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ボディビルと私 白衣をぬいでビルダーに早変わり

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月刊ボディビルディング1972年1月号
掲載日:2018.06.20
国立予防衛生研究所ボディビル・クラブ
コーチ 後藤紀久
第2回関東学生選手権大会にて

第2回関東学生選手権大会にて

衝撃のシーン!!

 昭和34年の夏のことだった。当時中学3年生だった私は、なんとなく吉祥寺で映画をみた。そして一大木が根もとからひき抜かれ、筋肉隆々の大男がそれを暴走する馬車の前に投げつける、すると馬はピタリとその動きを止めた一あの衝撃のシーン、へラクレスが私の幼い瞼に焼きついた。

 興奮した心をそのまま家にもち帰った私は、父が以前に買った”ファイト”という雑誌を思い出し、そこにふたたびスティーブ・リーブスという名を見い出し、彼のことについていろいろなことを知ったときの喜びは、10数年たったいまでもはっきり思い出すことができる。

 その“ファイト”誌には、平松氏のボディビル講座が載っていた。しかしその頃私にはトレーニング器具などあるはずがない。しかたなく机や椅子を使ってバーベルの代わりにし、ベンチプレスやカールのマネごとをした。

 私がこのようにボディビルに憧れたのにはわけがある。小学校4年頃から柔道をやってはいたが、“カトンボ”とあだ名されるほど細かった私は、子供心にも逞しい肉体には異常な関心をもっていた。しかし、映画で見たヘラクレスのような体をつくる術もよくわからぬまま時はたっていった。

 やがて高校へ進み、以前から興味のあった生物を研究するために自然科学部に入った。

ボディビル・ジム入門

 数カ月たったある日、部の先輩がボディビルをやっていることを知った。中学生のとき味わった、あの感動が激しく私の胸によみがえり、さっそくジムへ連れていってもらうことにした。下高井戸駅の近くにあった日本ボディビル会館である。そこで私は沢山のへラクレスをみて、ヤもタテもたまらずその日のうちに入会することにした。そのとき私は17歳であった。

 会長さんはコンクリート・バーベルで有名な山中氏である。山中氏はボディビルの素晴らしさを熱心に説明してくれた。その年齢を感じさせない輝く若者のような眼差に、私の体は緊張して震えるほどだった。

 小さい頃から凝性だった私は、翌日広背筋の痛みで電車の吊革をつかむことさえできなかったが、それでも学校とジムの間を夢中で往復していた。

 数日後、1人の大きくてハンサムな練習生に出会った。彼は年こそ私とそれほど違わないが、10歳も年上にみえた。そのハンサムで物静かな大男は吉田実氏('68ミスター日本、現JBBA事務局長)であった。

 当時の私にとって、彼は人間とは思えない存在であった。もちろん、人間の顔をもったゴリラだというのではない。自分の“カトンボ”と比較してそのように見えたのである。

 いま考えると、彼が練習している姿は、ほんの数えるくらいしか見なかったような気がする。私たちが練習しているときは、いつもジムの仲間と将棋をしていた。本誌で彼がその道でも一流の腕前だと知ったのはだいぶ後のことである。

 彼はみんなが帰った後で練習をやっていたらしい。それはそうだろう、昼間に彼がはじめたら当時のジムではプレートがなくなって、他の人が練習できなくなってしまう。彼には多分そんな思いやりがあったのだろう。

 また当時、日大レスリング部で活躍していた温井国昭氏(ファイティング・ボディビル・センター会長、東京協会副理事長)も練習生の1人だった。彼はまた物すごいハード・トレーニングをしては、よく会長から注意されていた。たしか彼が大学4年のときだったと思うが、プロレスラーのルッターレンジを訪問し、組み合っている新聞のスクラップなどを見ながら、いろいろ話し合ったことが私の記憶に残っている。

 高校の終わり頃には、貧弱だった私の体にも、ほのかに肉がつき、人に、「いい体をしていますね」といわれるようになり、あれほどコンプレックスを感じていたのが、逆に自慢の1つにもなっていた。

 自然科学部の合宿にもバーベルを持参し、暇さえあれば後輩を集めてバーベルをあげ、部長の先生から何部の合宿だかわからないと叱られたりした。その甲斐あってクラスや部の友達も私の後を追って続々とジムに入会した。しかし、長く続いた者はなく、結局はまた元の1人になってしまった。

 そのころ、三越屋上でミスター日本コンテストが行なわれた。そして、金沢、土門両氏のバルクや、名塚氏のデフィニションに驚かされたりしたものである。こうして私の高校時代も終わり、日大へと進んだ。

日大ボディビル部時代

 大学に入った私は、幸運にも熊本のジムでボディビルをやっていたという本武君とクラスをともにした。彼は私に劣らずボディビル狂で、すぐに意見が一致した。さらに幸運なことには永江先輩(現石川県協会理事長)らが創設したボディビル・クラブが大学にあったのだ。先に入部していた本武君に誘われて私もさっそく入部することにした。

 当時、私は守主将や部員たちと、ほとんど連日練習したものである。とくに、毎年夏に行なわれる合宿は、そのきびしさと楽しさが入り乱れ、生涯忘れることのできない思い出となろう。

故三島由紀夫氏の思い出

 昭和39年11月、慶応大学の三田祭に慶大ボディビル部に招かれて、デモンストレーションをやることになった。

 そのとき、作家でありビルダーである三島氏が来られ、練習のあと、氏を囲んでボディビルについての話し合いがもたれた。

 三島氏は私たちにあの鋭い眼光を放ちながら「自分はいつも年より10歳は若くみられる。これはボディビルをやって若さを保っているからだ。日本の女性は腹が出ている人々を貫禄があって頼もしいと思っているようだ」といかにも若々しい声でみんなを笑わせたりした。

 私たちが「小説に本当に男の逞しい姿を書いてくださいよ」といったことも遠い過去の思い出になってしまい、もう2度と逢うことはできない。

関東学生ボディビル連盟結成

 私が3年生のとき、念願の学生連盟が結成されることになった。

当時の加盟校は少なく、慶大・早大・東大・外語大・東海大そして日大の6校だったと記憶している。会長には窪田登氏(早大助教授)が満場一致で選ばれた。氏の熱意ある指導にいまでも皆感謝している次第である。

 われわれの在学中は、慶大チームが圧倒的に強かった。優勝はいつも慶大の石山和彦君('66ミスター日本6位)のもので、私などはいつもその引立て役になっていた。
 
 現在は加盟校も当時の数倍に増え、主導権をもつ大学も大きく変わったことを後輩から聞かされ、ボディビルの底辺がますます拡大されたことを痛感し喜んでいる。
職場の練習生と共に。左端が筆者

職場の練習生と共に。左端が筆者

職場でのボディビル

 大学を卒業して私は国立予防衛生研究所へ厚生技官として就職した。そしてまた、ここでもボディビルを続けられるという幸運にめぐまれた。実業団の理事をしている木口一朗氏がリーダーで、ボディビル・クラブをつくっていたのである。白衣を着こんだ青白い顔の研究者たちが集まっている職場にボディビル部があろうとは、私は驚くと同時に、社会生活に密着したボディビルの本来のありかたを、ここに見出したような気がした。

 しかし、ワクチンや血清等の基礎研究の道に入ったばかりの私には、まだまだ勉強することが沢山ありすぎた。いくら好きなボディビルでも、残念ながら練習する余裕がなかった。これでは宝のもちぐされである。

 国家試験の迫った大学の終わりごろから職場での数年間、合わせて4年間のブランクができてしまった。ようやく仕事に慣れてきた昨年から再びトレーニングを開始した。

 週3回、1回45分の昼休みのトレーニングは、4年間の空白で衰えた体を取り戻すには、あまりにも少ないトレーニングであるが、なんとか早くもとの体にまで回復させようと、懸命に汗を流している。

 最近は少し回復し、100キロ台のバーベルを動かせるようになった。しかしここで困ったことが起こったのである。それは、練習後にあわてて白衣を着こんだものの手が震えて注射がうまくできないのだ。静脈注射は皮下に、皮下注射は筋肉にと、1段階先に針が進入してしまう。また、ピペットもうまく吸えないのである。

 大学の合宿にも最近出席しているが若人の筋力とファイトには、なかなかついていけず、階段登りには最後尾、柔軟体操でさえ悲鳴をあげるしまつである。

 職場の部員も徐々に増えてきているが、健康に密接な関係のある厚生省の研究所であるのに、まだまだボディビルへの理解が不足していることは、木口氏とともにまことに困惑するところである。

 文化祭で、老人・青年・女性美容のためのトレーニングを組み、実演までしたのだが、その反響もほとんどなかった。しかし、理解してもらえるまで努力を惜しまないで、職場新聞にもその効用を書き続けている。医学的にボディビルを説明し、その素晴らしさを認めてもらえる日を夢みて、基礎医学者として、また、ボディビル・コーチとして頑張らなければならない。なぜなら、ボディビルは何事もやりとげられるという自信を私に与え、また私の生きている証拠でもあるからだ。

 一若者は欲しいと思う、恋と金と健康を。ところが、ある日かれらはいう、健康と金と恋を(ポール・ジェラルディー)一私はこの言葉が好きだ。
ワクチン・血清類の国家試験(発熱試験)を行なっている筆者

ワクチン・血清類の国家試験(発熱試験)を行なっている筆者

月刊ボディビルディング1972年1月号

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