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ボディビルと私
パワーに生きる

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月刊ボディビルディング1972年3月号
掲載日:2018.03.05
国分寺ボディビル・クラブ所属
因幡英昭
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水くみで足腰を鍛錬

私は秋田県の北部、大館市の郊外で、農家の三男坊として生まれた。昭和19年1月、戦争もだんだん旗色が悪くなってきた頃である。
母から聞いた話によると、当時は大へんな食糧難で、肉や魚はもちろん、ごはんもろくに食べられなかったそうで、私の体が小さいのはそれが原因ではないかと、母が会うたびに戦時中の話をしてくれる。
そんなわけで、子供の頃は体も小さく、勉強の方でもまったく目立つ存在ではなかったが、体育の時間だけは別で、このときだけは私の天下だった。とくに跳躍や機械体操が得意だった。
また、人を笑わせることが上手で、いつもクラスの人気者だった。実は今でも会社やジムで、いつも仲間たちを笑わせている。
私の田舎は田畑が広く、人手が足りなかったので、小さいときからよく力仕事をさせられた。
その頃、私の家には井戸がなく、毎日100メートル位の距離をバケツで家まで水を運ぶのが私の日課だった。それも、1日に3~4回運ぶのだから、子供の私にとっては大へんつらい仕事だった。しかし、百姓のくせにすべてに厳しかった父は、雨が降っても雪が降っても、絶対に手を貸してくれようとしなかった。
お陰で私は強い足腰と根性を鍛えることができたと、いまさらながら感謝している。
中学生の頃はマラソンが得意だった。これも、いま述べた強い足腰と根性で頑張ったからだと思う。
勉強のあまり好きでなかった私は、早く社会に出て1人前の給料とりになりたかった。そして、中学を卒業するとすぐ、近くの町に住み込みで働くことになった。しかし、この勤め先がまったくヒドイところで、仕事は人一倍させるのに給料は雀の涙ほどで、しかも、時々くれない月があるという始末。さすがに我慢強い私もいやになってやめてしまった。
翌年、1年遅れではあったが、秋田商業高校に入った。この学校は秋田市でも一番スポーツの盛んな学校だったが、どうも自分の青春を賭けて打ち込むほど好きなクラブもなく、放課後はいつもぶらぶらしていた。
そんなとき、体育館のすみに先輩の使ったらしい50キロぐらいの錆びたバーベルがころがっていた。これが私とバーベルの最初の出会いであった。そのとき、瞬間的に私の頭に浮んだのが重量あげであった。なんか自分にピッタリのスポーツのような気がした。もちろん、その頃はボディビルがどんなものか知らなかったし、将来、自分がボディビルに打ち込むようになるなんて想像もしなかった。
友達と面白半分にテレビで見た重量あげのマネをして遊んでいたが、そのうちにだんだん興味がわいてきた。しかし、学校に重量あげのクラブはなく、正式な運動方法もわからなかった。いくらか力もついてきたようだったが最初についていたプレート以外に、余分なプレートがなく、バーベルを50キロ以上に増やすことは不可能だった。

レインジャー部隊からテスト・ドライバーへ

高校を卒業し、M自動車販売に就職した。やっと1人前の社会人になったような気がして嬉しくてたまらなかった。1日の仕事が終わったあとで、気の合った同僚たちといっしょに酒を飲むのが楽しく、いつしかバーベルのことも忘れてしまった。
楽しかったこの職場も、1年足らずでやめることになった。というのは、生まれつきお人好しだった私が、不良がかった連中とつき合ったため、貸した金はとれなく、それでもまだ借りにこられるという始末で、ガックリするやら情なくなるやらで、どこか遠く離れたところへ行きたくなったからである。
そんなとき、自衛官募集の広告が目に入り、さっそく応募して、仙台の陸上自衛隊に入隊した。
入隊当初は毎日厳しい戦闘訓練の連続だった。とくに、レインジャー教育部隊に派遣されたときは、生まれて始めて〝本当の苦しさ〟を味わった。
飲まず食わずで険しい山・川・谷を越え、空腹のため見ただけで気持が悪くなったへビまで食べた。しかし、今考えてみると、このような肉体の限界に近い猛訓練と、ドン底の生活は私に根性という尊い教訓を教えてくれた。
そして1年後、今度は空挺落下傘部隊に派遣されることになった。なにしろ屋根より高いところに登ったことのない私は、始めて飛び降りるとき、足がガタガタふるえ、なかなか飛行機から足が離れなかった。12回ほど降下訓練をしたが、これも度胸を養うのに大いにプラスになった。
その後、東京に転属し、ジープやトラックで隊員輸送をすることになった。ここでは比較的に作業が楽だったので前々から思い続けていたバーベルを2万円近く出して買った。それからは、夜となく昼となく時間のゆるす限り重量あげの練習に精を出した。
当時、私の体重は50キロしかなく、正式なコーチを受けたこともなかったが、それでもジャークで85キロはいつでもあげられた。ある程度自信を得た私は、なんとか自衛隊体育学校に入って、重量あげの選手になることが夢だった。
しかし、毎日デコボコの山道をジープで走り続けているうちに、前から少し悪かった痔を再発してしまい、手術をして1カ月半の入院生活をすることになってしまった。そのうえ、医師から1年くらい練習を禁じられてしまった。そして、体育学校入学の夢は破れてしまった。
入院中、診察のため裸になったとき看護婦に「小さいけれど、こんな素晴らしい体を見たことがない」といわれそれが嬉しくてたまらなかった。そして、重量あげは痔に悪いが、腕立て伏せならいいだろうと、毎日欠かさずやっていた。でも、これもお尻に力がかかってよくないことがわかり、残念ながらこれも断念しなければならなかった。
退院も近くなったとき、4年間の満期となった。部隊の上司から「自衛隊に残るように」との暖い言葉にずいぶん迷ったが、いろいろ将来のことを考えたすえシャバに出ることにした。
シャバでの最初の仕事はテスト・ドライバーだった。これはレインジャー部隊や落下傘部隊で養われた根性と度胸を生かすにはもってこいの職場だった。
200キロの猛スピードで、正面だけをジッと見つめて呼吸を合わせながら、傾斜40度のバンクにすべるように入りそれを抜けて直線コースに出るとき、足はアクセルにピッタリとつき、ハンドルを握っている手に汗がにじみ出るあの緊張した気持ちは、まったくなんともいえないものだ。
これこそ男の職業であり、私としても大好きな仕事だったが、田舎にいる親兄弟が、私の小さいときからの落ち着きのない性質を心配して、危険だからやめるようにと、毎日手紙で矢の催促をしてきた。
確かに子供の頃からお人好しで、落ち着きのなかった私はテスト・ドライバーに未練はあったが、これもやめることにした。こうして命はあったが、今度は職業がなくなってしまった。
子供の頃から機械いじりの好きだった私は、知人の紹介で日立製作所に入社し、転々とした職業に終止符を打つことになった。
自衛隊時代の私。胸のマークが落下傘部隊のあこがれのシンボル

自衛隊時代の私。胸のマークが落下傘部隊のあこがれのシンボル

実戦さながらの降下訓練。この中のどこかに私もいる

実戦さながらの降下訓練。この中のどこかに私もいる

ボディビルとの出合い

昭和44年4月のある日、市役所に行く途中、電柱に貼ってあったボディビル会員募集の広告を見た。そして、しばらく中断していたバーベルのことを思い出し、さっそくジムに走った。こうして再びバーベルを握ることになった。
それまでもボディビルという言葉は知っていたが、具体的なトレーニング法とか効果については、まったく知らなかった。そして、ジムに入るやいなや、会長の関さんの体を見てびっくりしてしまった。私はこのとき始めて、いわゆるビルダーの体を見たのだが、前に看護婦にほめられてイイ気持になっていた自分の体が恥しくなってしまった。
それからというものは、1日も早くあんないい体になり力もつけようと、仕事が終わるとまっすぐ自転車でジムにふっとんで行くのが日課となった。
その頃は、まだ重量あげをあきらめたわけではなく、ジムに行ってもボディビルというより、むしろ重量あげの練習が中心だった。当時、体重は51キロぐらいしかなく、力は順調についてきたが、体が少し堅いため、どうしてもスナッチのきまりが悪く、それ以上なかなか記録を伸ばすことはむずかしかった。
そして、会長の「重量あげよりパワーリフティングの方が君には向いている」という意見にしたがってパワーに専念することにした。
最初はパワーリフティングといっても、それほど興味があったわけではなく、パワーの競技会があるなんてことも知らなかった。会長の指導のままにやってみたところ、それほどテクニックも必要なく、すごく単純なスポーツに思えた。しかし、それは最初のごく重量の軽いときのことで、だんだん重量が増えるにしたがって、これが大へん男らしいおもしろいスポーツであることがわかった。
パワーリフティングに転向して約1年後に、70年度の東京選手権と全日本選手権があった。まだまだ経験も浅くとうていダメだとは思ったが、一流選手のフォームを研究し、試合経験をつむために出場することにした。そのときの私の体重は54キロで、軽量級の制限体重65キロより11キロも少なかった。そして結果は予想どおり惨胆たるありさまだった。
全日本選手権大会では、第1回目の試技からスクワット180キロの日本タイ記録に挑戦した。ジムでは何回かできたし、自信をもっていたが、いざ公式競技会となると、足はガタガタとふるえ、体は硬直して、ついに3回とも失敗に終わり、結局トータル0であった。いくらパワーの練習をつんでも、心の鍛練ができていなければダメだということを痛感した。
試合終了後、スポーツ新聞社のカメラマンが、足だけ写真をとらせてくれといって追いかけてきたのがいまでも印象に残っている。
71年度の全日本選手権では3種目1回挙上方式が1年延期となり、これを目指して練習してきただけに非常に残念だった。東京選手権大会では一応目的を果し、フェザー級で優勝することができた。
最近、会長や先輩の人たちから、私の記録(ベンチ・プレス115キロ、スクワット197.5キロ、デッド・リフト220キロ、トータル532.5キロ)が、世界のランクの上位に相当すると知らされ、ますますファイトをもやしている。今年からは7階級制の本格的国際ルールの採用が決定され、世界の強豪との比較も容易になり、大きな励みになっている。
最近の欧米の記録が雑誌に発表されているが、これを見ると、まだまだ私たちの記録よりもはるかにレベルが高く、これに追いつくには並大抵の努力ではダメだと思うが、私もパワーを心ざした以上、世界の上位を目指して頑張りたいと思う。
私の属するバンタム級では、デビット・マイヤー(アメリカ)、ピーター・マッケンジー(イギリス)が世界の上位を占めているが、さらにアメリカにはこの2人を上まわる大物新人もあらわれたらしく、だんだんとパワーも世界的に盛り上ってきたようである。
子供の頃、水くみで鍛えたこの脚こそ私の財産である

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私のトレーニング法

まず、1年を大きく2つに分けて、12月から全日本選手権大会まではパワーを中心とし、大会後から11月までは一般のビルダーと同じボディのトレーニングをしている。
ここではボディのトレーニングについては私の柄ではないので省略して、パワーの練習法だけを書くことにしたい。
気分屋の私は、あまり規則にしばられることが嫌いなので、スケジュールもごく大まかなもので、皆さんの参考にはならないかも知れない。
練習日はだいたい1日おきで、ベンチ・プレスを主とする日と、スクワットを主とする日に分けている。デッド・リフトは少しずつ両方の日に行ないそのほかのシット・アップとかチンニング、カール等の普通の運動も適当に行なうことにしている。
1回の練習時間は、だいたい1時間半前後である。運動種目・重量・回数・セット数については、おおむね次のようである。

◇ベンチ・プレスを主とする日
ベンチ・プレス
60キロ×10回×1セット
90キロ×2回×1セット
100キロ×3~6×3セット
80キロ×10回×2セット

デッド・リフト
100キロ×10回×3セット
140キロ×8回×3セット
190キロ~210キロは、その日の体調によって適宜行なう。
◇スクワットを主とする日
スクワット
120キロ×8回×2セット
170キロ×2回×2セット
160キロ×6回×2セット
150キロ×8回×2セット

デッド・リフトは前記と同じ。
以上のようであるが、そのほかときどき自分の最高重量に挑戦してみる。

人間男として生まれてきた以上、誰でも一度はあの素晴らしい肉体美になりたいと考えるにちがいない。私はボディビルをもっと若いときから知っておけばよかったと今でも後悔している。長い間の努力の結果が現実の姿としてその肉体に現われるボディビルこそ、私は真の男のスポーツだと思う。
また、スポーツ競技としてのパワーリフティングを、広く一般の人たちに知っていただくためにも、盛り上がった競技を展開し、ボディビルをますます発展させたいと念願している。
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