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ミスター・ワールド道中記(その一)

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月刊ボディビルディング1972年4月号
掲載日:2018.01.23
’70ミスター日本
’71ミスター・ワールド2位
武本 蒼岳

米粒を断ち
納豆・鯨肉を主食にして1年

’71ミスター・ワールド、ミスター・ユニバースこそ、私のボディビル生活を賭けた最大のチャレンジであり、この日のためにかつてない血のにじむような精進をかさねてきた。
コンディションは幸運にも日に日に上昇し、なんのトラブルもなく、まずはベストの仕上りといってもいい。
私は今年(1971年)正月から米粒をいっさい口にしていない。ある程度バルクを犠牲にしても、デフィニションをつけるためには、澱粉や糖分・脂肪の味のある美味しい食べ物は、私の体質上どうしても避けなければならなかった。そして、この食欲に対する苦痛は、どんなトレーニングの苦痛よりもつらいものだった。
味気のない納豆・鯨肉を主食にしてすでに9ヵ月、もうニオイを嗅ぐのもいやだった。しかし、蛋白質の食品といえば、経済的にいって安いものが少なく、これに頼るしかなかった。
明けても暮れても私の頭の中は常にタンパク、タンパクであった。無意識のうちにも蛋白質の量を計算しながら食事をしている自分に、なぜこれほどまでに、と1人で苦笑したことさえある。しかし、これも修練のうち、いつも自分にいいきかせていた。

ワイキキの浜で肌を焼く

9月5日、武育センターの会員たちに見送られて大阪を発つ。羽田発JAL第2便に搭乗。見るのも乗るのも初めてのジャンボ機にまずド胆をぬかれる。夜の空を一路ハワイへ。6時間30分後にハワイに到着。
朝の10時過ぎになっているタイム・マシンで引きもどされ、夜が朝になったようで変だ。
出迎えはミスター・サウス・パシフィックのドナルド・チャングと日系のミス・サナエ、それに初対面のアチェー君の3人が待っていた。レストランで腹ごしらえをしながら、知人たちの話を伝えたり再会の喜びにひたる。しかし、いつまでものんびりしているわけにはいかない。さっそくティミー・レオングのジムに行き、外地での初トレーニングに汗を流す。ミスター・ティミーは足首のねんざでここ数週間トレーニングできずにいると聞いていたが、再会するとやはり以前に会ったときよりかなりやつれていた。
宿泊はアチュー君の家にお世話になる。花に囲まれた彼の家は、いかにもハワイ風といった感じで、花の匂いが鼻をついて少しムンムンするくらいだった。
お父さんがまた親切な人で、別棟になっている1軒を貸してくれ、あれやこれやと世話をやいてくれた。備え付けの冷蔵庫にはビールやミルク、それにフレッシュ・ジュースまで入れてあり、そのうえ、台所、風呂、電話まであって、なんでもできる便利で可愛いいハウスである。
荷物の整理もそこそこにワイキキの浜に行く。3年前のなつかしい思い出もそのまま、悠然とダイヤモンドへッドが横たわっている。水平線は遠く空と海を区切っている。白い波、若者たちの遊ぶサーフィン、高くそびえる近代的なホテル、ひょろ長いヤシの木、泳ぐ人、日光浴に夢中になって心地よくねむっている人、ときたま押し寄せる波の音、やわらかい風、たわむれる子供たちの声、それらが実に調和のとれた健康的な別世界をつくりだしている。その中に、いま自分も入っていく子供のときから夢見ていたワイキキの浜辺に、2度までも来ることのできた幸運に感謝せずにはいられない。
翌6日、アチュー君のお母さんの手料理をいただく。生まれて初めての巨大なビフテキ。1人分が7.5キロのプレートぐらいの大きさで、まさにオバケステーキだ。それに新鮮なパパイヤ、オレンジ、グレープフルーツが美味しい。あまり食べすぎて、消化薬を飲んでもしばらく動くことができなかった。
午後からは、またワイキキの浜辺で日光浴。日本ではトレーニングに忙しく、あまり日光浴ができなかったので裏表とヤクのに忙しい。
夕方、ティミー・ジムに行きトレーニング。そしてミスター・ティミーが直々にポージングの指導をしてくれた。
さすが大先輩、私の体を一見してテキパキと急所を指摘して的をはずさない。そのあとコンテストに臨んでの心構えなど、いろいろ教えられ大いに勉強になった。
このティミーのジムは、1昨年モングストリートから移転したもので、建物も新しく、器具類も一新されていた。とくに素晴らしかったのは、テン・セパレート・マシンだった。さすがに本場だけに、角度、すべり具合などの使用感がバツグン。そのほかアメリカと日本の器具の違いで、いつも感じるのがダンベルである。
とにかくダンベルの量的な違いときたら日本のそれとは比べものにならない。100ポンド(約45キロ)以上のダンベルがずらりと並んだところは実に壮観だ。日本では30キロ(約66ポンド)のダンベルが重い方だし、それも数多く見ることはまずない。しかし、近い将来、日本でも100ポンド以上のダンベルが数多く必要になる時期がくるに違いない。
翌朝、ティミーの好意で、彼の全盛時代のポージング・フィルムを見せてもらうことができた。さすが美しく力強いポーズだ。このフィルムが後の大会では大きなプラスになったと確信している。
いよいよロスへの出発である。空港にはお世話になった人たちが大勢で見送りに来てくれた。アチュー君のお母さんが庭の花でレイをつくってくれて別れのキスをしてくれた。テレクサイような淋しいような。この人たちといつまた会えるかと思うと、これから始まる世界の強豪との戦いも忘れて、人情のありがたさに柄にもなくセンチメンタルになってしまった。
途中ハワイにてコンテスト前のひとときを肌を焼きながら美しいブロンドのお嬢さんと遊ぶ

途中ハワイにてコンテスト前のひとときを肌を焼きながら美しいブロンドのお嬢さんと遊ぶ

ハワイのティミー・レオング・ジムで会長のティミーからポージングの指導を受ける

ハワイのティミー・レオング・ジムで会長のティミーからポージングの指導を受ける

ビル・パールに再会
彼のジムでトレーニング

5時間余りの飛行でロスに着く。乗り物に弱い私には限界の時間。時間差とヨイで気分が悪い。空港で早速ミスター・ラリー(ビル・パール・ジムの会員)に電話して、パールに会い、彼のジムを見たいと頼む。
一夜明けて多和君(’65ミスター日本、現在ロス在住)に電話すると、友人2人とすぐとんで来てくれた。なつかしさのあまり一気におしゃべりをし近況を聞く。私は彼を学生時代から知っているので、異国の地でかくも逞しく生活し、力強く生きている彼に敬意を表しともに競い合ったビルダー仲間に誇りを感じた。
彼は、来年2月(47年2月)にはジャパン・へルス・クラブという立派なジムをオープンする予定で、いま建築中だからぜひ見ていってくれといってきかなかったが、時間の都合で残念ながら見ることができなかった。
ロスの日本人街に立ち寄って食事をし、日本食に舌つづみをうつ。納豆、塩から、サンマ……なんでもある。いやはや驚き。
午後2時ごろビル・パールのジムに着く。3年ぶりの再会。目の前にいるビル・パールは、いままで私がいだいていたイメージとはまるで別人のように違っていた。
頭髪を長くし、握手したときの腕のデフィニション、前腕に血管が浮いている。赤くやけた白人特有のヒフの色それよりももっと印象的だったのは彼の眼だ。キラキラ輝いているその眼はまるで獲物を狙う猛獣のようだった。ビル・パールは自信にあふれていたに違いない。彼はすぐロンドンに発たなければならないので、またロンドンで会おうと再会の約束をしてくれた。
多和君の解説に助けられて、ビル・パールのジムで、彼が考案した器具を使って約1時間のトレーニング。このジムの器具にはいくつか使用法のわからないものがあった。しかし、これも多和君の説明で使ってみると、実に効率のよい器具であることがよくわかった。さすが考案者がビルダーだけに使用感もよく、各筋群への抵抗を効果的に伝達するように工夫してある。
これらの器具を使用すれば、普通3時間ぐらいの練習も、1時間で充分とか。私もいつもの感覚で行なったところ、体中が痛くて苦しくてしかたがなかった。つまり、ストリクト・スタイルの上に超をつけたようなもので、ねらった筋群だけに抵抗が伝達されるようになっており、まったくの軽量でも与える刺激は非常に大きいことがわかった。また、このジムも例外ではなく100ポンド以上のダンベルがずらりと並んでいた。
次にビンス・ジムに向う。運が良ければラリー・スコットに会えるはず。雑誌で見おぼえのあるビンス・ジムに到着、ビンス・ジロンダの顔を思い浮かべながらドアを押す。
右の受付らしいカウンターには、トレーニングシャツ、ボディビル雑誌、プロティン等が陳列されている。ジムの内部は、いままで見てきたどのジムよりも明らかに歴史が長いように思えた。
壁、床、器具のそれぞれに、汗のこびりついた古いジムのムードがにじみでている。ところが、並んでいる器具の1つ1つをよく見ると、オリジナルというか実に綿密な工夫がこらしてある。握り手の角度、幅など随所に研究心の旺盛なジロンダの苦心のあとがうかがえる。
とくに、このジムの変ったところはワイヤー・ロープを使った器具が多いことだ。憧れのラリー・スコットも大いにこれらのマシーンを活用したのだろう。
コーチの話によれば、現在ラリー・スコットは週2回、短時間のトレーニングを続けていて、サイズは体重160ポンド、上腕囲18インチ(45.7cm)だそうだ。しかし彼は、8週間あれば全盛期の自分にもどすことが可能だといっている。過去の栄光やプライドがそう言わせるのだろうか?、あるいは本当に自信があるのだろうか?
その帰りにロスアンゼルス・アスレティック・クラブに寄り土門氏に会う。
ロスのアスレティック・クラブに土門氏(’61Mr.日本)を訪問。右端は多和君

ロスのアスレティック・クラブに土門氏(’61Mr.日本)を訪問。右端は多和君

WBBGコンテストを見学
ボイヤー・コーが優勝

9月10日、ロスからジャンボに乗って5時間あまり、目的地ニューヨークの街の灯が見えてきた。午後10時近くであっただろうか。
ゲートを出ると、なつかしいトム氏とゲーブ氏が出迎えてくれた。3年ぶりに見る両氏は、以前とまったく変っていなかった。異国の地で接する友情に胸の中がジーンと熱くなる。
ブロードウェイにあるミッド・シティ・へルス・クラブについたのは12時ごろだった。私は早速トレーニングをすることにした。約1時間ぐらいたってから、トム氏とゲーブ氏にポージングを見てもらう。以前より大はばに改善したので、今回はベリー・グッドだと言ってくれた。
翌日、グリニッチビレッジに買物に行く。午後のトレーニングを終えたき、たまたま今夜WBBGのプロ・ミスター・ワールドとプロ・ミスター・アメリカのコンテストがあると聞いたので、ぜひ見たいとゲーブ氏に告げると、コロンボたちも行くので一緒に行こうといってくれた。
フランコ・コロンボ、エド・コーニーそれにゲーブ氏、日本から私と一緒に行った通訳の河野君たちと1台の車に乗り込んで会場に急ぐ。
このコンテストは、ダン・ルーリーが主催するもので、ブルックリンの通りにダン・ルーリーの大きな看板がかかった彼のジムがあり、会場はすぐその近くだった。
10ドルと5ドルの2種類のチケットがあり、せっかくのチャンスだからと10ドル券を買おうと言ったところ、ゲーブ氏が5ドルの券を買って、片目をつむって合図した。私にはどうもその意味がわからなかった。しかし、しばらくしてなるほどと思った。開場と同時に10ドルの空席めがけて5ドルの客がドッと押し寄せたのである。われわれの席も、ゲーブ氏がいち早く確保してくれたおかげで、最前列の良い席にありつくことができた。
やがてWBBGのコンテストが始まった。さきにあげたもののほかに、ミスター・プロ・ティーンエイジとかミス・ビキニといった盛りだくさんのコンテストだった。
出場した主な選手は、日本のビルダーにおなじみのボイヤー・コーをはじめ、デニス・ティネリーノ、ケン・ウォーラー、ピーター・カプト、ビル・グラントといったそうそうたる顔ぶれである。
これらの強豪たちの熱戦をまのあたりに見て、息がつまる思いだった。しかし、この緊張した空気も、途中で行なわれるミス・ビキニ・コンテストによってやわらげるという、なかなか考えた演出に感心した。
この一連のコンテストの中で、一番印象に残ったのは、ミスター・プロ・ティーンエイジに優勝したルイス・フェレリーノである。彼のサイズについては聞きもらしたが、10代の二軍にこれほどのスケールの大きいビルダーがいるとは想像できなかった。
このルイス君を見た瞬間、私は頭の中でシュワルツェネガーの19才の頃と比較してみた。どう考えてもプロポーション、バルク、デフィニションいずれにおいてもルイス君に分があると思われてしかたがなかった。
今後、彼がどのような道を歩み、努力するかは未知数であるが、近い将来シュワルツェネガーをおびやかすのは彼ではないだろうか。上には上があるものだと、感心ばかりしていて自分の現在の立場に気づかないほど興奮してしまった。その他の10代のビルダーも決して悪くない。おそろしい子供たちだ!
なお、プロ・ミスター・ワールドでは1位ボイヤー・コー、2位ケン・ウォーラー、3位デニス・ティネリーノ。プロ・ミスター・アメリカの部では、1位ピーター・カプト、2位ビル・グラント、3位ワーレン・フレデリックという順位だった。
最後にゲスト・ポーザーとしてセルジオ・オリバが登場。司会者の紹介が終らぬうちから会場はわれんばかりのさわぎになっている。さすがここでもオリバの人気はバツグン。他のビルダーのときの声援とは比べものにならない。
やがて黒い巨人が舞台にあらわれる。どう見てもわれわれと同じ人間とは思えない。猛牛といった方がピッタリである。その猛牛がポーズをとり始めた。とても私のつたない文章で表現することは不可能である。それほど素晴らしい肉体だった。
時間もかなり経過し、いく分冷静さをとりもどしてみると、3年前に彼を見たときよりバルクはいちだんと増している反面、デフィニションが以前よりなくなっているように感じられた。彼がもっとも得意とする両腕を上につきあげたバック・ポーズを見ても、かなり迫力が欠けているように思えた。ポージングを終えたオリバは、観衆に向って「NABBAへの挑戦を決意した」と宣言した。そして、この一瞬会場からはドヨめきの声があがった。
先刻ご承知のことと思うが、この少し前NABBAのミスター・ユニバース・コンテストで彼は惜しくも2位に甘んじた。その帰り、オリバはパリで開催されたIFBBミスター・ユニバース・コンテストにゲスト・ポーザーとして出場し、その健在さを示すとともに、ヨーロッパのボディビル界に一大センセーションを巻きおこしたとのことである。
なお観客の中には、無冠の帝王といわれたアーサー・ハリス、巨大な腕の所有者リーロイ・コルートなどの顔も見ることができた。
大会が終ったのはなんと夜中の1時を少しまわっていた。みんなで食事をしてホテルに帰ったのが2時過ぎであったが、興奮でなかなかねむりにつくことはできなかった。
3年ぶりの再会に肩を抱きあってよろこぶ。左からコーニー、私、コロンボ、ミスター・ゲーブ

3年ぶりの再会に肩を抱きあってよろこぶ。左からコーニー、私、コロンボ、ミスター・ゲーブ

トレーニングにはげむコロンボ(左)とコーニー

トレーニングにはげむコロンボ(左)とコーニー

いよいよ本番
ミスター・ワールド・コンテスト

9月12日8時起床。ねむい目をこすりながら食事をとって、約束のミッドシティ・ジムに向う。みんなとここで落ち合い、車で一緒に会場のあるホワイトプレインに行くことになっている。コロンボをはじめエド・コーニー、チャーリー、そのほか多くの選手たちが集ってきた。中にジョー・ワイダーもいて何やら選手たちを笑わせていた。私はトム氏の車に同乗して出発。
ニューヨークも一歩郊外に出れば美しい田園風景となる。昨夜の夜ふかしのためか車の中でついウトウトしてしまった。床屋と車の中はどうしてこうも気持よく眠れるのかまったく不思議である。「もう着いたよ」というゲーブ氏の声でハッと目がさめた。
受付でゼッケンを受取り、舞台裏へ急ぐ。すでに10数人の選手が控室で待期していた。
2時間ほどたって、観客のいない舞台でプレ・ジャッジが始まった。審査員は5名。まずミスターUSAの比較審査が始められた。ハロルド・プール、エド・コーニー、ジョニー・マクドナルド、チャーリーらがいっせいにウォーム・アップを始め、つぎつぎに出場していく。
私は舞台のそでからのぞき見しては自分で採点していたのだが、どうも落着かず採点どころではなくなってきた。彼等はそれぞれ決定的な何かをもっているだけに、いざ順位をつけるとなるとなかなかむずかしい。しかし、総体的に見て、ハロルド・プールとエド・コーニーがいくらかリードしているように思えた。
やがてミスターUSAが終わり、ミスター・ワールドが始まった。いよいよ私の出番である。各選手ウォーム・アップに余念がない。トールマン・クラスから5名ずつ舞台にあがり審査が始まった。
これもまた比較審査で、選手は前面側面とポーズをとり、しかも選手の位置を入れかえては何度も何度も比較される。ポーズが同一のパターンなのでゴマ化しようがない。私は最初からコロンボの隣だったので苦戦そのものだった。
私とは段違いのコロンボとまったく同じポーズをしたのでは不利だと思ったので、彼が腕を曲げて上にあげたときには、私は腕を伸ばして同じようで少し違ったポーズをとるようにした。それに気づいたのか、右端にいたジャッジがニヤッと笑った。そのときどうしたことか運悪く目と目が合ってしまったので、目のやり場にこまり、しかたなく私もニヤッと笑い返した。
やがて全クラスが集まり、部分賞のジャッジが行なわれた。最後の脚の部分では、コロンボと私の2人の勝負となった。なんとか脚の部分賞だけはとりたいとリキむだけリキんで見せた。長時間にわたるプレ・ジャッジも終わり、後は決勝を待つばかりである。
身心ともにクタクタになり、目がくぼんできたのが鏡を見なくてもはっきり意識できるほどだ。昼食と夕食を兼ねた食事をとり、これから始まる決勝審査にそなえる。
食事を終えて会場に戻ると、見知らぬアメリカの青年に日本語で話しかけられた。彼は以前東京に住んでいた頃中野のジムに通っていたといい、末光選手をよく知っているという。「君の名は?」ときくと、ション・コネリーだと言って片目をつむった。そういえば末光選手もアメリカに友人がいるといっていた。
そして彼は、末光選手の近況を聞くので「たぶん彼は今年のミスター日本に選ばれるだろう」と私がいうと、たいへん喜んで末光選手にがんばるように言ってくれと伝言をたのまれた。
ミッドシティ・クラブでトレーニングするケン・ウォーラー(左)とチャーリィ・コーラス

ミッドシティ・クラブでトレーニングするケン・ウォーラー(左)とチャーリィ・コーラス

脚の部分賞はコロンボ
私のすべての夢はくずれ去った

コンテストのあと通訳の河野君とハドソン河に遊ぶ

コンテストのあと通訳の河野君とハドソン河に遊ぶ

夜になっていよいよ決勝だ。もちろん同一審査員である。この審査もやはりミスターUSAからだ。そしてその結果は、私の予想どおりエド・コーニーがショートマン・クラスの優勝とともに綜合優勝も獲得した。ハロルド・プールはトールマン・クラスでは優勝を果したが、綜合では惜しくも僅差でエド・コーニーに破れてしまった。また、ミーディアム・クラスの優勝はジョン・マクドナルドが獲得した。
やがてミスター・ワールドとなる。名前を呼ばれた順に舞台にあがり、つぎつぎとポーズをとっていく。これはまったくのフリー・ポーズである。
なかなか私の順番がこない。まさか忘れたわけでもあるまいと思っていたら、結局、ドン尻から4番目だった。これが最後のチャンスとばかり、いつもの倍以上の時間をかけて、自分の知るすべてのポーズを出しつくしてがんばった。この日のために1日も休まずに精進した成果を見てもらえれば、ある程度いい成績がのこせるのではないかと思った。
正直言って、この会場にきて世界の強豪たちを目のあたりに見て、いくらか自信を失ったが、私の今日までのボディビル史上、最高の体調でのぞめたのが何よりうれしかった。
ポーズをはじめると、拍手の数は以外に多く、口笛もあちこちからピー、ピー聞えてきた。そして、ポーズが終わってからもしばらく拍手は続いていた。これほど声援してもらえるとはとても信じられなかった。
私の次に、カナダのビッグ・ダウンズ、アメリカのデニス・ティネリーノ。そして、最後がイタリアのフランコ・コロンボと続く。このときの喚声たるやいくらマイクのボリュームをあげても、アナウンスの声が聞こえないほどだった。
さて、いよいよ発表である。まず部分賞からだ。もしかしたらと思い耳に全神経を集中した。そして、脚の部の発表を待った……。
だが現実は残酷だ。アナウンスの声は〝べスト・レッグ……フランコ・コロンボ!〟とさけんでいる。残念ながら私の出る幕ではなかった。この一瞬にすべての夢はくずれ去った。私のただ1つの望みはこの脚だったのである。脚がとれないとなると、世界のトップビルダーを向うにまわして勝てるものが私にあるだろうか。もう絶対だめだと覚悟をきめた。
胸の中では、チクショー、どうして俺はもっと努力をしなかったのだ、と自分自身に怒りをぶちまけた。そしてこの脚に期待していたのがなにより情けなかった。「よし、もう一度出直そう。世界の檜舞台でそう簡単に賞がとれるものか」と自分をなぐさめた。
部分賞の発表が終わり、ミスター・ワールドの順位の発表である。まず、各クラスの3位がアナウンスされた。もちろん私の名前は呼ばれなかった。コートニー・ブラウン、エリオット・ギルクリスト、オーリス・ケラーの3人が舞台にあがり、うれしそうにトロフィーをもらっている。
舞台のそでから晴れがましいこの光景をジッと見ている自分が可愛想だった。入賞した選手が帰ってきて大きなゼスチュアで祝福しあっている。うらやましい。3位に入っていないとなれば、なおさら2位以上にくいこめる自信はなかった。私は舞台裏のピアノにもたれて、どんな顔をして日本に帰ったらよいのかと、そんなことをぼんやり考えていた。(つづく)
月刊ボディビルディング1972年4月号

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