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ミスター日本への道 2

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月刊ボディビルディング1969年8月号
掲載日:2018.02.23
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吉田 実
(第一ボディビル・センター)
 日本が初めて参加するミスター・アジア・コンテストの、一国を代表する選手に選ばれたからには、死力を尽くしてもミスター・アジアのタイトルを必ずこの手に握って来るものと意気込んでいたものでしたが、代表に決定した18日後に開催国のシンガポール・ボディビル連盟から「今回のコンテストは予期せぬことが起こったので開催が不可能になりました」との短い電報が日本ボディビル協会宛に届きました。

 さんざん苦労したあげくに手中に収めた代表権ではありましたが、もともとミスター日本の出場権を得んがために出たコンテストですから、付録が駄目になったのだと、簡単に諦めよう
と思いましたが、正直のところ、少なからぬショックを受けました。

 しかし、それも「一人酒場でまずい酒を飲んで」それで綺麗さっぱりと忘れ去りました。

 こうなれば、狙う標的はただひとつ〝ミスター日本〟です。

 ミスター・アジア日本代表選抜コンテストで勝負はついたようなものだが、どっこい、そうは問屋が軽くおろしてはくれません。

 いままでは自負するところはあっても、コンテスト界では殆んど無名に近かっただけに、負けても次回を目指せる軽い気持でいられましたが、一夜あければ180度かわって、追われる者の立場にその身を置き換えていたのです。

 しかも、ミスター・アジア日本代表選抜コンテストは、いってみれば本番のためのリハーサルのようなもので、これから行なわれるミスター日本コンテストが本舞台です。この本番に勝を収められなかったとしたら、何のためにコンテスト出場を決意したのか判らなくなってしまいます。

 そこでまず、痛めたスジをかばいながらの、無理な練習で体を酷使し過ぎたので、その疲れを完全に除去しなければなりません。そのために、少々の冒険ではあるけれど、1カ月間完全に休養をとることにしました。

 狙った本番を目前にして、1カ月休養をとるということは、残るわずかの50日間で、ベスト・コンディションを作り出す自信がなければできるものではありません。大胆不敵と表現すれば格好は良いが、実のところ、体の芯から疲れていたのです。

 そして、その後の整調プランは、デフィニション獲得に重点を置きました。玉利理事長に本誌で指摘されたように、私の体はバルクに較べてデフィニションが少し足りないのです。いや足りないというよりは、出そうとしなかったのです。

 それまでの、私のボディビルに対する基本的な考え方は、ビルダーはまず大きさがなければいけない。バルクがついたうえで次にデフィニションが要求されるのだ、と思っていたのが、ただ一回のコンテスト経験ではあったが、現状の日本のコンテストでは、バルクよりも、まずデフィニションが重視されているのではなかろうか、と感じられたのです。

 そこで、私のボディビル観とは異なるが、勝つためには止むを得ない。バルクを少しばかり犠牲にしても、ディフィニションを出そうと決意したのです。

 現在の94キロの体重を、8キロ落して86キロで本番に臨む計画をたてました。だが、いきなり8キロも減量したのでは、肝心のトレーニングに体がもたない。そこで、とりあえず、88キロに保って、コンテストの数日前に残りの2キロを落そうという計画です。

 そのために、まず、米飯、パン、メン類、穀類などの澱粉質を献立からすべて除外して、野菜、肉、タマゴ、魚類、乳製品以外は何ひとつとして口にしないことにしました。

 お米で腹がふくれていないと、猛練習に耐えられないと思う人も居るでしょうが、もともと、私は好きで食事をしているのではありません。イヤでイヤでたまらないのを、無理して食べているのです。

 都合が良いのか悪いのか、私の胃袋は空腹を訴えません。最近8年ほど空腹だと感じたことは、真実いって一度もありません。四六時中なにかを食べているからだろうという臆測は当っておりません。私は1日に2食きりとらず、食事の間隔は12時間~16時間あり、しかも間食は一切いたしません。

 これは、天地創造の神がミスを犯して、私に食欲を与え忘れたのではなく、長い間の訓練によって、私がその能力を持つに至ったのです。

 一日に3食だとか4食というのは、栄養学的なことを抜きにすれば、すべて人間の本能か習慣によるものです。本能をある程度抑制したり、習慣を変えることは、誰でも努力すればできるものです。

 人はよく、空腹になるとイライラしたり、気嫌が悪くなったりすると言いますが、そんな不必要な感情から解放されるだけでも、大変な得です。乗った船が難破して、無人島にでも打ち上げられたら、一番長生きできるのは私かも知れません。

 とんだところで横道にそれてしまいましたが、これは決して栄養学を愚弄するものでもなければ、読者を馬鹿にしているものでもありません。私自身の食欲について述べたまでです。

 皆様はいきなりこんなことを真似してはいけません。人間本能のひとつである食欲を軽減させることに成功したこの私でさえ、空腹感がないのにもかかわらず、皆様以上のカロリーと栄養分を、体内に詰め込むことを怠ってはいないのですから。
ミスター日本コンテスト直前の私のトレーニング・スケジュール

ミスター日本コンテスト直前の私のトレーニング・スケジュール



 まるまる一カ月間の完全休養をとって、8月6日から再開したトレーニング・スケジュールを別表にご紹介いたします。

 このスケジュールで最も重要視したのは、下半身と腹部のデフィニションです。

 1週間399セットの練習量、4割弱に相当する150セットをそのために振り当てました。スクワットを全然行なわなかったのは、この運動がデフィニション獲得に不向きなエクササイズであるということよりも、むしろ、重量挙選手時代に痛めた腰の障害が、大事なコンテストの前に再発することを恐れたためです。

 上半身の運動種目として、最もポピュラーなべンチ・プレスをやらなかったのは、練習中に右手親指の関節を痛めて、重いバーベルを持てなかったので、仕方なくダンベル・ベンチ・プレスに切替えたものです。

 また、肩の練習で、バック・プレスのセット数が多い様ですが、これは、ミスター・アジア日本代表選抜コンテスト当時は、首から背にかけたスジを痛めていたために、スタンディング・プレス系統の運動を全く行なえなかったので、今回はその埋め合わせのつもりです。

 それから、デフィニションを出すことを重視したスケジュールとしては、繰り返しの回数が少ない種目が3つ4つあります。これは、練習中もっとも充実を覚える回数を選んだのですが、今になって検討し直してみると、考え方の不徹底がなかったとは言い切れないようです。

 ともあれ、自分で最適と信じたスケジュールで、ミスター日本を目指して一路邁進が開始されたのです。

 私が勤務する建設会社がボディビル・センターを併営しておりますので、午後10時までは会員にコーチをして、自分の練習が始まるのは夜の10時半から11時頃でした。

 一時間平均20セットのペースとしても、91セットを消化するのはウォーミング・アップ、整理体操を含めて約5時間半かかります。

 それが終ってから、玉利理事長をして、「まるでなってないポージング」と言わしめたほどの不評ポーズの研究約1時間。

 ミスター・アジア日本代表選抜コンテストのときのポーズについては、先月号で触れましたので、改めて記すことは避けますが、そのポージングが悪かった一番大きな原因は、コンテストに不慣れであったということでした。

 しかし、結果として悪かったものは何と言訳をしても始まりません。再度その過ちを繰り返さないように、鏡の前のポージング練習だけではなく、写真はもち論のこと、8ミリ映画にもその助けを借りて、ポーズ練習に精進しました。

 幸いなことには、各地のコンテストから、ゲスト・ポーザーとしてひんぱんに招待されました。そのため畳の上の水練だけではなく、実地の経験を多く積むことができたことが、ポージング技術の研磨に、大いに役立ったことを書き添えましょう。

 それら、所定のトレーニングを全部終らせて、家路につくのは朝方の5時頃でした。

 今日も無事にスケジュール通りの練習を完遂した満足感と、いやでも間もなくやって来る、ミスター日本コンテストの真剣勝負に思いを馳せて、第一ボディビル・センターから自宅まで、料金にして420円のタクシーの車中で疲れた体をシートに沈めながらの沈思黙考は、短かいながらも充実した時間でした。

 帰宅後、毎日飲んだ2本のビールの旨さ。非常に結構でした。世の中の幸せが、すべて、この麦のジュースの中に濃縮されているほどに感じたものです。

 ビール大ビン1本で約250カロリーは、デフィニション獲得にプラスするかマイナスするかの議論はさておいて、この2本のビールは、ハード・トレーニングに疲れ果てた私の体を、やさしくいたわってくれる恋人だったのです。



 3月1日から始まった〝ミスター日本〟を目指したトレーニングは、途中で1カ月間の休養をはさんで、7カ月間の短いものではありましたが、この期間の私の生活は、一口に言って、緊張の連続でした。

 通勤電車に乗るときなどは、どんなに急いでいるときでも、階段やホームを走ることは絶対しません。

 信号が青に変っても、左右を良く見渡して、車が完全に止るのを確認してからでなければ、横断歩道に足を踏み入れません。

 やむを得ずして外で食事をするときには、ナマ物は絶対に避け、注文品ができ上ってきても、不潔な感じがしたら、代金だけは支払って、それを食べずにその店を出ました。

 自宅に向うタクシーが、信号待ちしている間は、後から来る車に、もしぶっつけられても被害が軽くすむように、両足を前に踏ん張り、頭はシートあるいは安全枕に強く押し付けて、万全の備えをしたものです。

 それもこれも、これほどの命がけの努力をしているのに、ほんの一瞬の不注意あるいは不運から、その努力を台無しにされたのでは、泣くにも泣けない。という気持からです。

 体を焼くために、練習終了後、一睡もせずに海に直行して、一日中日光浴をすることが大体一週間に一回平均。

 その日を除いては、よほどの事情のないかぎり、一日平均睡眠5時間の苦しさもいとわずに、体力と気力のギリギリの限界までトレーニングしたこの努力を、水の泡にさせないためには、当然のことではありました。

 その苦しいトレーニングも、ミスター日本コンテストの前々日である。9月27日をもって終了しました。

 毎日書き込んでいる練習日誌を読み返してみたら、その日付のページにこんな一節がありました。

 9月28日午前2時半、ミスター日本に備えた東京での練習をすべて終る。明日は京都で、腹筋と脚を中心に軽く整備の予定。

 ミスター東京のときに比べて、気持は非常に楽であるが、このミスター日本を失うと、あらゆる面で困る。

 体は整調プラン通りにシャープになったし、ポージングも、ミスター東京のときと比べて格段の進歩を示していると思う。

 〝私は絶対に負けない。1868年度ミスター日本は私の為にあるのだ〟
月刊ボディビルディング1969年8月号

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