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ミスター日本への道 3

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月刊ボディビルディング1969年10月号
掲載日:2018.03.24
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吉田 実
 一世一代の大勝負、ミスター日本コンテストの前夜は、あるいは良く眠れないのではないか……との心配は全く無用だった。

 コンテスト前日、京都市青年の家での最後の調整は、地元京都ボディビル界の人達と和やかに交流しながら、とどこおりなく完了。

 その練習の疲れと、2本のビールの酔いが相乗して心地よい眠りに誘われ目が醒めたのはコンテスト当日の午前7時半頃。

 泣いても笑っても残すは6時間あまり。午後1時には、いやでも1968年度ミスター日本コンテストのファンファーレは鳴りわたるのだ。

いざ決戦

 宿舎からコンテストが催される琵琶湖大博覧会々場への30分あまりの船中で、厳流島へ向う宮本武蔵はどんな心境だったのだろうと、つまらぬことが心をよぎる。

 ’70万国博覧会への序曲、琵琶湖大博覧会の会場はさすがに広い。ミスター日本コンテストが、初めて東京以外の地で開催される。それにふさわしい会場である。

 全国各地の激戦に勝ち抜いて、晴れの代表に選ばれた選手が60名。どの選手もそれぞれ強敵ではあるがマークするのは唯一人。大阪の吉村太一選手、その人である。予選を制するもの決勝も制す、とばかりにハッスルして予選審査に臨んだ。

 しかしその結果は、ハッスルが昂じ過ぎたのと、勝負を意識し過ぎたのが掛け合わされて、あまり評判の良いものではなかった。勝負というものは、無心のうちに迎えなければ、良い結果は出ないものなのだろう。

 いよいよ、命運を決する決勝審査の始まりだ。

 ところが、予選審査まえのトレーニングをハッスルし過ぎて、このときにはパンプ・アップさせる体力も気力も使い果たしていたのだ。しかし、私にとっては、ボディビル生活12年の総決算ともいうべきコンテストなのだから、ここで疲れたなどと弱音を吐くわけにはいかない。最後の気力を振りしぼって、ようやくの思いでパンプ・アップさせ、体調を整えた。
 決勝進出者15名。それぞれ5名ずつの3組に分かれて、日頃鍛えた成果を競い合った。

 私は最長身なので、最後の第3組に組み入れられたが、同じ組の中に吉村選手以外の誰がいたのか、全く記憶がない。

 コンテスト終了後、やっと気が付いたことなのだが、第3位の中尾選手、第5位の東選手が私と同じ組だった。

 この人達が目に入らなかったということは、他の選手には申し訳ないが、吉村選手以外はまったく競争相手として意識していなかったのだ。

 この日は、9月末としては朝から暑く感じるほどの好天気で、東京の空とは違い、清らかなオゾンを一杯にたたえた青空が、この日のために死にもの狂いで鍛えあげたビルダーの決戦を冷たく見おろしていた。

 ところが、第2組の演技途中で、私達第3組の5名が舞台の袖に待機の姿勢をとった頃、予選審査のあとにあやしい雲行きに変っていた空からは、ポツリポツリと大粒の雨が落ちてきた。と、思うまもなく、まるでスコールか嵐のように、琵琶湖大博覧会の会場といわず選手といわず、ところ嫌わず冷雨が叩きつけた。万余の大観衆は、一目散にパラソルの中に急ぎ、会場はしばし騒然。

 最後の力を振りしぼって、やっとの思いでパンプ・アップさせた体は強雨に打たれて冷えてしまい、情ない気持になった。

 しかし、このときだ。突如として心境の変化が起ったのは。

 それまでは、勝負に執着する気持が強く、何が何でも勝とうと思っていたのが、このときなぜか勝負にこだわる気持が薄らいできた。

これは、ギリギリの剣ヶ峰に立って勝負を悟ったのか、それとも弱気になったものなのか、今になって思い返してみても、そのどちらとも結論を下すことはできない。しかし、そのいずれにしても、勝ち負けという現象面に執着しないで勝負に臨む、爽やかな気持になれたのだ。こうなれば、日頃鍛えた肉体を、これまた日夜研究を重ねたポージングで披歴するばかりである。

 ほんの数分前までは、負けたらどうしよう、と思う気持が、心の重荷となっていた。ところが、決勝審査のポージングのときには、そんな邪念は心の隅のどこにも存在しなかった。

 心おきなく努力の結晶を披露。あとは審査の結果を待つばかり。

 この発表を待つ数十分間が、やるせなく、不安で、もの寂しいイヤな時間だった。

 ここで、とんだハプニングがあった。

 東京から同行した、大会役員のX氏が私の傍に寄って来て、指を3本出して私の顔をジーッと見つめる。

 何のことかわからないで、キョトンとしている私に

「吉田さんは3位ですよ」
「エッ!本当ですか……」

 目の前が真っ暗になり、全身の力は抜け、立っているのがやっと。

 これほどの努力をしてきたが、及ばなかったのか。しかし、現在の自分にはこれ以上の体は作れない。自分でできる範囲内で、精一杯の努力をしてきたのだから、敗れても悔いるところはない。

 そうはいっても3位とは情ない。朗報を期待して電話を待っている第一ボディビル・センターの会員の皆様に、何といえばよいのか。このとき、ボディビル生活12年のあいだに遭遇したできごとの数々が、まるで走馬燈を見ているかの如く、思い出されてきた。

 とくに、連日明け方の5時頃まで、体力と気力のギリギリのところまで練習した、コンテスト前の7カ月間ぐらいのものが、色鮮やかに脳裏に映し出される。

 頭の中は大混乱。力が抜けて膝がガクガク。表情は、おそらく放心した者のようだっただろう。

 コンテスト終了後役員、選手が全員集まった交歓パーティの席で、当時、大阪武育センター女子部コーチだった中田信子女史が「発表前のヨッチャンの顔は、一生忘れへんわ」

 といったのは、おそらくこのときの事だったに違いない。それほど悲愴な表情だったらしい。

 しかしこのハプニングも、X氏の集計用紙の見まちがいとわかってひと安心。だが、このハプニングで、戦いに敗れたときの心境と、勝者の心境の両極端のものを、わずか10分から20分の間に経験できたということが、その後の私の精神生活のうえで、大いにプラスになっている。

ミスター日本優勝と現役引退

 幸いにも1968年度ミスター日本に選ばれて、雨の中でトロフィー、カップ楯など合計30個ちかい表彰を受けたときには、まったく感慨無量だった。

 〝ミスター日本への道〟は、当然のことながら、花咲き匂う平坦な道ではなかった。苦難の多い、厳しいイバラの道だった。

 しかし、厳しい道であったからこそその道程から得られる貴重な体験や栄養分を、十分に吸収して成長していけたのだ。

 厳しい現実から逃避せずに、むしろ積極的に苦難を求めてそれを克服したときに、人間的な成長が得られるものであることを、身をもって体験した。

 なかでも、今年になって初のコンテスト出場を決意してからミスター日本まで、7カ月間のトレーニングは、最も充実したものだった。しかしその反面、現役ビルダー時代に使える全エネルギーを、この期間に使い切ってしまった感がある。

 いや、エネルギーを使い切ったというよりも、ボディビルに長年打ち込んできて、一応の区切りがついたところで、情熱を注ぎ込む対象を変えてみたくなったのだ。

 私も現在26歳になった。いつまでも現役選手として努力を続け、現在の自分がつかんだものより、より以上奥深いところにある「何もの」かにふれてみたい気持は十分過ぎるほどある。だが、それよりも仕事に魅力を感じ始めたのだ。社会人として仕事に魅力を感じるのは、当然すぎることで、いまさら改めていうのもおかしいくらいだが、最近になって無性に仕事が恋しくなってきた。

 中学2年生のとき以来、スポーツにとり憑かれてまるで気狂いのようにトレーニングを続け、高校3年から、大学を卒業した翌々年までの7年間は、スポーツと併行して将棋の研究に情熱を傾け、1日平均5~6時間の研究を続けた。

 ボディビルのトレーニングは、1日おきに6時間。将棋の研究は毎日だ。将棋に最も熱中した2~3年間は、ボディビルの練習、食事などの時間を除けば、朝から晩までその研究に没頭した。

 しかもその研究というのは、将棋の会所に通って、人と指しながらするものではなく、新聞の棋譜を見ながら1人でするものだ。名人戦、王将戦などプロの高段者の戦いのあとを検討するなかから、棋道の神髄に触れようとしたものである。実戦をするのは、たまに友人と縁台将棋をする程度で、あとはまったくやらなかった。

 そんな研究を、約6年間続けたときに、自分の実力がどの程度のものになったのか知りたくなって、初めて日本将棋連盟の段位認定を受けた。それまで、自分の棋力が何級なのか何段なのか、まったくわからなかったのだ。

 当時売り出しの、順位戦全勝優勝は終戦後3人目という新進プロ棋士、西村一義五段に1週間1局ずつ、5局の試験将棋を受けた。

 ところが、どこでどう間違えたのか、その第1局目に、もちろん平手で対戦して、西村5段が私の作戦にはまってしまい、私の完勝となった。駒落ちならともかくとして、対等の平手戦でプロ棋士がアマチュアに負けることは絶対に無いことだ。

 試験終了後、西村先生が私の棋友のまえで「何段でも好きな段をいってください」。ニタニタしながら自慢の鼻をうごめかしたこのときが、私の得意の絶頂だった。

 しかし、この5局の試験将棋を通して、実戦の経験不足ということが、いかに致命的なものであるかを痛切に感じた。そこで、引退されていた佐藤豊4段に師事すること約1年間。1週に2日それぞれ1局ずつ。1局平均所要時間は8時間から10時間ぐらいだったと記憶する。

 私にしてみれば、1局の対戦に気力も体力も使い果たしてしまうほどの真剣勝負のつもりだったが、引退されたとはいえ、アマチュアの段位とは較べものにならない専門棋士の4段はさすがに強く、100局ちかい対戦をして、勝たせて戴いたのは僅かに2局。

 もともと先天的な棋才に恵まれていた訳ではなく、どんなに研究しても所詮はアマチュアの将棋である。始めから専門棋士になるつもりで取り組んだものではないが、単なる趣味の域を越えて将棋に接していた私は、この辺で気力の限界を感じた。

 今になって、将棋に没入したこの7年間を振り返ってみると、極めて奥の深い棋道の一端に触れることができて、本当に良かったと思っている。

 〝方尺の盤上に天地あり〟

 将棋を通して、人生の何ものかを教えられたところが幾多ある。

 ここでなぜ将棋の話を持ち出したかというと、それがちょうどボディビルダーとして自分が歩んできた道に非常によく似ているからだ。

 ボディビルに取り組んで今年で13年。振り返ってみて後悔することは、何ひとつとしてない。いや、むしろボディビルを知り、実践した私はしあわせであったと心の底から感じている。

 しかし、9月に行なわれるミスター・ユニバース・コンテスト出場を最後に現役を引退することにも、迷う気持や悔いる心はまったくない。

 これからももちろんトレーニングは続けます。

 ボディビル協会の役員として、今後益々ボディビルの普及とPRに努めます。

 本誌の原稿は今迄通りに書きます。

 コーチとして、今よりも尚一層研究します。

 ただ、現役を引退するだけです。

 私の仕事が今後どの方向に針路をとるかはわからない。ボディビルで日本一になるのにも、大変な労力と情熱を傾けた。しかし高度成長を続ける産業界で、仕事のうえで〝ミスター日本〟になるのは容易なことではない。容易なことではないどころか、不可能かもしれない。

 しかし、敢然と挑戦して克服を目指す果敢な心意気で、自分にできる最大限の努力をしていれば、そこから大きな栄養を吸収することができるのだ。これらのことをボディビルが教えてくれた。

 アマチュア・ビルダーとしての第一線と、仕事の両立はもちろん可能である。今日の私も、ほかのコンテスト・ビルダーも、みな現実に仕事とボディビルを両立させている。

 だが、自分の能力以上の大きな目標を持ってしまった、身のほど知らずの私には、とてもそれができなくなった。それに、気力も続かなくなった。

 〝二兎を追うものは一兎をも得ず〟との諺もある。

 これからは、どんなに過激な仕事をしても、それに負けない体力と健康を保持するため、健康管理としてのボディビルのトレーニングを続けて行きたい。
 ファンの皆様、ご声援ありがとうございました。心より厚くお礼を申し上げます。 (筆者は第一ボディビル・センター・コーチ)
月刊ボディビルディング1969年10月号

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