業構造上からも存在価値が増してくる。

 だが悲しいことには、体力的には昔日の面影いまいずこ‥‥‥。駅の階段を見上げて嘆息しているのが関の山だ。

 くり返していうが、社会的地位が向上したということは、社会に存在する価値が大きくなって、社会からもそれだけ期待されているということだ。

 1人でニタニタとほくそえみながらその座にアグラをかいていればよいのではない。エリート(選良)にはエリートとして果さなければならない義務があるはずだ。

 社長であるならば、会社の業績を伸展させることはもちろん、社員の生活の安定も図らなければならない。

 財界の指導者ともなれば、日本の産業の行く道を方向づけて日本経済の発展を意図しなければならない。

 総理大臣であるならば、1億国民が毎日安心して生活できる社会環境の維持と、10年〜50年の遠大なビジョンのもとに国を益々繁栄させる方策をも同時に遂行しなければならない。

 それぞれその地位が向上するのに比例してやらなければならないことが多くなる。それを成し遂げるのには、肉体的、精神的の別を問わず多大の疲労がともなうことはいうまでもない。

 エリートとしての義務を遂行するには、頑健なる肉体が要求されるのだ。

 歴史に残るような天才・偉人たちがもし、2〜3年ずつ生き長らえていたと仮定したならば、この世の文明・文化の発達ぶりはどんなであったろうか?おそらく想像もできないほどの高度なものに成長していたに違いない。

 あなたが、もし現在の自分をエリートと思っているなら、また将来エリートとなり得る自信があるなら"義務体育"を己に課し実践することが必要だ。

 内面的な能力のみでは成功不可能。その能力を現実のかたちに発露できる強靭なる体力の持主だけが社会の指導者となり得る日が、近い将来必ずやってくると信じたい。(吉田実)
月刊ボディビルディング1979年11月号

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