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ボディビル風雲録 7

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月刊ボディビルディング1969年8月号
掲載日:2018.02.27
田鶴浜 弘
 練習場問題――という難問題が解決すると若い玉利斉の胸中は、ホッとすると同時に、今度は、新しい前向きの野心と確心が大きくふくれあがる。

 野心――といっても、別に目先にこれといった利益損得があるわけではないし、そうかといって具体的目標があるわけでもないのだが、まあいってみれば社会のために建設的な一かどの大きな仕事に身体をはって取り組んでいるよろこびといったような満足感なのである。

〝健康と、生き生きとした力のみなぎった肉体を若い者は誰だって望んでいるんだ〟

 その証拠に、古藤先輩のきもいりでやって来た実業之日本社のカメラマンが写していった平松、玉利、人見、窪田等のバーベル練習の写真が、実業之日本社から出している月刊雑誌〝オール生活〟の巻頭グラビア特集〝百万人の健康〟で大きくとりあげられたではないか。

 まだある――スポーツ・ニッポン新聞にボディビル解説が三日間連載された反響は、この記事を読んでの入部志望者がウンとふえたのでわかる。

 この記事を書いたのは、かつてプロボクシングのアイドルだった〝大学の虎〟の後藤秀雄先輩で、彼はリングを引退しスポーツ・ニッポン記者だったが、彼の社の運動部にも当分の間質問の手紙がたくさん舞い込むのを早大バーベル・クラブに廻されてくる。

〝貧弱な身体でも健康で逞しくなれる――というのが魅力なんだよ。オイ玉利君、君たちの手で洗濯板みたいな胸をしているヒョロ、ヒョロな奴を、一掃しちまってくれたまえ〟

 そういって後藤先輩にはげまされた

 こうしたいろいろな事が、ボディビルはきっと盛んになる――という彼の確信につながるのであった。

〝今に見ていろっ――日本中に普及させてやろう〟

 野心と確心がいっぱい――という思いでいつも玉利斉は胸を張って街を歩いたが、今日のコンテスト・ビルダーにくらべたらまだ当時の彼の肉体はとても及ぶべきもない――せいぜい自慢の上腕とても35センチぐらい、体重がおそらく70キロたらずだったはずである。

〝オヤッ、あれはバーベルかしら? ――あまり見訓れない。普通のバーベルとは少々違う〟

 玉利斉は、八重州通りの中程で足をとめた。

 爽やかな初夏も近い快晴の午後だった。

 その日は銀座に出て、東京駅から国電で帰るつもりで八重州通りを歩いて来たのである。

「タチカラ」と看板が出ているその運動具店の店先にスタスタと歩みよって見ると間違い無くバーベルであった。

 店頭のバーベル台に、15キロから20キロ位までのが5、6本かけてある――手に取ってよく見ると丈夫な木製のシャフトの両端に、コンクリートを鉄板でカバーしたのが、うまく取りつけてあるではないか。

 貼りつけてある値段を見ると千円から2千円以内で、なる程コンクリート製にちがいない安い値段だから、ボディビルの練習用にはもってこいだと思った。

 ウェイト・リフティング用の場合はプレートの取り外しが絶対に必要だから、これはボディビル専用に間違いない、だが一体誰が作っているのか――それにしても日本最初のはずのボディビルだけが目的という早大バーベル・クラブ主将の僕が、今までこんなバーベルの存在を知らなかったとは――だが待てよ、案外他の目的で使っている奴があるかも知れん、と思ったから店員に聞いて見た。

「これ何に使うの」

 すると店の奥でニコニコしていた中年のおやじが出て来ていった。

「これはバーベルという運動具でね、こうやって毎日何度も持ち上げる運動をすると腕が強くなるんですよ」

 そういいながらカールだのツー・ハンズ・プレスだのをやってみせた。

 やっぱりボディビルが目的なのだがそのおやじの説明ぶりからすると、製造元もトレーニングのシステムについては余り行き届いた研究が無いらしいことがわかった。というのは、彼がおやじに根ほり葉ほり質問すると、こういった。

「学生さん、アンタ位立派な身体だったら自分でやり方を工夫したらいいんだ――要するに身体を鍛える道具でね、実はこれを作ってるのが少々変り者で、セッセと作ってるが余り売れやしない――でも本人は身体を鍛えるにはこれが一番いいといって、1本売るのに自分でかついでどこまでも熱心に出かけて行くんですよ。余りの熱心さにホダされてうちの店にも置いてやったんでさあ」

「おやじさん僕に是非その変り者の男を紹介して欲しいんだ いや実は僕、早大バーベル・クラブのキャプテンの玉利というんですがね、これはボディビルという最も新しいスポーツ用具にうってつけなんだ――あなたは運動具屋さんだがボディビルを知らないの?」「ボディビルというスポーツは知りませんでしたね」

 我が意を得た――といわんばかり、彼はここで日頃のうんちくとボディビルへの情熱を一席やってのけると、そのタチカラのおやじ、実は支配人の真田氏だったが、バーベル・メーカーの山中氏への紹介も引き受けたし、ボディビル発展の可能性に少なからぬ興味を持ったようである。

 このとき王利はこう思った――このコンクリート製バーベルは値段が安いから、ボディビルの大衆化には、まことにおあつらえ向き、これがあれば本当にボディビルを日本中に普及できそうな気がするのであった。

 それから数日後に、そのタチカラの店で、その山中バーベルのおやじと引きあわされることになる。

 一見したところ五十年輩、眼がギラギラ光っていて、ヤセぎすの感じだが身体全体がよく引きしまり、胸にしても腕にしても筋張った筋肉で、鍛えぬいた感じである。

「アッシはね、コンクリート・バーベルを金もうけで作ってるんじゃあねえんだ。意地でやってるんですよ――若けえ頃明大のボクシング部の選手だったからいうんだ。日本人のスポーツマンてえのは、かっこうだけ、いや見せかけだけの技術は器用でうまいけど筋肉の土台作りが駄目なんだね。だからボクシングだってパンチがないんだよ。そこへいくと毛唐のはフィ二ッシュ・パンチが滅法強い、まるでダイナマイトだあね――それっていうのは奴等はヒット・マッスルを日頃バーベルで鍛えあげてるからだよ――なんてったって、若い者の身体をまず、バーベルで鍛えあげるのが一番だ。それには安くて誰にでも買えるヤツを誰かが作ってやらにゃいかん――だからあっしは、こいつに取り組んだんだ――金もうけするつもりだったら、もっと割のいい商売は他にいくらでも転がってるけど、このコンクリート・バーベルが普及するまであっしはこの仕事はやめる気になれねえんだ」

 おやじは鋭い眼光をギラギラ輝かせながら、いきなり玉利を相手にこの調子で、ひどく熱をいれてシャカに説法のかたちでやりはじめた。

 たしかに気違い扱いされそうな――いや、まさにバーベルの鬼といっていい。

「全くうれしいよ、学生さん。いや王利さん、早稲田バーベル・クラブのあんた方と手を組んで大いにやろうじゃないか――日本中にへナチョコ野郎が一匹もいなくなるように――これは国のためなんだ、日本人が進駐軍のアメ公なんかにいつまでもナメられてたまるもんか」

 以来、山中のおやじは早大バーベル・クラブに出入りしはじめて、平松、窪田等とも親しくなり、その結びつきがやがてボディビルの普及に新しい段階を迎えることになるのだが、それはもっと先のことである。

 しかしながらこのときの玉利、山中の話を聞きながら、タチカラの真田おやじの脳裡には、さすがは商売人のカンとでもいうものだろう――ひらめくものがあった。

 つまりバーベル運動、いや新しいスポーツのボディビルはもっていき方ではうんと盛んになる。ことによるとブームを起せるかも知れない――だがそれには、この2人だけの役割の他にP・Rの専門誌があれば、もっといいんじゃあないか。例えば今書店にあるアメリカ雑誌の〝マッスル・パワー〟だとか〝へルス・アンド・ストレングス〟までは無理としても、毎号、ボディビル記事を載せる雑誌があれば申し分ないのである。

 かねがねそう考えているうちに、玉利がやってきた或る日、ふっとうまい事を思いついたから、こういった。

「玉利さんあんたにもう1人紹介したらきっと喜ばれる人があるんだ。会ってみませんか? いや是非会わなくちゃあいけない」

 タチカラのおやじは、玉利を一体誰に会わせようというのか――とに角大変ないきごみであった。
月刊ボディビルディング1969年8月号

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