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ボディビルでレスラーに ~ ストロング小林選手 ~

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月刊ボディビルディング1969年10月号
掲載日:2018.01.18

ストロング小林選手
(国際プロレス)

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山 田 豊

中学入学で開始

 レスラーといえば、まずたくましい「肉体」を思いうかべるのがふつうである。プロ・レスラーにあってはとくにそうだ。プロレスの面白さは、そうした肉体のくりひろげる多彩なワザと人間ばなれしたタフな体力であろう。プロレスのスターは、体とワザと体力が一体となってどこまで面白い試合を見せるか、によってきまると聞く。
ボディビルで鍛えあげた小林選手の体はストロング、の名に恥じない。

ボディビルで鍛えあげた小林選手の体はストロング、の名に恥じない。

 しかしワザにしろ体力にしろ、舞台がよくないことには、いかに努力を払ってもそのわりには映えない。ファイトの冴えには舞台の良し悪しが影響する。舞台とはつまり「体」だ。しろうと考えでも、プロ・レスラーは、やはりなんといっても「体」だろう。

 したがって、プロ・レスラーとしてのスターの資格は、ある程度以上の体格に恵まれることが第一条件となろう。あるいはそれがなければスターへの道は絶望かもしれない。そしてそれは、大きいということと同時に、強さを感じさせるものでなくてはなるまい。いわば人気レスラーとは、マットに立っていないときも、すでに魅力ある肉体の持ち主ということである。

 身長188cm、体重127kg、胸囲135cm、上腕囲50cm、大腿囲80cm、というのが現在のストロング小林選手の体格だが、小林選手と向かい合ったとき、まっさきに気づかされるのは、体ぜんたいが、じつにみずみずしい弾力にあふれていることだ。もちろん大きい、という印象も受けるが、それよりも、全身に凝縮されている濃密な充実感に圧倒される。まったく、リングネームの“ストロング”にいささかも恥じないほれぼれするすばらしさだ。さすがにいま売り出し中の人、の思いを強くする。

 その、大きくかつ魅力的な「体」はいうまでもなく、さまざまなトレーニングによってつくられたわけだが、小林選手は、現状にいたる成長過程の土台に

「ボディビルのおかげです」

 ためらうところなく、しかも誇らかにボディビルをあげる。

 昭和18年の、東京都下青梅市生まれの小林選手は

「もともと、大きいことは大きかったのですが……」

 いちおう幼少時の状態を説明しながら、しかし、体づくりの決定的要因となったのは、ボディビルをやったことにあったと強調してははばからない。

「はじめたのは、中学へはいってからでした」

 動機は

「よりいい体になりたかったからです」

 生まれつき大きかったことから発展した肉体への自信が、中学入学という一つの転機を迎えて、はっきり体づくりを志向させたのだった。

 だがその時代はまだ、ジムへ出かけてのそれではなかった。

「東京にはあったんでしょうが、立川にもなかったし……立川にボディビルのジムができたのは高校へ行ってからです。何度か見物に出かけましたが1年くらいでつぶれちゃったですね」

 たとえ近所にあったところで、中学生の身分でははたしてどの程度かよえたか。ともあれ、そんな状態だったので、1人でコツコツやるよりしかたがなかった。体づくりにボディビルをえらんだきっかけは、たまたま書店の店頭で専門の月刊誌にめぐりあったからだった。昭和30年ごろである。その雑誌はその後いくらもたたずに姿を消してしまったが。

「たしかやっぱり、“ボディビル”といったように思うんだが……とにかくそれを見ながらやったわけです」

 用具にしても、当時は市内の運動具店では扱かっていなかったので、とりあえず鉄棒の両端をコンクリートで固め、バーベルらしいものを自分でつくった。
イングランドのリーズにて。キー・ロックで攻めるジェフ・ポーツを軽々と

イングランドのリーズにて。キー・ロックで攻めるジェフ・ポーツを軽々と

基地のクラブに行く

 4年後の夏--中学生だった小林選手も高校3年生になっていた。

 夏休みもやがて終わろうとするある夜、近所に住む先輩と世間話をしていた最中

「知らなかった。基地の中にバーベル・クラブがあるんですか」

 不意に頓狂な叫び声をあげて、先輩を驚かした。

 その先輩は横田基地に勤めていたが基地内にボディビルの設備のあることを、ふと口にしたのである。だが、先輩がなにげなくしゃべったその言葉は、後輩には大きな衝撃だった。

 というのも、高校にはいってからの小林少年は、ボディビルをよぎなく中絶していたからであった。理由は、野球部に籍を置いたことによる。野球部では野球についてのトレーニング以外を厳禁していた。はいってからそれを知った。

「しまったと思ったんですが、野球もやりたかったし……」

 バカ正直に指令を守って、苦労してこしらえたコンクリートのバーベルに手をふれることも遠慮していた。小林選手は格闘競技も好んだが、野球にもかつてはかなりあこがれていた。青梅市の都立農林高校を出てから東京鉄道局に勤めたのも、東鉄野球部から、あわよくばプロ入りしたいと考えたからである。野球選手だった当時のポジションはサードであった。

 そんなわけなので、監督さんのお達しにそむいてまでボディビルをやることには、いくぶん自分の内部におけるためらいもあった。監督ににらまれてレギュラーの座からとばされては困るという気持からである。立川市にボディビルのジムができたと聞いても、見物するだけでがまんしていたのも、そこからきたものだ。

 だが、高校3年の夏が終われば、部の拘束もほとんどなくなる。泳ごうがボディビルをやろうが、もう叱られる心配はない。久しぶりに手製のバーベルを持ち上げはじめていたのだったが、そんなとき、先輩からはしなくも横田基地のバーベル・クラブの存在を聞いたわけであった--

 とたんに胸をはずませ、顔色を変えた。

「やらしてもらうわけには、いかないですかねえ」

「冗談じゃない。通行証がなかったらぜったいはいれやしないんだから……見学だって許されやしない」

 しつこくせがんだが、ダメだった。

 しかしあきらめなかった。なんとかやれないものか。米軍基地内のジムであれば、おそらく設備も整っているだろう。雑誌でながめるだけでしかなかった各種用具にじっさいにふれることができるのだ。そしてそれを使ってトレーニングを積めば目に見えて体は大きくなるにちがいない。雑誌の表紙やグラビヤに出ていた外人ビルダーのみごとな肢態が、次々にまぶたにうかんでは消え、夢は果てしなくひろがっていった。

 どうすればいいか、を夢中で考えて思いついたのが、アルバイトをすることであった。もちろん横田基地である。

「どんな仕事でもいいです。通行証がもらえれば……」

 と先輩に頼みこんだ。

「まるで通行証をもらうためにアルバイトするみたいだな」

 と先輩に笑われたが、必死だった。その熱意が通じたのか、基地内の将校食堂のボーイの口を世話してもらえた。

「もうじき高校生活は終わりだというのに、なんでまたいまごろアルバイトをする気になったんだ」

 家族たちからもいぶかしがられたがそれにはいつもあいまいに笑っていた。

 もし各種用具を使用してのトレーニングを本格的とするなら、小林選手の本格的ボディビルはそのときにはじまったということになる。

「米人軍属にコーチしてもらいました」

 実際面の設備ばかりでなく、クラブには向こうの専門誌も備えつけてあった。トレーニングのあいまにはそれらをむさぼり読んだ。いい勉強になった。

「はっきり体が変わってきたのは、そのころからです」

問題はやる気

 なぜコンテストに出ないのだ、とよくいわれたのは、後楽園ジムのころである。東鉄に入社してから勤務地は南武線だったが、勤めるとすぐ後楽園ジムに通い出した。

 そのころからもう、小林選手の体は人目を見張らせていた。青梅第2中学から都立農林高校に進学の直前には体重20貫にも達した小林選手だが、野球とボディビルでぜい肉は落ち、ひきしまったたくましさになっていた。身長も伸びた。そんなところから周囲ではコンテスト出場を勧めたのである。だが

「コンテストに出るなら3位以内にはいらなければつまらない。しかしそれより、自分の限界をたしかめることのほうが興味がある」

 と、コンテストには一べつもくれなかった。

「あのころはほんとによくやりました。1日おきに行ってましたが、行けば最低3時間はやったです。横田基地のバーベル・クラブのころは、やるときは毎日でも、忙しくなるととだえたりしましたが……後楽園ジムには3年ほど通いましたか。最初800円だった月謝がやめるときは1100円になってたのを覚えてます」

 その間に、野球への夢はいつか消えていた。

「体ができてくればやっぱり面白いから、野球よりボディビルに魅力を感じるようになったんですね」

 そのころになると、実技ばかりでなく、新聞や雑誌で体づくり、あるいは体力にかんしての記事が目にふれると、かならず切り抜いてスクラップ・ブックに整理した。横田基地のバーベル・クラブで、アメリカの専門誌をむさぼり読んだことで身についた習慣が、さらに発展したものであろう。

 そして後楽園ジムに通ううちに、野球のかわりに芽生えたのがプロレス入りの計画。

「小さいころから格闘競技も好きだったですから、プロレスにも興味は持ってたんです。それで、プロ・レスラーになることを真剣に考えるようになって」

 行けば3時間は最低いる--「体」にかんする記事は大小にかかわらず丹念にスクラップするという熱意は、プロレス入りの計画を実現させずにはおかなかった。42年2月、国際プロレスにはいる。

 小林選手は去年10月から今年6月末まで、ヨーロッパ遠征に出た。43年10月からこの3月まではイギリスに、4月から6月までは西ドイツだった。

 小林選手は練習熱心で知られている。しかしイギリスでは

「何しろ忙しくて……毎日試合場がちがうもんですから、とにかくひまがないんですよ。いま怪物で騒がれているネス湖のあるスコットランドのインバネス地方、あそこらへんまで、往復11時間かけて行くなんてしまつですから……ジムはずいぶんあるらしいんですけど、とうとうどこへも行けませんでした」
スコットランド・チャンピオンのアンディ・ロビンズを手玉に

スコットランド・チャンピオンのアンディ・ロビンズを手玉に

 が、そのかわり西ドイツでは

「西ドイツの試合のやり方は、1カ所で3日とか4日とか続けてやるんです。だからその土地のジムへ行きました。何しろ昼間はひまですからね。試合時間がくるまでたっぷりやれました」

 小林選手のトレーニング・スケジュールは、ウェイト・トレーニングとコンディショニングが1日交替だが、西ドイツでもそれは変わらなかった。ウェイト・トレーニングは2時間、コンディショニングは1時間である。

「西ドイツのジムはスペースの大きいのはあまりありませんが、設備はどこもすばらしいですね。びっくりしたのは18歳の少年でものすごい体をしていたビルダーに会ったこと。それがトレーニングを終えると、いろんなハイ・プロティンを買ってきて、自分で混合して飲んでるんですね。見ただけで気持悪くなるようなものでしたけど、そういうものを飲んでるんでまたびっくりした……」

 イギリスではやれなかったが、西ドイツではだいたい毎日、ジムへ通えたことは大きなよろこびだったという。中学でボディビルに志を立てた小林選手としては、はからずも西ドイツでやれてさぞ満足だったろう。

「ボディビルはレスの基だと思いますが、それ以上に、広く体づくりに最高ですね」

 しかし問題は持続にある、という。これは小林選手にも経験がある。高校のころ、あるいは東鉄時代、小林選手のあとについてやりはじめた者も何人かいたが、いずれも途中でダウンしてしまったとか。たんなる好奇心ではダメだということだ。

「自分でやる意志がなかったら、けっきょく長続きしませんね」

 その小林選手の言葉には、実感がこもっていた。
月刊ボディビルディング1969年10月号

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